娘の肩の蝶結びほどけばぱたぱたと
蝶は逃げゆき子と秋老いぬ
塩野朱夏『そして彼女は眼をひらいた』
蝶は逃げゆき子と秋老いぬ
塩野朱夏『そして彼女は眼をひらいた』
『そして彼女は眼をひらいた』は平成16年に沖積舎から刊行された歌集で,私は歌誌「短歌人」の広告で見て入手した。だから塩野は「短歌人」会の会員であることはまちがいないのだが,それ以上の情報がまったくない。歌集に付き物のあとがきや著者紹介もない。帯文は塚本邦雄,表紙イラストは宇野亜喜良という豪華さで,造本の瀟洒さもさりながら,何より私が惹かれたのは題名である。前にも「歌集の題名」の章で少し書いたが,私は文の形をしている題名に弱い傾向があり,『そして彼女は眼をひらいた』にも心を惹かれた。「そして」は前接の接続詞だが,何の結果「そして」なのか,なぜ彼女はそれまで眼を閉じていたのか,等々という疑問が沸々と湧いてくる。そしてこの歌集は題名に負けず劣らず謎と疑問に満ちた歌集であり,作者もそれを意図して作り上げていると思われる。残された数少ない手がかりをもとに,この歌集の世界を読み解いてゆこう。私は自称シャーロック・ホームズであり,この歌集はひとつの犯罪現場である。
目次裏には「登場人物」とあり,次の3人の人物名が並べられている。
ジキル博士……医師。手帖の持ち主
ハイド夫人……その妻。本編の書き手
夫妻の娘……氏名不詳
続いて詞書きがあり,この書物は不可解な死を遂げたジキル博士とハイド夫人の遺品のなかから発見されたものであり,ジキル博士の備忘録とハイド夫人の手記からなる,と説明されている。各章の扉裏には,ジキル博士のメモと短歌が一首掲げられており,それが各章の主調を告げている。本体の短歌はハイド夫人の手になるものという設定である。
さて,もうこの段階で幾重にも仕掛けが施してあることに気づくだろう。まず『ジキル博士とハイド氏』は ,善人のジキル博士と殺人犯のハイド氏が同一の人物であるという二重人格を題材にしたR.L.スチーブンソンの小説である。ここから「人格の二重性」がこの歌集のひとつのテーマであることが判明する。このことを思わせる次のような歌がある。
糺(ただ)されて鋭(と)く尖りゆく神経叢,午(ひる)出歩く女 “昼顔”のような母
薄青のジェルにて洗えばあともなく排水孔へ失せゆくわがペルソナ
寝化粧す二分(ふたわ)かる顔の条目(すじめ)をくっきりと,あ,左右たがえてしまった
「昼顔」はJ.ケッセルの小説で,ルイス・ブニュエルが映画化しC.ドヌーヴの演技が妖艶であった。ふだんは貞淑な外科医の妻で昼間だけ娼婦となる女の物語である。二首目は虚構性の少ないごくふつうの歌としても十分読める。一日の終わりに化粧落としのジェルで化粧を落としている女性の光景であるが,剥がれてゆく化粧をペルソナ(仮面・人格)と捉えているところに人格の二重性の意識がある。三首目は逆に寝化粧する姿だが,頭髪の条目ではなく顔の条目をつけているのだから,ふつうの人間ではあるまい。狐狸妖怪の類にちがいないが,顔が左右で異なるのはもちろん人格の二重性の象徴的表現である。この事実を本件の証拠物件その1として提出しよう。
もともとは同一人物であるジキル博士とハイド氏が,この歌集ではジキル博士とハイド夫人という別々の人物とされている。このひとりの人物の二重化に,男性・女性という性の区別が重ね合わされていることに注目しよう。これが本歌集のもうひとつのテーマである。この男女というテーマは「対称形,あるいは二重生活 (デュアルライフ)」の章で集中的に展開されている。
人間に雌雄のありて秤られている塵灰(あくた)の嵩とか肋骨の数とか
