120:2005年9月 第1週 今野寿美
または、世界に耳を澄ませて身内の音楽を聴く

光芒の水に折れゆく見てあれば
      調絃の音ほのかにきざす

           今野寿美『花絆』
 大学は夏休みというのに我慢大会のような長時間の会議に出席して,脳の皺が伸びてつるつるになったような気になった。こうなるともう何も考えることができない。こういうときには歌集を読むに限る。今野寿美の『花絆』を手に取って読み始めると,言葉に寄り添うように脳のなかに快いリズムが刻まれ,つるつるの脳に陰翳の濃淡が生まれて,灰白質の皺が再生するのが感じられる。

 掲出歌では,降り注ぐ光の屈折を見ているうちに,オーケストラの調絃の音が耳に聞こえて来ると詠まれているが,この音はもとより現実の音ではない。光という外的刺激を契機として,身内に鳴り響く音楽である。〈私〉は〈世界〉に耳を澄ませる。すると身体の内に音楽が聞こえて来る。今野は世界に耳を澄ませる存在であり,鳴り響く音楽は魂の調べでもあろう。解説を寄せた塚本邦雄はこの歌を,今日までの今野の最高作と断定しているが,確かに作者の深い資質をよく表わしている歌であり,私も文句なく付箋を付けた一首である。

 今野は1952年(昭和27年)生まれ。馬場あき子に師事し,「まひる野」から「かりん」に参加,その後夫君の三枝昂之とともに歌誌「りとむ」を創刊している。第一歌集『花絆』(1981年),第二歌集『星刈り』(1983年),第三歌集『世紀末の桃』(1988年 現代短歌女流賞) 以下,第七歌集『龍笛』(2004年 葛原妙子賞) までがある。今回は入手しやすい雁書館の「2 in 1 シリーズ」で『花絆』と『星刈り』のみを読んだ。今野は大学で古典文学を専攻し,卒業論文で源氏物語を取り上げただけあって,豊かな古典の素養から自在に繰り出される言葉は馥郁として典雅で,現代の文語による女歌を代表する歌人といってよいだろう。

 今野の歌を虚心坦懐に読んでまず感じるのは,歌のなかに確かなリズムが刻まれ,そこに沈黙の音楽が流れているという感覚である。集中のどの歌を取ってもよい。試しにいくつかランダムに引用してみよう。

 陽の重さ瞳の重さはかりをりひそかにひとを想ふといふこと

 夕暮れをほたほたと花の散る庭に硯の底の墨ながしたり

 渡らざる橋のかなたはあかるくて今宵放恣にさくらばな散る

 はなやかな錯誤をひとつ持つことも肯ひて春の雨を見てをり

 かなしみの量(かさ)のやうなるこぶ負ひてらくだは膝をおもむろに折る

 一見すると流れるような自然な措辞のようにも見えるが,例えば一首目の「陽」「瞳」「ひそかに」「ひと」の「ひ」音の連続,「陽の重さ瞳の重さ」の対句的表現,三句目の切れによる切断など,自在な言葉の選択に支えられた修辞的工夫を凝らしてこのリズムが実現されていることがわかる。「最も優れた人工とは自然にしか見えない人工である」という金言を地で行くようだ。二首目では「ほたほたと」とわざと「と」を加えて二句めを8音に増音して微妙な時間の伸びを生んでいる。下句「硯の底の墨ながしたり」も厳密に言えば句跨りなのだが,「墨ながし」という表現にも支えられて,ほとんど句跨りを感じさせない。上にあげた他の歌についても同じようなことが言える。句と句の接続に断層がなく,言葉と言葉の繋がりに無理がないため,読んでいて定型という拘束を忘れそうにすらなる。

 そこに音楽が生まれる。それは沈黙の音楽である。みずから声高に声を発することなく,世界の沈黙に耳を澄ます。すると身内に音楽が流れる。それが自らリズムを刻んで定型の器に収束する。そんな感じがする。

