校廊のどこかで冷える10円玉
むらさき色に暮れる学園
笹 公人『念力家族』
むらさき色に暮れる学園
笹 公人『念力家族』
Googleで「笹公人」と入力して検索すると3万件を越えるヒットがある。たいへんな数であるが,笹がテクノポップバンド・宇宙ヤングとして活動している他,作詞家・ラジオDJなど多方面で活躍しており,「露出度」が高いことを考えればそれほど驚くにはあたらない。「歌人」という肩書きは笹の活動のひとつにすぎないのである。第一歌集『念力家族』は演出家・蜷川幸雄の帯文に岡井隆の跋文を添え,このたび刊行された第二歌集『念力図鑑』はコピーライター・糸井重里の帯文に小池光の跋文が付されているという豪華さである。歌壇外の人から推薦文をもらっているところがポイントだ。装丁も変わっていて,1ページに1首・大活字で3~4行書きされていて,本の大きさも聖書サイズである。「1ページに1首」というのは歌人の憧れだが,「大活字で3~4行書き」というのは,北原白秋の『桐の花』と同じ組み方なのだそうだ。笹は意外に「知っているヒト」なのである
笹は1975年 (昭和50年) 生まれ。17歳の頃に寺山修司の短歌を読み,衝撃を受けて短歌を作り始めたという出発点を持つ。「未来」短歌会に所属。第一歌集『念力家族』に収録された歌のほとんどは高校生と浪人生の時代に作ったものだという。まずはその異色の笹ワールドを紹介しよう。
注射針曲がりてとまどう医者を見る念力少女の笑顔まぶしく
ベランダでUFOを呼ぶ妹の呪文が響くわが家の夜に
組体操のピラミッドの上(え)に立ちたれば太陽神を拝む弟
時間割の余白に「相撲」と書き込めばふんどし姿のクラス一同
落ちてくる黒板消しを宙に止め3年C組念力先生
無口なるクラスメートを訪ねれば黒ミサ中の部屋の闇濃き
歌の舞台のほとんどは家庭と学校なのだが,「念力」「サイキック」などの超常現象がごく普通に起きている世界であり,これはひとことで言って「高校生の授業中の妄想」の世界である。つまらない授業を受けているときに,教科書の余白に鉛筆でいたずら書きしながら,「今こんなことが起きたらおもしろいだろうな」と考える,そのような妄想である。妄想は目の前の現実からの逃避なのだが,それは同時に文学の種でもあり揺籃ともなりうる。青森県に生まれ故郷からの想像力による脱出を夢見たのは寺山修司であり,天井桟敷を舞台とする寺山の活動はすべて彼の妄想と言えないこともない。この意味において,笹は寺山の直系の子孫である。事実,笹の短歌には寺山を下敷きにしたものもある。
立たされたまんま死にたる子のために建立されし廊下地蔵や
しろたえの美穂さんいないファミレスのブレンドコーヒーかくまでにがし
一首目は寺山の「間引かれしゆゑに一生欠席する学校地獄のおとうとの椅子」を,二首目は「ふるさとのなまりなくせし友といてモカコーヒーはかくまでにがし」を意識して作られたものだろう。
『短歌ヴァーサス』第5号の「新鋭歌集の最前線」という特集で,笹の『念力家族』を取り上げた藤原龍一郎は,短歌がサブカルチャーをどのように取り入れるかという現状分析を尻目に,サブカルチャーそのものとして出現したところにこの歌集の価値があると述べた。そして笹の短歌においては,「私性」とか「虚構性」などという歌壇でかまびすしく論じられた問題は軽々と超越されており,「笑芸」としての短歌というまったく新しいジャンルを切り開いたと結論づけている。
確かに笹の短歌は笑える短歌である。
すさまじき腋臭の少女あらわれて仏間に響く祖母の真言
ケイタイに甘い囁き残されてアコムの前に立ち尽くす兄
秋晴れにかがやく背中の文様のカムニひとりで勝てる紅組
一首目は「すさまじき腋臭の少女あらわれて」で始まる連作「魔除け少女」から。これはほとんど不条理マンガの世界である。二首目ではキャバクラにはまった兄とサラ金の取り合わせという設定がリアルで笑えない向きもあるかもしれない。三首目は「転校生はガワン族」という連作から。転校生がニューギニアの奥地に住むガワン族だという設定で,カムニ君はずば抜けた身体能力と呪術の力で紅組を勝利に導くのである。ちなみにこれは諸星大二郎の傑作マンガ『マッドメン』に想を得た連作である。
