134:2005年12月 第2週 光栄堯夫
または、切断面に眼差しを注ぐモダニスト

メスにより切り啓(ひら)かれた空間に
        きょうも漂う船は一艘

            光栄堯夫『空景』

 掲出歌は具体的な情景の写実的描写ではないと思われる。ふつう日常の空間がメスで切り開かれることはないからである。だとすると「メスにより切り啓かれた空間」というのは,何かの比喩と解釈するか,あるいは心的状態の詩的表現だと解釈するしかない。比喩だとすると,「メスにより切り啓かれたような空間」ということになり,例えば鋭角の変形ガラスを嵌め込んだ窓とか,壁と壁とのごく狭い隙間から海を眺めている光景になる。その狭い空間を通して見える海に船が一隻漂っている。一首をこのように解釈することもできる。しかしこれではいまひとつおもしろくない。ではこれを心的状態の詩的表現と解釈すると,「メスにより切り啓かれた空間」は思いがけず開示された日常空間の裂け目ということになるだろう。こちらの解釈の方が読みが深くなるようだ。それも作者が「切断」とか「切断面」に対して強い固着を示しているからである。

 光栄堯夫 (みつはな たかお)は1946年(昭和21年)生まれで,歌誌「桜狩」を主宰しており,『夕暮れの窓』,『現場不在証明』などの歌集の他,詩集・小説・評論集など数多くの著作がある。文芸のいろいろな領域を横断するマルチな人のようだ。『空景』は1999年の刊行で第4歌集に当たる。刊行年度が情報として重要なのは,本書が90年代後半に作られた歌を収録しているからである。90年代後半というと,95年に阪神大震災とオウム真理教事件があった。日本漢字能力検定協会はその年の世相を表わす漢字一字を毎年募集しているが,95年は「震」であった。山一証券などの大型倒産が相次いだ96年は「倒」,和歌山砒素カレー事件があった97年は「毒」,東海村バケツでウラン事件のあった99年は「末」が選ばれている。このような世相を反映して『空景』には黙示録的終末感の漂う歌が多い。「エヴァンゲリオン遺文」と「オウム真理異聞」と題された連作は,題名そのものが時代とのかかわりを示している。

 ひとつずつ失われてゆく物語傾く地平に坐して紡げど

 〈我〉よりも影が本体となる真昼あまたの死体を呑みし路上に

 血を薄め流した色に都市はいま明けゆく傷口を閉じられぬまま

 燃え尽きたものの記憶を刻みゆく地下深き闇の無辺に

 出家せし侠徒の青き頭頂は残月を浴び異臭放てり

 真に個人的な物語が失われる喪失」,私に代わって影が本体となる「私の希薄化」といった主題が,夜なお明るい都市を背景として紡ぎ出されてゆく。次にあげる歌も同じ主題の延長線上にある。

 捨てられた果実がひそかに香を放つ最終電車の過ぎたホームに

 固体なる証しの影も消え失せつここ過ぎて薄明地帯に入りたる

 もはや影などはなし点々となりたる我等街下に散らばり

 誰かが見た夢の後(あと)を辿ってる複製にしかすぎざるか我も

 固体としての凝集性を喪失して液化する私,影を失って無人称化する私,レプリカントに過ぎない私といったテーマは,現代都市を背景として短歌を作る人には馴染みのテーマであり,例えば生沼義朗菊池裕にも見いだすことができる。問題はそれを短歌にどのように詠うかという点にあるだろう。

 プロフィールによれば光栄は「個性」同人とある。「個性」は最初「近代」という名前で加藤克巳によって創刊された歌誌である。加藤といえばモダニズム短歌であり,その真骨頂は次のような歌に現われている。

 青いペンキはあをい太陽を反射(かへ)すから犬の耳朶が石に躓く

 不気味な夜の みえない空の断絶音 アメカリザリガニいま橋の上いそぐ

 寂として東京丸の内午前三時ルドンのまなこビル谷に浮く

 瞬時石割れ 内面匂う鮮しく 歪形なして褐色の紋

 白昼夢のようでありながら鮮烈なイメージ,違和感のある物の取り合わせ(傘・ミシン方式)による衝撃感,「歪形」「内面」「回転」などの硬質な漢語を短歌に織り交ぜたときに生じる異化効果,このような要素が伝統的短歌ともプロレタリア短歌とも異なるモダニズム短歌の構成要素である。モダニズム短歌がヨーロッパのシュルレアリスムなどの芸術運動から多くを得たことはよく知られている。

 光栄の短歌にはこのモダニズム短歌の影響が色濃く感じられる。例えば次のような歌である。

 地層を貫く痛みに触れて立ちつくす去年(こぞ)より低くなりたる街で

 戻れない位置にて眺む没陽は三角楕円となりて堕ちゆく

 冥(くら)き同心の輪を描きゆく燈籠は傾く永劫回帰の軸を

 透明な長管のごとき高速を車は液体となりて流るる

 螺旋状に引き裂かれてゆく 闇の深さを押し退け撓む夜のアイリス

 「地層を貫く痛み」という表現,「三角楕円」という有り得ない図形,「永劫回帰の軸」という漢語,また4首目に見られる喩と液体感覚は,モダニズム的感覚と言ってよい。しかし加藤においては表現の斬新さと新しい詩精神を唱道する芸術運動として捉えられていたものが,光栄においては現代の黙示録的状況を描く手段となっているところが時代の差である。

 このことは先にも触れたが,光栄が「切断」と「境界」に執着しているところにも現われている。

 吹く風に水面は割れて立ち上がり水無月の闇に眼を開きたり

 剥がれゆく継目を泌み出た廃液がしたしたとただしたしたと浸蝕し始め…

 地殻の裂ける無音が芯に響きくる滅びの支度(いそぎ)を整えて坐す

 足跡はどこまで続く青白き雪はひたすら境目に降る

「割れる水面」「剥がれる継目」「裂ける地殻」のようなイメージが繰り返し反復されるのだが,それは眼に見える現実に切断面を生じさせ,その奥にあるものを剔抉したいという作者の姿勢によるものだろう。従って光栄の短歌に浮上する〈私〉とは多くは「見る〈私〉」や「暴く〈私〉」であり,単に抒情する〈私〉ではない。しかし,なかには「音もなく立ち昇る霧首筋をひいやりと撫で…しめあげてくる」のように作歌意図が透けて見えすぎる歌があるのはいささか残念である。

 さて現代を黙示録と捉えたとき,人が取りうる立場はそれほど多くない。脱出の道はあらかじめ閉ざされている「脱出は未だならざり皇帝のいない八月いくとせ経たる…」 残るのは祈りであり,光栄がそのスタンスに立つとき生まれる歌はなかなか美しいのである。

 銃口を向けられたらば群青の空のごとくに澄むかたましい

 祈りには遠き両手をかざしおり汝がまなざしの波よりこぼれて

 逆光を背負いて歩くまだ影の伸びゆくを一つの祈りとなして