133:2005年12月 第1週 吉浦玲子
または、ハードな日々を働くママは喩を嫌ってモノへと

真より偽へブール変数ひるがへす
      ただ一行をつかまへかねつ

          吉浦玲子『精霊とんぼ』
 作者の代表歌というわけではないが,おもしろい歌である。「終日,デバッグ」と詞書きがあり,電機メーカーでコンピュータ関係の仕事をしている作者の日常のひとコマだろう。ここで言う「真」「偽」は日常的な意味ではなく,コンピュータ・プログラムを構成している命題関数の外延として数学的な意味で使われている。歌意としては「バグのあるプログラムの行が見つからない」というだけのことなのだが,それを「真より偽へひるがへす」と表現しているのである。たったひとつのバグを修正すると,まるで奇跡のようにプログラムが動作するという切り替わる感覚を「ひるがへす」という言葉で捉えようとした。私たちは動植物や生活雑貨に触れるとき,そこに何らかの感覚を生ずるのだが,今日の電脳社会ではコンピュータ内の仮想空間に触れるときにも,やはり何らかの感覚を覚える。空間自体はヴァーチャルでも,私たちが覚える感覚は現実のものである。短歌の世界はそのような領域にまで広がるのかもしれない。

 吉浦は短歌人会所属で『精霊とんぼ』は2000年に上梓された第一歌集である。跋文は短歌人会の先輩である小池光。プロフィールによれば,故郷の長崎県へ佐賀県から国見峠を越えていたとき,突然短歌を作ろうと思ったという。『精霊とんぼ』を取り寄せたら,「第一歌集への道」という吉浦の文章のコピーが挟まれていて,これがめっぽうおもしろい。歌集出版までの経緯を日録風に記述したもので,これから歌集を出そうと考えている人には参考になるだろう。やはり作り溜めた歌の取捨選択に大いに悩む姿がある。作り始めた頃の拙い歌を冒頭に持って来ることにためらいがあるのに,編集者から「あなたの歌は編年体がいい」と勧められたという話や,「あとがきが大事。あとがきで一発カマすつもりで書き,作品で(一定)の裏打ちをすること」という小池光の名セリフなど,歌集製作の裏側を見るようで興味は尽きない。

 吉浦自身は,「自分自身は〈思い〉を短歌で言いたいと思ったことはない。〈思い〉がない,ところから歌いだしたといってもいい」と述べている。この言葉が意味するのはおそらく,〈まず主題があって歌を作る〉というテーマ主義ではなく,日々の生から歌が滲み出して来る,そのような態度を短歌に対して取りたいということなのだろう。このようなスタンスから打ち出される吉浦の短歌は,当然のことながら日常の身辺に想を得たものであり,「折々の歌」というニュアンスの濃いものになる。

 ずぶ濡れのスカート重し唐突に虹と出会ひし陸橋のうへ

 吊革に身を寄するとき血のかすかにじめる爪のあはひに気づく

 論の上に論継ぎてゆくゆふぐれの窓の外(と)に猫の尻尾よぎりぬ

 ハンマーにて打ち砕きゆくパソコンは十年かけて作りこしもの

 クリップして書類置くとき身のうちにぬるくて甘きもの兆しくる

 「愛」に始まり「悪」へと続く教育用漢字データを入力しゆく

 駅のホームにフルーツ牛乳立ち飲みすいかなる果実の味かは知らず

 これらはまあ職場詠と呼んでよかろう。おそらく作者が一日のうちの最も長い時間を過ごす場所であり,当然歌の題材となることが多い。作者はハードな仕事の日々を送っているようで,「〈思い〉を短歌で言いたいと思ったことはない」という言葉とは裏腹に,なかなかに苦い思いが歌から滲み出ている。

 缶ビールわが開くるときかたはらにいねし子すこし身じろぎしたり

 人ごみを子に守られて揺られゆく風船ほどの幸と不幸と

 親権はわれにあれども子の籍は夫の籍に残ると言はる

 かたはらでなにかを言ふ時少年はキャンディの香の残る息をせり

 ふたり暮らしはさみしいなあと子は言ひてベーコンエッグのしろみを残す

 土下座して「茶髪にさせてください」と小学五年生言ふ真つ昼間

 次に多いのは子供を詠んだ歌である。結婚して子供ができ,離婚して母子ふたりの家庭になったことがわかる。働くシングルマザーの日々はハードだが,子供を見つめる眼差しは柔らかい。

 これらの歌を読んで気づくのは,近代短歌の定石となった上下句の照応と,前衛短歌以来の技法である短歌的喩を吉浦はほとんど用いていないという点である。「上下句の照応」とは次の有名な歌に見られる技法であり,永田和宏が「問と答の合わせ鏡」と呼んだものである。

