第150回 資延英樹『リチェルカーレ』『NUTS』

右クリック、左ワトソン並び立つ影ぞ巻きつる二重螺旋に
              資延英樹『リチェルカーレ』 
 右クリックといえば、誰でもパソコンのマウス操作を思い浮かべるだろう。ところが「左ワトソン」と続くので肩すかしを食らう。作者はこの肩すかしをしてやったりと楽しんでいるのである。クリックとワトソンは1953年にDNAの二重螺旋構造を解明したことで有名な学者である。「並び立つ」とあるので、どこかに銅像が立っているのだろう。「影ぞ巻つる」にも「蔓」との懸詞があるのかもしれない。なにせ油断がならないのである。銅像に影が二重螺旋に巻き付いているなどということは現実には考えられないことだが、二人の科学上の業績を象徴しているのだろう。ちなみに1953年に科学雑誌Natureに投稿された二人の論文がわずか2ページだったことはよく知られている。真理は短かく語れるのだ。
 資延英樹(すけのぶ ひでき)が第一歌集『抒情装置』で短歌界に颯爽と登場したのは 2005年のことであった。私は当時この歌集を取り上げて批評を書いた。それ以来なりを潜めていた資延が2013年に『リチェルカーレ』と『NUTS』という歌集を2冊同時に上梓したのだが、あとがきを読んで驚愕した。作者は2010年に突然昏倒して病院に運ばれ、半月の間意識不明になったという。いったん退院するが再入院したところ「鍋から噴きこぼれる勢いで」歌が生まれたという。『リチェルカーレ』は病魔が襲うまでに「未来」誌上に発表した歌をまとめた歌集で、『NUTS』は病院で溢れ出た歌をまとめたもので、性格をまったく異にする2冊だという。
 まず『リチェルカーレ』だが、一読して驚くのはその文体の多様性である。そもそも資延は、岡井隆が千里カルチャーセンターで開いていた短歌講座で短歌を学んだのだが、古典和歌の偽作を作ってみたいという動機があったという。だから換骨奪胎とパスティーシュはお手の物なのである。
激しかる議論の二ツ三ツありてやうやうすぎゆく年とこそ思へ
くれゆくにまかするほかに道はなし花散る方のそらを見てゐし
夜をこめて滲み出だしたる珈琲の香ぞ聞こえくるあさのひととき
夏風邪と共に去りぬといへばこそ亡きひと恋ふれ宿の秋風
 一首目の「激しかる」「年とこそ思へ」、二首目の「花散る方」、三首目の「夜をこめて」、四首目の「宿の秋風」などはお馴染みの古典和歌の語法であり、短歌の随所に散りばめてある。おまけに「夏風邪と共に去りぬ」は、夏風邪と名画「風と共に去りぬ」を懸けてあり、機知の歌と言ってよいだろう。このような機知は随所に見てとれる。
秋の田のカリフォルニアの保弖留よりFAX一枚届きにけりな
花水木しげる青葉の下闇の境港を鬼太郎がゆく
アングルのせいゐとばかりは言へないさ彼のオダリスクの陰淡くして
ほかならぬ堅いお菓子ぞわが師にはおこしひとつも奉らむか
             (原文では「おこし」は漢字表記)
 一首目は言うまでもなく、百人一首巻頭歌の天智天皇の御製「秋の田のかりほのいほの」のパスティーシュで、イーグルスの名曲ホテル・カリフォルニアと懸けてある。二首目はゲゲゲの鬼太郎の作者水木しげるが詠み込まれている。三首目のアングルは、絵を描く角度という意味と画家のアングルが二重になっている。四首目の「堅いお菓子」は師の岡井隆のアナグラムである。才気溢れる歌の作りで、作者は情よりは知に傾むく人と見える。
 一方『NUTS』はまるでがちがう。次のように身に降りかかった出来事をそのまま詠んだ歌があるが、印象はとにかく饒舌というものである。『リチェルカーレ』には多く見られた古典和歌のパスティーシュは影を潜め、口語体の歌が多くなり、定型に収まらないものも多くある。
全然覚えてゐないそこから車椅子で運ばれたなんてどつこにもこれつぽつちも
霧多き三田さんだの町の丘の上にあるサナトリウムにかくまはれて
啄木は病気なりしとたれかいふ吾も五〇〇首を日に詠みたれば
二回目の入院にして慢心の創意のもとに書きをりわれは
処置室に心電図計測を待つひとしきりふぶいたあとの窓はしめられ
 三田は神戸から六甲山を越えた北側にある町である。サナトリウムに入院したことからトーマス・マンとの連想が働いたり、三首目のように啄木を連想したりしている。啄木は立身出世のために小説家をめざすも志を得ず、短歌だけは呼吸するように口をついて出てきたという。一日に500首とはさすがに多すぎると思うが、鍋から吹きこぼれるように歌が生まれたというのは事実なのだろう。それは一種の興奮状態である。脳の機能が亢進しているので、「もの凄く頭の冴えて吹く風の手前に青のあきかぜぞ吹く」という歌が示すように、感覚が異常に鋭敏になって、風の色の違いまでも知覚する(と信じる)ようになる。また頭の中でもの凄い勢いで連想がぐるぐる回っているのではないかと思える歌もある。
パイポパイポパイポノチューリンゲン、ゲッティンゲンに黒鳥を見た
また雪が降つてくれればアダモ喜ぶついでにサッチモ聴きたくもあり
ナガサワと思ひて入るもさにあらでキング・サニー・アデの名出でつ
桂木洋子さん似のところでつまづいてあとが出てこぬその某の
 一首目は落語の寿限無の「パイポパイポパイポのシューリンガン」からチューリンゲンへ、ゲッティンゲンへととめどなく連想が滑ってゆく。三首目のキング・サニー・アデはナイジェリアの音楽家、桂木洋子は往年の映画女優。
 『NUTS』は稀な体験から誕生したものなので、評価の難しい歌集だと思う。しかし読んでいて不思議なリアル感を感じることもまた事実である。