対称とはつめたき体制(システム),両手にカトラリー駱駝に二つ瘤あるむごさ
ふくよかに愛らしければ無性生殖マトリョーショカは棚につねに微笑みいて
あけがたの両性具有の夢羞じて枕をかえす真白き骸(むくろ)を
一首目の肋骨の数というのは,イヴがアダムの肋骨から作られたとする説話への言及である。男と女は常に比較され区別されているという現状を詠ったものだろう。二首目は,右手にナイフ,左手にフォークという対称性に始まり,ラクダの瘤の数にまで言い及んでいるが,もちろんこれは誇張法。それを「むごい」と感じるのが作者の認識である。三首目のマトリョーショカは中から次々とより小さな人形が出てくるロシアの民芸品。その様を無性生殖に喩えているのだから,作者には男女の性差を超克したいという願望があることはまちがいない。そのことは四首目の「両性具有」の夢に明らかである。以上の事実を本件の証拠物件その2として提出しよう。
次に「対称形,あるいは二重生活 (デュアルライフ)」の詞書きに「F医師へTELすること,Hの治療経過の件」とある。ハイド夫人は医師から治療を受けているのだが,どうやらそれは精神の病であるらしい。
心療内科出て還るはマグリット描く深夜かも知れぬ青空のもと
躯(み)と心(しん)の岐たれ苦しくなされけり分裂症発見はデカルトの後(のち)
病名は『境界型……』か電線が空を劃(わり)おりその境界にも雪
ベルギーのシュルレアリストであるマグリットの絵は日本でも広く知られているが,この歌に詠み込まれているのは,玄関には明かりが灯って夜の暗さなのに,上をみると昼の青空が広がっているという絵だろう。不思議な非現実感の漂う絵であり,それは精神の病がしばしば生み出す症状としての現実遊離感に対応している。二首目はなかなか哲学的な歌で,デカルトが提唱し近代思想の礎となった心身二元論がその内容である。心と身体を分けるという近代の発明のはるか後に,精神分裂症(現在では統合失調症)が発見されたと詠んでいるが,心もさらにふたつに分裂したというほどの意味だろう。三首目の『境界型……』は境界型人格障害のことで,昔は神経症と精神病の境界線上にある症例をさす用語として使われていた。
またハイド夫人は娘との関係にも問題を抱えていたようだ。次の一首目には娘を救えなかったという自責が感じられ,二首目は説明の要もあるまい。
「ずぶずぶと沼のなかへ……,持ち帰れませんでした。あの娘の紅い鞜(くつ)とあわれみの心」
熱ありて発光せり額の真中の『幼児虐…』黒四文字が
ジキル博士とハイド夫人の不可解な死という事件に,ハイド夫人の心の病が関係しているという推理が成り立つだろう。以上の事実を本件の証拠物件その3として提出しよう。
さらにこのハイド夫人の手稿には,しきりに夢の記述が出てくる。
手斧もち巷さまよう夢覚めば寝間着(ネグリジェ)の紅(あけ)さがしておりぬ
あかあかと覚めたる夢よむらさき色の手でぎゅっと塵芥(ごみ)袋結ぶ
夢ならば誰とでも寝るわたしがいて夢のなかの梔子(くちなし)の大いなること
一首目は夢のなかで殺人を犯しているのではないかと目覚めて不安になる様子。二首目は「むらさき色の手」というのが尋常でない。三首目は「昼顔」の歌と同工異曲であり,これもまたハイド夫人の現の世界と夢の世界における二重性あるいは分裂の様相を表わしていると考えてよかろう。以上の事実を本件の証拠物件その4として提出しよう。