短歌の発表媒体として笹は所属する歌誌「未来」以外に,ファンタジー系の少女マンガ誌「ネムキ」に念力短歌道場として4コママンガと短歌のコラボレーションを発表したりしているので,藤原の言うようにサブカルチャーと親和性が高いことは事実である。また自分のホームページでもグラビアアイドル眞鍋かをりを讃える短歌を一般から募集したりしている。笹のふたつの歌集の出版元も「宝珍」と「幻冬社」でふだん歌集出版とはあまり縁のない出版社である。砂子屋書房に持ち込んでも出版してもらえなかったかもしれない。しかし笹の短歌を藤原のように「お笑い短歌」というジャンルに入れてしまうのはどうだろうか。
私が笹の歌集を読んで考えたのは「読者」の問題である。笹は高校時代に短歌を作り始めたというから,きっと大学ノートの余白に思いついた歌を書いていたのだろう。しかし作った歌を書き留めただけではなく,きっとクラスメートにその短歌を見せたはずだ。そしてクラスメートから「おもしろい」と言われて喜んだはずだ。笹の短歌には身近な「読者」がいたのであり,その場で返ってくる読者の反応を喜びとしてさらに歌を作ったはずなのである。ここには表現の「現場性」があり,作者と読者の「交通」がある。この「現場性」と「交通」とは近代短歌が文学となるにしたがって,徐々に失われてきたものであることもまた事実なのである。だから笹の短歌は文学と成りおおせた近代短歌が失ったものを回復する試みと捉えることができる。
「すばる」10月号の「短詩型文学の試み」という特集で,清水哲男が誘われて句会に通い始めたときの衝撃を文章にしている。かいつまんで言うと,俳句は座の文学であり俳句には必ず読者が存在するということが,長年現代詩を作ってきた自分には新鮮な驚きだったという内容である。清水によれば,現代詩とは「まるで虚空にむけて鉄砲を撃つような案配だから,詩の書き手にとっては,俳句での座が夢のように思われてしまう」という。現代詩が袋小路にはまり込んだように見えるのは,「虚空にむけて鉄砲を撃つ」ようなことを続けてきたからである。
こう書くと短歌には歌会というものがあり,そこでは持ち寄った歌を披露しあって批評するのだから,作者と読者のあいだの交通はちゃんとあるという反論が返ってくるかもしれない。しかし歌会に出席しているのはみんな歌を作る人であり,批評も「ここはこうした方がいい歌になる」方式のものだから,それは純粋な読者ではない。いってみればプロの料理人が閉店後の店に集まって互いの料理を味見し合い,研鑽を積んでいるようなものだ。一般客はとっくに帰宅しているのである。
笹の短歌が想定しているのはこのような読者ではない。ノートの切れ端に書いた歌を見せたら,その場でおもしろがってくれるような読者である。家族・学校など身近な場から採った題材や,徹底した「内面」の不在といった笹の短歌の特徴は,この表現の「現場性」と読者との「即時的交通」という笹の短歌観から直接に由来するものである。
藤原の言う「笑芸」としての笹短歌という見方に賛成できないもうひとつの理由は,笹の短歌がしばしば醸し出す抒情性である。私は笑える短歌よりも,むしろこちらの方に注意を引かれた。
モノクロの写真でいつか見た人がわれに微笑むお盆の夜に
中央線に揺られる少女の精神外傷(トラウマ)をバターのように溶かせ夕焼け
自転車で八百屋の棚に突っ込んだあの夏の日よ 緑まみれの
空襲の夜の紅(くれない)にさざめきぬ一升瓶の底の米たち
ゆうぐれの電柱太し ベレー帽の少年探偵裏に隠して
今宵祖父の命日なればまぼろしの暴れ馬いま部屋をよぎれり
死者たちの団欒映すテレビジョンは涙に濡れて月燃え上がる
これらの歌はお笑い路線とは異なる波長の歌であり,上質の抒情が漂っている。若い頃に寺山修司に傾倒した笹の資質はこのような歌に最もよく顕れていると言える。そしてこのような歌においても,笹短歌の特徴である場面設定の明確さと語法の洗練による「わかりやすさ」はきちんと実現されており,抒情はあっても過剰な内面はない。
一首目は,「またひとり顔なき男あらはれて暗き踊りの輪をひろげゆく」という岡野弘彦の歌とどこかで通底するものを持っており,「モノクロ写真」「お盆」といった用語に昭和の懐かしさが感じられる。二首目のトラウマ少女が乗っているのは中央線だが,中央線は飛び込み自殺者が多いところにその必然性があることにも注意してよいだろう。ちなみに笹の短歌で「バターのように」のような喩はごく稀にしか使われていない。三首目は青春短歌としても秀逸。四首目を読んでなぜ一升瓶の底に米があるのかと若い人は不思議に思うかもしれない。戦時中はやっとのことで手に入れたヤミ米を一升瓶に入れて棒で突いて精米したのである。底に少ししか米がないところもポイントのひとつ。五首目は江戸川乱歩を下敷きにしたもの。六首目・七首目は着想の元がよくわからないのだが,ともに死者を詠って秀逸である。どこかに下校時の夕焼けのようなレトロな懐かしさが漂うところも笹短歌の大きな魅力である。