113:2005年7月 第3週 資延英樹
または、定型を武器に現実を組み替える知的な歌

風の上に軌道はあらむひと方を
     指してすぎゆくひと群(むら)の星

      資延英樹『抒情装置』(砂子屋書房 2005年刊)
 結社「未来」に所属し、未来賞を受賞した歌人の第一歌集である。瀟洒な仏蘭西装に背抜きの箱入りというなかなか凝った装丁になっている。跋文は師の岡井隆が書いている。岡井が講師を勤めていた大阪の千里カルチャーセンターの短歌講座を受講し作歌を学んだそうだ。文句なく最優秀の生徒であったと岡井は書いている。しかし、資延はポッと出で短歌に出会ったわけではなかろう。京都大学英文科を卒業して後、さまざまな読書経験を通じて文学や思想と触れ合っていたことが、歌を読めばよくわかる。下地はあったわけだ。

 歌集題名の「抒情装置」というのは、最初は短歌のことかと思ったが、次の歌を見て思い違いであることが知れた。

 たそがれの抒情装置はぽつねんと裏の芝生に夕陽見てゐし

「抒情装置」というのは〈私〉のことなのだ。それは実生活を生きている〈私〉であると同時に、作者の作る短歌の中に言葉によって押し上げられる〈私〉でもある。「〈私〉とは抒情する装置である」という言上げの中には、短歌を叙情詩とみなす態度とともに、いやなかんずく、〈私〉の自立性・内在性を自明のこととしてきた近代に対する懐疑が感じられる。