 灰黄の枝をひろぐる林みゆ亡びんとする愛恋ひとつ  岡井隆

 さんざん論じられたことだが,この歌では上句「灰黄の枝をひろぐる林みゆ」に詠まれた光景が,下句の情意の短歌的喩となっているとされる。しかるに吉浦の歌ではどれを取ってもよいのだが,例えば「論の上に論継ぎてゆくゆふぐれの窓の外(と)に猫の尻尾よぎりぬ」は頭から一気に読まれるべき歌であり,一首のなかに〈切れ〉がなく,当然ながら上下句の照応は成立しない。窓の外を横切る猫は単に猫であり,何の喩にもなっていない。「上下句の照応」もしくは「問と答の合わせ鏡」は一首のなかに強い緊張関係を生み出し,現実とは解離した短歌の美的世界を虚数空間に描き出す効果がある。前衛短歌でこの技法が好まれたのはその故であることは言うまでもない。「上下句の照応」を峻拒して読み下しの歌を作るスタンスは,したがって前衛短歌とは逆の指向であり,現実を遊離せず逆に現実に降下しようとする意志を表わしていると言ってよい。喜多昭夫が「ズルムケ感」と表現した感覚に近いのである。跋文で小池光が,「どこをどう切っても徹底して〈現実的〉で観念の匂いがしない」と評しているのは,このことを指しているものと思われる。吉浦のこのような態度が「上下句の照応」と喩の不在として実現されていることに注意しておくべきだろう。

 集中でおやと目を留めたのは次のような歌である。

 舌の上にいまのりてゐるトローチの真中の穴の作用は知らず

 こらふるとしまし見えしが屑籠は書類の束を抱きて倒るる

 同じ短歌人会の先輩である草食獣吉岡生夫の歌集にあってもおかしくない歌で,歌に詠まれた題材のあまりの「そのまんま感」がかえってユーモアとなり笑いを誘うものとなっている。この「そのまんま感」は上に引用した歌に見られる「どこをどう切っても徹底して〈現実的〉で観念の匂いがしない」感覚と通底していて注目される。かつての抒情的世界を敢て壊し,たただごと歌 (と見まがう歌) に転じた小池光も大いに推奨するところだろう。

 困難な状況にある現代短歌の進む道のひとつとして,このように「そのまんま感」を前面に押し出すことで,歌のなかに少なくとも現実の手触り感を確保しようという「橋頭堡作戦」が有効であるという主張は認めてもよいかもしれない。ただ私は個人的には姿勢を低くして現実を詠う歌よりも,現実を突き抜けた別の空間へ届く歌の方が好きなので,『精霊とんぼ』では次のような歌に注目した。

 さんぐわつに逝きにし人の黒ぶちの眼鏡もぬくき地より芽ぶかむ 

 ふた粒の緋色の錠剤おつるときほのか灯らむ器官のうちら

 水の面を切らば楽しもうすあをき布をひろげて裁つゆふまぐれ

 たましひにとほく生活(たつき)に苦しみてさ夜更けに飲む「六甲の水」

 朝(あした)来し千石西町路地の果て朝顔に会ふ運命のごとく

 キャバレーの電球ネオン昼なれば電球の形くまなく晒す

 給水塔銀色くらく立ちてをり少年野球の球のかなたに

 一首目では眼鏡が地中から芽吹くという想像のおもしろさもさることながら,「さんぐわつ」の平仮名表記と「ぬくき地」の照応が心地よい。二首目は自らの身体の内部を覗き込む歌で類歌は少なくないが,錠剤の緋色と「ほのか灯らむ」の色彩描写がよいと思った。三首目は集中では珍しく幻想に遊ぶ歌で,時間を超越したような静かな世界がなかなか美しい。「そのまんま感」の対極にある歌であり,「ゆふまぐれ」の好きな私としては気に入りの一首である。四首目は「たましひにとほく」という表現に切実な想いが感じられて惹かれた。五首目は「千石西町」という固有名が効果的で歌に表情を与えており,「運命のごとく」という直喩も所を得ている。六首目は「電球の形くまなく晒す」に発見がある。七首目は巻末歌で,明るい未来を暗示する「少年野球の球」と,給水塔の「銀色くらく」という描写が鋭い明暗の対比をなしていて,一首の中に奥行きある対位法を形成している点に技がある。

 吉浦の近作は自身のホームページに掲載されている。いくつか拾ってみよう。

 梅雨の雨やみたるあはひ街路樹のしたに広がりゆかむ地境は 

 黄色なる線のうちらにゐよといふ天啓ならめ朝に聞きつつ

 泣かしても泣かされぬやう愛恋のみづのかたへにとどまりてゐよ

 足首まで水は浸すとおもひつつ電飾の彼の岸まで渡る

 荒びたる風の夜にて渡りゆく橋の下なる水のしづけさ

 これらの歌を見る限り,吉浦の作歌触手の伸びる範囲は確実に広がっているようである。職場詠・生活詠の多かった第一歌集とは異なり,これらの歌には現実を出発点としながらも,現実に還元しえない何物かが異物として歌の核を形成している。吉浦は確実に歌境を深めているようだ。

吉浦玲子のホームページ「シンプル短歌生活