結局ハイド夫人は何を病んでいたのか。それはひとことでいえば「同一性」と「境界」の病である。本来はひとりの人物であるはずのジキル博士とハイド氏とが,ふたりの人物に分裂する。こうして原初的全体性と同一性は崩壊する。また分裂したふたりの人物は男性であるジキル博士と女性であるハイド夫人として具現化される。こうして「男女の対称性」とその「境界」が派生するが,これもまたハイド夫人を苦しめるのである。こうして「同一性」と「境界」の病を病んだハイド夫人は,「昼顔」の主人公のように昼と夜の二重性と,現の世界と夢の世界の二重性を生きるようになる。その傍証となるのが次の歌である。
初冬吉日,難き解析に成功せり痛みの構造は《A=A。》
ハイド夫人が遂に辿り着いた痛みの構造は,アリストテレスの「同一律」であった。つまり,すべてのものは自己と同一であるという,論理学の基本となる法則である。これは「なぜ私は私であり,あなたであることはできないのか」という疑問を誘発することになる。これがハイド夫人の根元的問いであり,彼女の病の原因なのだ。ハイド夫人の抱えたこのような疑問と葛藤の果てに、巻末歌「泣き叫んでいるのはわたし頽(くずお)れんとしつも熱激しき手に斧ふりかざし」のような惨劇がもたらされたものと思われる。
以上が私なりのこの歌集の謎解きである。この歌集は今まで述べてきたことからもわかるように,周到に計画され組み立てられたものであり,主題性と構成性がきわめてはっきりしている。歌集によくある「あとがき」や歌集を編むに至った経緯の説明や著者略歴が一切ないのは,この歌集が「日々の歌」をまとめたものではなく,明確な意図のもとに構成された「作品」であり,作品として自立するためには著者に関する情報は不必要であるばかりか邪魔になるとの判断に由来するものだろう。
主題性の強さはしばしば観念過剰となり,歌に生硬な語彙を挿入せざるを得なくなる。このため短歌本来の「調べ」は犠牲になり,意味過剰の歌になりがちである。本歌集を構成する歌もまた,この弊害を逃れているとは言い難いのは事実であるが,従来の近代短歌が扱ってこなかった主題に果敢に挑戦し,短歌の表現領域を拡大しようとするその意図は評価されるべきだろう。
最後に本歌集の主題と必ずしも直接関係しない歌のなかに,印象に残る歌があった。
とおき空に断食月の月盈てりわれはわれの他なる生を知らず
廃園と決まりし『ドリームランド』一瞬にして生いたつ背高きりん草
杭と杭夕映えに赤く沈みおりかくもわれらの祈りへだたる
無花果のみのらぬ花を見ていたりレム睡眠の荒れ野の果てに
逃げのびて自ら括る舫(もや)い舟 夜の水におうわたしという舟
目次裏には「登場人物」とあり,次の3人の人物名が並べられている。
ジキル博士……医師。手帖の持ち主
ハイド夫人……その妻。本編の書き手
夫妻の娘……氏名不詳
続いて詞書きがあり,この書物は不可解な死を遂げたジキル博士とハイド夫人の遺品のなかから発見されたものであり,ジキル博士の備忘録とハイド夫人の手記からなる,と説明されている。各章の扉裏には,ジキル博士のメモと短歌が一首掲げられており,それが各章の主調を告げている。本体の短歌はハイド夫人の手になるものという設定である。
さて,もうこの段階で幾重にも仕掛けが施してあることに気づくだろう。まず『ジキル博士とハイド氏』は ,善人のジキル博士と殺人犯のハイド氏が同一の人物であるという二重人格を題材にしたR.L.スチーブンソンの小説である。ここから「人格の二重性」がこの歌集のひとつのテーマであることが判明する。このことを思わせる次のような歌がある。
糺(ただ)されて鋭(と)く尖りゆく神経叢,午(ひる)出歩く女 “昼顔”のような母
薄青のジェルにて洗えばあともなく排水孔へ失せゆくわがペルソナ
寝化粧す二分(ふたわ)かる顔の条目(すじめ)をくっきりと,あ,左右たがえてしまった
