113:2005年7月 第3週 資延英樹
または、定型を武器に現実を組み替える知的な歌

風の上に軌道はあらむひと方を
     指してすぎゆくひと群(むら)の星

      資延英樹『抒情装置』(砂子屋書房 2005年刊)
 結社「未来」に所属し、未来賞を受賞した歌人の第一歌集である。瀟洒な仏蘭西装に背抜きの箱入りというなかなか凝った装丁になっている。跋文は師の岡井隆が書いている。岡井が講師を勤めていた大阪の千里カルチャーセンターの短歌講座を受講し作歌を学んだそうだ。文句なく最優秀の生徒であったと岡井は書いている。しかし、資延はポッと出で短歌に出会ったわけではなかろう。京都大学英文科を卒業して後、さまざまな読書経験を通じて文学や思想と触れ合っていたことが、歌を読めばよくわかる。下地はあったわけだ。

 歌集題名の「抒情装置」というのは、最初は短歌のことかと思ったが、次の歌を見て思い違いであることが知れた。

 たそがれの抒情装置はぽつねんと裏の芝生に夕陽見てゐし

「抒情装置」というのは〈私〉のことなのだ。それは実生活を生きている〈私〉であると同時に、作者の作る短歌の中に言葉によって押し上げられる〈私〉でもある。「〈私〉とは抒情する装置である」という言上げの中には、短歌を叙情詩とみなす態度とともに、いやなかんずく、〈私〉の自立性・内在性を自明のこととしてきた近代に対する懐疑が感じられる。

 「古典和歌の偽作を作ってみたいという半端な動機」から短歌講座を受講したというだけに、掲出歌のような文語・旧仮名遣いの歌の姿はなかなか見事なものである。

 あからひく雲の流れはちぎれつつミケランジェロの指先のその

 さにつらふ乙女もすなる独楽(どくらく)の地軸をゆらす指にもあるかな

 ぬばたまの闇に羽ばたく鵺(ぬえ)として遣はされたる下達の具はや

 散りそめしさくらの下に吾が立てば愛車はすでに死ににけらしな

 「あからひく」「さにつらふ」などの枕詞や、「~あるかな」「~はや」「~けらしな」などの終止の形式は古典和歌そのものである。一首目の「指先のその」で余韻を残して止める手法や、二首目に漂うあえかなエロス感も注目される。しかし騙されてはいけない。これらの歌は古典和歌のパスティーシュなのである。四首目「散りそめし」のいかにも古典的に散る桜と廃車寸前のポンコツ車とのミチマッチの取り合わせを見れば、作者がパスティーシュとして作ろうとしている意図は明らかである。作者は〈私〉を抒情装置と捉えている割りには、その作歌態度は実に知的であり、ある限度を超えると知的遊戯の域に達することもある。

 伊集院雅子さん今ありとせばモンテビデオの遙か南に 題詠「ビデオ」

 系統樹たぐりてゆけば出るは出るは哺乳類から早坂類まで 題詠「類」

 濃い口をちと薄めればうす口になるちふものとはつゆあらなくに 題詠「濃」

 志低う構へて返り咲く男は黙つて札幌へ行け

 秋の田の呉田軽穂の名のもとに書かれし歌の数多くあり

 議事堂に雷落ちる画像出づひとまづここはコイヅミコイヅミ

 ムロアジと真鰺のちがひを言ひ合ひし議論はいつか亜細亜の曙

 最初の三首は「題詠マラソン」の出詠歌。一首目の伊集院雅子は白血病で夭折した夏目雅子、モンテビデオは南米ウルグァイの首都で、両者のあいだには何の関係もないが、ビデオ録画で今にその画像を留めている女優と、遙か南米で生きていてほしいというファンの願望が、地口ともつかぬ掛詞に込められている。二首目の早坂類は歌人ならば説明不要で知的な遊びの歌。三首目は「つゆ」が掛詞。「なるとふ」ではなくわざと「なるちふ」として、伝法な雰囲気を醸し出している。四首目の「男は黙つて」と来れば、続きは「サッポロビール」と相場が決まっているという共通認識を土台として作られた歌。五首目の「呉田軽穂」はミュージシャン松任谷由美(ユーミン)の筆名で、往年の銀幕の名女優「グレタ・ガルボ」から取ったもの。六首目の「コイヅミコイヅミ」は「クワバラクワバラ」のもじりで、とりあえず小泉首相を前面に押し立てておけば選挙に勝てる自民党を揶揄した歌。七首目は「ムロアジ」「マアジ」ときて「アジア」で落とす仕組み。言葉遊びも交えて古典和歌の語法も自在に援用し、定型という器に何を盛ることができるかを、楽しみながら実験しているように見える。これは「大人の遊び」である。「遊び」と呼んで貶しているわけでは毛頭ない。その逆である。