 きみの抱(いだ)く青年の海光満ちてわれにほのかな潮騒の音

 満潮の海のさやぎと還りくる漁舟の響きときみの鼓動と

 指の先かすかに湿る夏の午後分散和音(アルペジオ)低く流れ落ちたり

 このように今野の作る歌のなかには,音の響きを詠み込んだものが少なからずある。恋人の抱く海から響いて来る潮騒の音,漁船のエンジンの音に混じる恋人の鼓動,夏の午後に幻聴のように鳴り響くアルペジオ。今野の歌にある音は,「世界のどこからか響いて来る音」であり,みずからが立てる音ではない。この音に耳を澄ますことによって〈世界〉に形を与える。そのように事は運ばれているように思える。

 では今野という主体は外部から音を受容するだけの受動的存在かというと,決してそうではない。『花絆』の主要なテーマのひとつは,女性歌人の第一歌集の多くがそうであるように相聞なのだが,今野の歌には次のような激しさもまたあるのである。

 さくらばな降りやまぬ日にきみわれを奪(と)らむとやまさに風上に立ち

 かくれなき愛となりたるその日よりなほまかがやけわが牽牛星(アルタイル)

 集中に収められた歌には,作者の日常風景と,父母・弟・恋人という作者を取り巻く限られた人数の人間しか登場しない。それは今野にとっての〈世界〉が抽象的・観念的に把握された世界ではなく,日常の実感を伴って手に触れられる世界であり,現象学で言うところの「生活世界」だからである。このため今野が歌のなかで描く世界は実に細やかで,時に微少な図形の投げかける陰翳が空間中で移動する軌跡を観察しているような印象すら受ける。

 『花絆』はほぼ編年体に編まれているようなのだが,後半の終わりにかけてそれまでの歌と微妙に印象が異なって来る。心理的屈折が増大してくるのである。

 はけ口のあらぬ思ひに来しわれをとぼとぼ追うて三丁目の犬

 満開の季(とき)なれば母よわれにいまだ子なきこともしばしは言ふな

 言ふほどの何の矜持かからびたる赤唐辛子はりはりと裂く

 親族(うから)とは冥き絆を紡ぎつつもの食(は)めばましてあはれなりける

 この屈折はそのまま第二歌集『星刈り』へと引き継がれてゆき,この歌集の大きなテーマとなる。日常生活の折節に兆す心理屈折のさまざまな綾目を31文字の調べに乗せる大規模な実験を行なっているようで,歌のトーンがやや低くなる分だけ,作者の〈私〉の影が濃くなる。

 欲しきものさしあたりなく数行のやさしき手紙も久しく書かず

 貪欲に夏,ぼつてりと太りたる仙人掌(さぼてん)といふをなぜか好めぬ

 おろかしく花をあふぎしことのみに見すかされたるわれの夕暮れ

 黒白をつけねばすまぬ父に似て今日またひとついさかひてくる

 執着はせねどこの道いづこかで間違へしままなるやもしれず

 ここにあるのは第一歌集『花絆』の主調であった〈世界に耳を澄ます〉というスタンスではなく,〈言葉を私の心理に引き寄せる〉という態度である。作者の〈私〉が顔を出す度合いが増えた分だけ個人的要素が注入されて,歌意と読む人のあいだに隔たりが生まれている。その隔たりをよしとするか否かは微妙な問題だろう。私はまだ世評の高い第三歌集『世紀末の桃』以後の今野の歌集を読んでいないので,この微妙なスタンスの変化がその後どのように展開を見たかはわからない。わからないだけ楽しみである。「まだ読んでいない本がある」というのは楽しいことだ。「まだ書いていない本がある」という楽しみには及ばないかもしれないが。

 最後に特によいと思った歌をあげておこう。

 つばめ わが視界を越えて翔びゆけり永遠(とは)に未完の詩稿のごとく  『花絆』

 降りさうで降らぬいち日水無月を張りつめている夜のピアノ線

 夢のかけら記憶の闇などこぼしつつ母が押しゆく花売車

 流れくる水泡のごとき虚(こ)のごときいかに花降るわれのみなかみ

 おぼほしき四月の空(うつほ)咲きのぼる花序の無限も何につながむ

 烏賊の肝(うろ)ずるりと引き抜く手わざなど累ねて夏をしたたかに越ゆ  『星刈り』

 死者のためうたひしことはまだなくてひしとこの世の冬踏みしだく