笹の短歌を単なる「色モノ」としてではなく,真面目に取り上げて論じるほうがよいと思う。もっとも笹本人はおもしろがってもらえれば本望なので,あまり真面目に論じられるとかえって迷惑かもしれないが。最後にひとつだけ不満を述べれば,『念力家族』も『念力図鑑』もどちらも15分で読んでしまった。今度はもっと楽しみが長く続くことを期待したい。
笹公人のホームページへ
笹は1975年 (昭和50年) 生まれ。17歳の頃に寺山修司の短歌を読み,衝撃を受けて短歌を作り始めたという出発点を持つ。「未来」短歌会に所属。第一歌集『念力家族』に収録された歌のほとんどは高校生と浪人生の時代に作ったものだという。まずはその異色の笹ワールドを紹介しよう。
注射針曲がりてとまどう医者を見る念力少女の笑顔まぶしく
ベランダでUFOを呼ぶ妹の呪文が響くわが家の夜に
組体操のピラミッドの上(え)に立ちたれば太陽神を拝む弟
時間割の余白に「相撲」と書き込めばふんどし姿のクラス一同
落ちてくる黒板消しを宙に止め3年C組念力先生
無口なるクラスメートを訪ねれば黒ミサ中の部屋の闇濃き
歌の舞台のほとんどは家庭と学校なのだが,「念力」「サイキック」などの超常現象がごく普通に起きている世界であり,これはひとことで言って「高校生の授業中の妄想」の世界である。つまらない授業を受けているときに,教科書の余白に鉛筆でいたずら書きしながら,「今こんなことが起きたらおもしろいだろうな」と考える,そのような妄想である。妄想は目の前の現実からの逃避なのだが,それは同時に文学の種でもあり揺籃ともなりうる。青森県に生まれ故郷からの想像力による脱出を夢見たのは寺山修司であり,天井桟敷を舞台とする寺山の活動はすべて彼の妄想と言えないこともない。この意味において,笹は寺山の直系の子孫である。事実,笹の短歌には寺山を下敷きにしたものもある。
立たされたまんま死にたる子のために建立されし廊下地蔵や
しろたえの美穂さんいないファミレスのブレンドコーヒーかくまでにがし
一首目は寺山の「間引かれしゆゑに一生欠席する学校地獄のおとうとの椅子」を,二首目は「ふるさとのなまりなくせし友といてモカコーヒーはかくまでにがし」を意識して作られたものだろう。
『短歌ヴァーサス』第5号の「新鋭歌集の最前線」という特集で,笹の『念力家族』を取り上げた藤原龍一郎は,短歌がサブカルチャーをどのように取り入れるかという現状分析を尻目に,サブカルチャーそのものとして出現したところにこの歌集の価値があると述べた。そして笹の短歌においては,「私性」とか「虚構性」などという歌壇でかまびすしく論じられた問題は軽々と超越されており,「笑芸」としての短歌というまったく新しいジャンルを切り開いたと結論づけている。
確かに笹の短歌は笑える短歌である。
すさまじき腋臭の少女あらわれて仏間に響く祖母の真言
ケイタイに甘い囁き残されてアコムの前に立ち尽くす兄
秋晴れにかがやく背中の文様のカムニひとりで勝てる紅組
一首目は「すさまじき腋臭の少女あらわれて」で始まる連作「魔除け少女」から。これはほとんど不条理マンガの世界である。二首目ではキャバクラにはまった兄とサラ金の取り合わせという設定がリアルで笑えない向きもあるかもしれない。三首目は「転校生はガワン族」という連作から。転校生がニューギニアの奥地に住むガワン族だという設定で,カムニ君はずば抜けた身体能力と呪術の力で紅組を勝利に導くのである。ちなみにこれは諸星大二郎の傑作マンガ『マッドメン』に想を得た連作である。
短歌の発表媒体として笹は所属する歌誌「未来」以外に,ファンタジー系の少女マンガ誌「ネムキ」に念力短歌道場として4コママンガと短歌のコラボレーションを発表したりしているので,藤原の言うようにサブカルチャーと親和性が高いことは事実である。また自分のホームページでもグラビアアイドル眞鍋かをりを讃える短歌を一般から募集したりしている。笹のふたつの歌集の出版元も「宝珍」と「幻冬社」でふだん歌集出版とはあまり縁のない出版社である。砂子屋書房に持ち込んでも出版してもらえなかったかもしれない。しかし笹の短歌を藤原のように「お笑い短歌」というジャンルに入れてしまうのはどうだろうか。