「昼顔」はJ.ケッセルの小説で,ルイス・ブニュエルが映画化しC.ドヌーヴの演技が妖艶であった。ふだんは貞淑な外科医の妻で昼間だけ娼婦となる女の物語である。二首目は虚構性の少ないごくふつうの歌としても十分読める。一日の終わりに化粧落としのジェルで化粧を落としている女性の光景であるが,剥がれてゆく化粧をペルソナ(仮面・人格)と捉えているところに人格の二重性の意識がある。三首目は逆に寝化粧する姿だが,頭髪の条目ではなく顔の条目をつけているのだから,ふつうの人間ではあるまい。狐狸妖怪の類にちがいないが,顔が左右で異なるのはもちろん人格の二重性の象徴的表現である。この事実を本件の証拠物件その1として提出しよう。
もともとは同一人物であるジキル博士とハイド氏が,この歌集ではジキル博士とハイド夫人という別々の人物とされている。このひとりの人物の二重化に,男性・女性という性の区別が重ね合わされていることに注目しよう。これが本歌集のもうひとつのテーマである。この男女というテーマは「対称形,あるいは二重生活 (デュアルライフ)」の章で集中的に展開されている。
人間に雌雄のありて秤られている塵灰(あくた)の嵩とか肋骨の数とか
対称とはつめたき体制(システム),両手にカトラリー駱駝に二つ瘤あるむごさ
ふくよかに愛らしければ無性生殖マトリョーショカは棚につねに微笑みいて
あけがたの両性具有の夢羞じて枕をかえす真白き骸(むくろ)を
一首目の肋骨の数というのは,イヴがアダムの肋骨から作られたとする説話への言及である。男と女は常に比較され区別されているという現状を詠ったものだろう。二首目は,右手にナイフ,左手にフォークという対称性に始まり,ラクダの瘤の数にまで言い及んでいるが,もちろんこれは誇張法。それを「むごい」と感じるのが作者の認識である。三首目のマトリョーショカは中から次々とより小さな人形が出てくるロシアの民芸品。その様を無性生殖に喩えているのだから,作者には男女の性差を超克したいという願望があることはまちがいない。そのことは四首目の「両性具有」の夢に明らかである。以上の事実を本件の証拠物件その2として提出しよう。
次に「対称形,あるいは二重生活 (デュアルライフ)」の詞書きに「F医師へTELすること,Hの治療経過の件」とある。ハイド夫人は医師から治療を受けているのだが,どうやらそれは精神の病であるらしい。
心療内科出て還るはマグリット描く深夜かも知れぬ青空のもと
躯(み)と心(しん)の岐たれ苦しくなされけり分裂症発見はデカルトの後(のち)
病名は『境界型……』か電線が空を劃(わり)おりその境界にも雪
ベルギーのシュルレアリストであるマグリットの絵は日本でも広く知られているが,この歌に詠み込まれているのは,玄関には明かりが灯って夜の暗さなのに,上をみると昼の青空が広がっているという絵だろう。不思議な非現実感の漂う絵であり,それは精神の病がしばしば生み出す症状としての現実遊離感に対応している。二首目はなかなか哲学的な歌で,デカルトが提唱し近代思想の礎となった心身二元論がその内容である。心と身体を分けるという近代の発明のはるか後に,精神分裂症(現在では統合失調症)が発見されたと詠んでいるが,心もさらにふたつに分裂したというほどの意味だろう。三首目の『境界型……』は境界型人格障害のことで,昔は神経症と精神病の境界線上にある症例をさす用語として使われていた。
またハイド夫人は娘との関係にも問題を抱えていたようだ。次の一首目には娘を救えなかったという自責が感じられ,二首目は説明の要もあるまい。
「ずぶずぶと沼のなかへ……,持ち帰れませんでした。あの娘の紅い鞜(くつ)とあわれみの心」