 「古典和歌の偽作を作ってみたいという半端な動機」から短歌講座を受講したというだけに、掲出歌のような文語・旧仮名遣いの歌の姿はなかなか見事なものである。

 あからひく雲の流れはちぎれつつミケランジェロの指先のその

 さにつらふ乙女もすなる独楽(どくらく)の地軸をゆらす指にもあるかな

 ぬばたまの闇に羽ばたく鵺(ぬえ)として遣はされたる下達の具はや

 散りそめしさくらの下に吾が立てば愛車はすでに死ににけらしな

 「あからひく」「さにつらふ」などの枕詞や、「~あるかな」「~はや」「~けらしな」などの終止の形式は古典和歌そのものである。一首目の「指先のその」で余韻を残して止める手法や、二首目に漂うあえかなエロス感も注目される。しかし騙されてはいけない。これらの歌は古典和歌のパスティーシュなのである。四首目「散りそめし」のいかにも古典的に散る桜と廃車寸前のポンコツ車とのミチマッチの取り合わせを見れば、作者がパスティーシュとして作ろうとしている意図は明らかである。作者は〈私〉を抒情装置と捉えている割りには、その作歌態度は実に知的であり、ある限度を超えると知的遊戯の域に達することもある。

 伊集院雅子さん今ありとせばモンテビデオの遙か南に 題詠「ビデオ」

 系統樹たぐりてゆけば出るは出るは哺乳類から早坂類まで 題詠「類」

 濃い口をちと薄めればうす口になるちふものとはつゆあらなくに 題詠「濃」

 志低う構へて返り咲く男は黙つて札幌へ行け

 秋の田の呉田軽穂の名のもとに書かれし歌の数多くあり

 議事堂に雷落ちる画像出づひとまづここはコイヅミコイヅミ

 ムロアジと真鰺のちがひを言ひ合ひし議論はいつか亜細亜の曙

 最初の三首は「題詠マラソン」の出詠歌。一首目の伊集院雅子は白血病で夭折した夏目雅子、モンテビデオは南米ウルグァイの首都で、両者のあいだには何の関係もないが、ビデオ録画で今にその画像を留めている女優と、遙か南米で生きていてほしいというファンの願望が、地口ともつかぬ掛詞に込められている。二首目の早坂類は歌人ならば説明不要で知的な遊びの歌。三首目は「つゆ」が掛詞。「なるとふ」ではなくわざと「なるちふ」として、伝法な雰囲気を醸し出している。四首目の「男は黙つて」と来れば、続きは「サッポロビール」と相場が決まっているという共通認識を土台として作られた歌。五首目の「呉田軽穂」はミュージシャン松任谷由美(ユーミン)の筆名で、往年の銀幕の名女優「グレタ・ガルボ」から取ったもの。六首目の「コイヅミコイヅミ」は「クワバラクワバラ」のもじりで、とりあえず小泉首相を前面に押し立てておけば選挙に勝てる自民党を揶揄した歌。七首目は「ムロアジ」「マアジ」ときて「アジア」で落とす仕組み。言葉遊びも交えて古典和歌の語法も自在に援用し、定型という器に何を盛ることができるかを、楽しみながら実験しているように見える。これは「大人の遊び」である。「遊び」と呼んで貶しているわけでは毛頭ない。その逆である。

 「最近の若い者は」という年寄りの繰り言と同じようで気が引けるが、他に言い方がないのでしかたなく書くのだが、「最近の若い歌人」のなかには「セカイ系」といって、〈私〉を本来取り巻いている家族・地域・社会・国家といった文化装置をすっ飛ばして、〈私〉が直接に〈世界〉と接続しており、世界のただ中で〈私〉は絶対的に孤独であるというような歌を作る人がいる。そこまで行かなくても、どこかに終末感や孤独感の漂う短歌が若い歌人のあいだに多く見られる。この傾向に時代的 / 世代的理由がないわけではないが、今回はその話は措くとして、資延の作る短歌にその傾向がまったく見られないのが驚きと言えば驚きなのである。40の手習いで短歌を作り始めたという年の功も理由のひとつだろうが、それよりも思想書・文学書に親しみ、今日では死語となった人文的「教養」を深めた人格の作り方に由来する所が大きいのではなかろうか。ヘーゲルもヴェイユも孤独だったことを知れば、世の中の見方も変わろうというものである。 