私が笹の歌集を読んで考えたのは「読者」の問題である。笹は高校時代に短歌を作り始めたというから,きっと大学ノートの余白に思いついた歌を書いていたのだろう。しかし作った歌を書き留めただけではなく,きっとクラスメートにその短歌を見せたはずだ。そしてクラスメートから「おもしろい」と言われて喜んだはずだ。笹の短歌には身近な「読者」がいたのであり,その場で返ってくる読者の反応を喜びとしてさらに歌を作ったはずなのである。ここには表現の「現場性」があり,作者と読者の「交通」がある。この「現場性」と「交通」とは近代短歌が文学となるにしたがって,徐々に失われてきたものであることもまた事実なのである。だから笹の短歌は文学と成りおおせた近代短歌が失ったものを回復する試みと捉えることができる。
「すばる」10月号の「短詩型文学の試み」という特集で,清水哲男が誘われて句会に通い始めたときの衝撃を文章にしている。かいつまんで言うと,俳句は座の文学であり俳句には必ず読者が存在するということが,長年現代詩を作ってきた自分には新鮮な驚きだったという内容である。清水によれば,現代詩とは「まるで虚空にむけて鉄砲を撃つような案配だから,詩の書き手にとっては,俳句での座が夢のように思われてしまう」という。現代詩が袋小路にはまり込んだように見えるのは,「虚空にむけて鉄砲を撃つ」ようなことを続けてきたからである。
こう書くと短歌には歌会というものがあり,そこでは持ち寄った歌を披露しあって批評するのだから,作者と読者のあいだの交通はちゃんとあるという反論が返ってくるかもしれない。しかし歌会に出席しているのはみんな歌を作る人であり,批評も「ここはこうした方がいい歌になる」方式のものだから,それは純粋な読者ではない。いってみればプロの料理人が閉店後の店に集まって互いの料理を味見し合い,研鑽を積んでいるようなものだ。一般客はとっくに帰宅しているのである。
笹の短歌が想定しているのはこのような読者ではない。ノートの切れ端に書いた歌を見せたら,その場でおもしろがってくれるような読者である。家族・学校など身近な場から採った題材や,徹底した「内面」の不在といった笹の短歌の特徴は,この表現の「現場性」と読者との「即時的交通」という笹の短歌観から直接に由来するものである。
藤原の言う「笑芸」としての笹短歌という見方に賛成できないもうひとつの理由は,笹の短歌がしばしば醸し出す抒情性である。私は笑える短歌よりも,むしろこちらの方に注意を引かれた。
モノクロの写真でいつか見た人がわれに微笑むお盆の夜に
中央線に揺られる少女の精神外傷(トラウマ)をバターのように溶かせ夕焼け
自転車で八百屋の棚に突っ込んだあの夏の日よ 緑まみれの
空襲の夜の紅(くれない)にさざめきぬ一升瓶の底の米たち
ゆうぐれの電柱太し ベレー帽の少年探偵裏に隠して
今宵祖父の命日なればまぼろしの暴れ馬いま部屋をよぎれり
死者たちの団欒映すテレビジョンは涙に濡れて月燃え上がる
これらの歌はお笑い路線とは異なる波長の歌であり,上質の抒情が漂っている。若い頃に寺山修司に傾倒した笹の資質はこのような歌に最もよく顕れていると言える。そしてこのような歌においても,笹短歌の特徴である場面設定の明確さと語法の洗練による「わかりやすさ」はきちんと実現されており,抒情はあっても過剰な内面はない。
一首目は,「またひとり顔なき男あらはれて暗き踊りの輪をひろげゆく」という岡野弘彦の歌とどこかで通底するものを持っており,「モノクロ写真」「お盆」といった用語に昭和の懐かしさが感じられる。二首目のトラウマ少女が乗っているのは中央線だが,中央線は飛び込み自殺者が多いところにその必然性があることにも注意してよいだろう。ちなみに笹の短歌で「バターのように」のような喩はごく稀にしか使われていない。三首目は青春短歌としても秀逸。四首目を読んでなぜ一升瓶の底に米があるのかと若い人は不思議に思うかもしれない。戦時中はやっとのことで手に入れたヤミ米を一升瓶に入れて棒で突いて精米したのである。底に少ししか米がないところもポイントのひとつ。五首目は江戸川乱歩を下敷きにしたもの。六首目・七首目は着想の元がよくわからないのだが,ともに死者を詠って秀逸である。どこかに下校時の夕焼けのようなレトロな懐かしさが漂うところも笹短歌の大きな魅力である。
笹の短歌を単なる「色モノ」としてではなく,真面目に取り上げて論じるほうがよいと思う。もっとも笹本人はおもしろがってもらえれば本望なので,あまり真面目に論じられるとかえって迷惑かもしれないが。最後にひとつだけ不満を述べれば,『念力家族』も『念力図鑑』もどちらも15分で読んでしまった。今度はもっと楽しみが長く続くことを期待したい。
笹公人のホームページへ