 「最近の若い者は」という年寄りの繰り言と同じようで気が引けるが、他に言い方がないのでしかたなく書くのだが、「最近の若い歌人」のなかには「セカイ系」といって、〈私〉を本来取り巻いている家族・地域・社会・国家といった文化装置をすっ飛ばして、〈私〉が直接に〈世界〉と接続しており、世界のただ中で〈私〉は絶対的に孤独であるというような歌を作る人がいる。そこまで行かなくても、どこかに終末感や孤独感の漂う短歌が若い歌人のあいだに多く見られる。この傾向に時代的 / 世代的理由がないわけではないが、今回はその話は措くとして、資延の作る短歌にその傾向がまったく見られないのが驚きと言えば驚きなのである。40の手習いで短歌を作り始めたという年の功も理由のひとつだろうが、それよりも思想書・文学書に親しみ、今日では死語となった人文的「教養」を深めた人格の作り方に由来する所が大きいのではなかろうか。ヘーゲルもヴェイユも孤独だったことを知れば、世の中の見方も変わろうというものである。 

 資延のそんな部分から繰り出されるのは、思想的と形容してもよい歌群である。

 世界からわたしを消すならそれはそれ世界のひとつのあり方である

 小池さんも世界は合鍵次第だとさう言つてゐた あかねさす昼

 日々自己に非ざるものを体外に排泄しゆく営みを言ふ

 一切の罪がひとつのあやまちの自己展開だなんて言ふな、ヘーゲル

 ゴム消しも妙であつたが黒板消しますますもつて Kafkaesque な

 はじめからノブがとれてたはずはないでももしこれがドアでなければ

 ホッブスの悪夢のあとのあしたからどうすることもできぬ霜月

 一首目はこの歌集の巻頭歌。逆編年体で編まれているので、最新の歌のひとつということになる。いさぎよい所信表明である。二首目の小池さんは小池光のことか。「合鍵次第で世界は開く」というのは、なかなか含蓄に富んだ言葉である。要はどれだけの数の合鍵を持ち合わせているかだ。三首目は主語が脱落しているが、「生活とは」が主語だろう。多田富雄の免疫論を想わせる一首である。五首目はこれ自体が奇妙な歌なのだが、ゴム消しは文字を消すのでゴムを消すわけではなく、黒板消しは黒板を消すのではないというネーミングの不条理をカフカ的と表現したものだろう。六首目もおもしろい歌で、ノブがなくて開かないドアは果してドアと呼ぶことができるのかという存在論的問いを歌にしている。七首目の「ホッブスの悪夢」はリヴァイアサンのことだろう。自己保存が招く闘争状態を回避するために作られる絶対的国家である。この歌は絶対的国家論以後の政治的不毛を詠んでいるのだろう。

 この歌集には単純に景物を述べた歌が極めて少ない。「神目(かうめ)駅右手に見つつ国道はゆるく左へ曲がりゆくなり」とか、「裏山に懸かる雲居のそのうへを漉し来る光の條(すぢ)なほくして」のように、一見したところ写実に基づく叙景歌のように見える歌もある。しかし資延の態度は観察を通して素直に景物を歌にするというものではなく、事物をいったんばらばらにして短歌定型のなかでもう一度組み立て直すという知的操作である。だから歌に詠まれたどの景物にも知的操作というフィルターがかかっているので、油断がならないのである。上にあげた歌でも「神目(かうめ)駅」という岡山県に実在する駅名を読み込みながら、単なる客観描写を超えた何かを企んでいるのではないかという疑念を振り払うことができない。

 この歌集の読後感を豊かなものにしているのは、上のような知的傾向の歌と並んで異なる傾向の歌もまた読むことができるというその多様性である。注目されるのは、次のような〈世界へと向かう歌〉である。

 はじまりもなければこことふ終り莫しいくさは左様のものに御座るな

 その日から着地決まらずにつぽんは痛いところをつかれましたな

 そは利器にあらで野蛮の極みとぞ見てゐしわれが持たされてある

 だれの目にもはつきりしてたはづれたらそれをボールといふのだ、ボール

 これの世に降る雨の色のくさぐさに野原は染まる国原染まる

 ミカエルが暗視装置に窺いてるユーフラテスの左岸の闇を

 いずれも最近の戦争を背景として作られた歌である。いつの間にか始まる戦争、知らないうちに荷担させられている戦争という、昔とは性格を殊にする現代の戦争の捉えどころのなさを詠っている。ボールの歌はいろいろな解釈が可能だが、上のような文脈に置いてやれば、作者の憤りが浮き彫りになる。最後の歌はイラク戦争に直接題を得たものだが、ミカエルがキリスト教で破壊を司る大天使であることを想えば、争いと憎しみの根の深さに暗澹とせざるをえない。

 『抒情装置』はこのように、古典和歌以来の文語定型の遺産を自家薬籠中のものとして短歌筋肉を鍛え上げた作者が、知的遊びも交えつつ定型という器にさまざまな物を盛る試みをしている最近では見かけることの少ない歌集である。「小池さん」の言葉を借りるならば、資延には「合鍵」がたくさんあるようだ。これは大事なことである。現代にあって誰も徒手空拳では短歌に挑むことはできないのだから。

 最後に特に好きな歌をあげておこう。

 ソマリアに足を向けつつあさなさな千切りしパンが食卓にある

 カッターの刃先を一枚折りとれば鋼の匂ふ夏のゆふぐれ

 象に亦、群れを離れて死にせむとする習ひあり 八月に礼(ゐや)