 資延のそんな部分から繰り出されるのは、思想的と形容してもよい歌群である。

 世界からわたしを消すならそれはそれ世界のひとつのあり方である

 小池さんも世界は合鍵次第だとさう言つてゐた あかねさす昼

 日々自己に非ざるものを体外に排泄しゆく営みを言ふ

 一切の罪がひとつのあやまちの自己展開だなんて言ふな、ヘーゲル

 ゴム消しも妙であつたが黒板消しますますもつて Kafkaesque な

 はじめからノブがとれてたはずはないでももしこれがドアでなければ

 ホッブスの悪夢のあとのあしたからどうすることもできぬ霜月

 一首目はこの歌集の巻頭歌。逆編年体で編まれているので、最新の歌のひとつということになる。いさぎよい所信表明である。二首目の小池さんは小池光のことか。「合鍵次第で世界は開く」というのは、なかなか含蓄に富んだ言葉である。要はどれだけの数の合鍵を持ち合わせているかだ。三首目は主語が脱落しているが、「生活とは」が主語だろう。多田富雄の免疫論を想わせる一首である。五首目はこれ自体が奇妙な歌なのだが、ゴム消しは文字を消すのでゴムを消すわけではなく、黒板消しは黒板を消すのではないというネーミングの不条理をカフカ的と表現したものだろう。六首目もおもしろい歌で、ノブがなくて開かないドアは果してドアと呼ぶことができるのかという存在論的問いを歌にしている。七首目の「ホッブスの悪夢」はリヴァイアサンのことだろう。自己保存が招く闘争状態を回避するために作られる絶対的国家である。この歌は絶対的国家論以後の政治的不毛を詠んでいるのだろう。

 この歌集には単純に景物を述べた歌が極めて少ない。「神目(かうめ)駅右手に見つつ国道はゆるく左へ曲がりゆくなり」とか、「裏山に懸かる雲居のそのうへを漉し来る光の條(すぢ)なほくして」のように、一見したところ写実に基づく叙景歌のように見える歌もある。しかし資延の態度は観察を通して素直に景物を歌にするというものではなく、事物をいったんばらばらにして短歌定型のなかでもう一度組み立て直すという知的操作である。だから歌に詠まれたどの景物にも知的操作というフィルターがかかっているので、油断がならないのである。上にあげた歌でも「神目(かうめ)駅」という岡山県に実在する駅名を読み込みながら、単なる客観描写を超えた何かを企んでいるのではないかという疑念を振り払うことができない。

 この歌集の読後感を豊かなものにしているのは、上のような知的傾向の歌と並んで異なる傾向の歌もまた読むことができるというその多様性である。注目されるのは、次のような〈世界へと向かう歌〉である。

 はじまりもなければこことふ終り莫しいくさは左様のものに御座るな

 その日から着地決まらずにつぽんは痛いところをつかれましたな

 そは利器にあらで野蛮の極みとぞ見てゐしわれが持たされてある

 だれの目にもはつきりしてたはづれたらそれをボールといふのだ、ボール

 これの世に降る雨の色のくさぐさに野原は染まる国原染まる

 ミカエルが暗視装置に窺いてるユーフラテスの左岸の闇を

 いずれも最近の戦争を背景として作られた歌である。いつの間にか始まる戦争、知らないうちに荷担させられている戦争という、昔とは性格を殊にする現代の戦争の捉えどころのなさを詠っている。ボールの歌はいろいろな解釈が可能だが、上のような文脈に置いてやれば、作者の憤りが浮き彫りになる。最後の歌はイラク戦争に直接題を得たものだが、ミカエルがキリスト教で破壊を司る大天使であることを想えば、争いと憎しみの根の深さに暗澹とせざるをえない。

 『抒情装置』はこのように、古典和歌以来の文語定型の遺産を自家薬籠中のものとして短歌筋肉を鍛え上げた作者が、知的遊びも交えつつ定型という器にさまざまな物を盛る試みをしている最近では見かけることの少ない歌集である。「小池さん」の言葉を借りるならば、資延には「合鍵」がたくさんあるようだ。これは大事なことである。現代にあって誰も徒手空拳では短歌に挑むことはできないのだから。

 最後に特に好きな歌をあげておこう。

 ソマリアに足を向けつつあさなさな千切りしパンが食卓にある

 カッターの刃先を一枚折りとれば鋼の匂ふ夏のゆふぐれ

 象に亦、群れを離れて死にせむとする習ひあり 八月に礼(ゐや)