熱ありて発光せり額の真中の『幼児虐…』黒四文字が
ジキル博士とハイド夫人の不可解な死という事件に,ハイド夫人の心の病が関係しているという推理が成り立つだろう。以上の事実を本件の証拠物件その3として提出しよう。
さらにこのハイド夫人の手稿には,しきりに夢の記述が出てくる。
手斧もち巷さまよう夢覚めば寝間着(ネグリジェ)の紅(あけ)さがしておりぬ
あかあかと覚めたる夢よむらさき色の手でぎゅっと塵芥(ごみ)袋結ぶ
夢ならば誰とでも寝るわたしがいて夢のなかの梔子(くちなし)の大いなること
一首目は夢のなかで殺人を犯しているのではないかと目覚めて不安になる様子。二首目は「むらさき色の手」というのが尋常でない。三首目は「昼顔」の歌と同工異曲であり,これもまたハイド夫人の現の世界と夢の世界における二重性あるいは分裂の様相を表わしていると考えてよかろう。以上の事実を本件の証拠物件その4として提出しよう。
結局ハイド夫人は何を病んでいたのか。それはひとことでいえば「同一性」と「境界」の病である。本来はひとりの人物であるはずのジキル博士とハイド氏とが,ふたりの人物に分裂する。こうして原初的全体性と同一性は崩壊する。また分裂したふたりの人物は男性であるジキル博士と女性であるハイド夫人として具現化される。こうして「男女の対称性」とその「境界」が派生するが,これもまたハイド夫人を苦しめるのである。こうして「同一性」と「境界」の病を病んだハイド夫人は,「昼顔」の主人公のように昼と夜の二重性と,現の世界と夢の世界の二重性を生きるようになる。その傍証となるのが次の歌である。
初冬吉日,難き解析に成功せり痛みの構造は《A=A。》
ハイド夫人が遂に辿り着いた痛みの構造は,アリストテレスの「同一律」であった。つまり,すべてのものは自己と同一であるという,論理学の基本となる法則である。これは「なぜ私は私であり,あなたであることはできないのか」という疑問を誘発することになる。これがハイド夫人の根元的問いであり,彼女の病の原因なのだ。ハイド夫人の抱えたこのような疑問と葛藤の果てに、巻末歌「泣き叫んでいるのはわたし頽(くずお)れんとしつも熱激しき手に斧ふりかざし」のような惨劇がもたらされたものと思われる。
以上が私なりのこの歌集の謎解きである。この歌集は今まで述べてきたことからもわかるように,周到に計画され組み立てられたものであり,主題性と構成性がきわめてはっきりしている。歌集によくある「あとがき」や歌集を編むに至った経緯の説明や著者略歴が一切ないのは,この歌集が「日々の歌」をまとめたものではなく,明確な意図のもとに構成された「作品」であり,作品として自立するためには著者に関する情報は不必要であるばかりか邪魔になるとの判断に由来するものだろう。
主題性の強さはしばしば観念過剰となり,歌に生硬な語彙を挿入せざるを得なくなる。このため短歌本来の「調べ」は犠牲になり,意味過剰の歌になりがちである。本歌集を構成する歌もまた,この弊害を逃れているとは言い難いのは事実であるが,従来の近代短歌が扱ってこなかった主題に果敢に挑戦し,短歌の表現領域を拡大しようとするその意図は評価されるべきだろう。
最後に本歌集の主題と必ずしも直接関係しない歌のなかに,印象に残る歌があった。
とおき空に断食月の月盈てりわれはわれの他なる生を知らず
廃園と決まりし『ドリームランド』一瞬にして生いたつ背高きりん草
杭と杭夕映えに赤く沈みおりかくもわれらの祈りへだたる
無花果のみのらぬ花を見ていたりレム睡眠の荒れ野の果てに
逃げのびて自ら括る舫(もや)い舟 夜の水におうわたしという舟