144:2006年2月 第4週 山田富士郎
または、神の不在と世紀の悪意に耐える日常

さんさんと夜の海に降る雪見れば
   雪はわたつみの暗さを知らず

     山田富士郎『アビー・ロードを夢みて』
 美しい歌だ。この歌については加藤治郎の委曲を尽した読みが評論集『TKO』にあり(『山田富士郎歌集』〔砂子屋書房〕に採録)、私が付け加えることはさしてない。「さんさんと」と美しく煌びやかさを感じさせる初句から始まり、夜の海に降る雪が提示されるが、下句は転調して暗いイメージに変わる。海は「わたつみ」と古語に言い換えられると同時に、その相貌を一変させて歴史性を帯びる。「わたつみの暗さ」とは歴史性のほの暗さの謂である。雪は海水に触れるとそのはかない生命を終える。だから雪はわたつみの暗さと決して混じり合うことがなく、無垢性の表象として霏霏と降る。海上に降る純白の雪と、その下に横たわる海の暗さの対比がこの歌の眼目であるが、それと同時に「雪はわたつみの暗さを知らず」と感じている隠れた〈私〉がその背後にある。〈私〉は雪の表象する無垢性に参与していないからこそ、雪に注ぐこのような眼差しが成立するのである。二句と四句が八音の破調だが、ほとんどそれを感じさせない強い言葉の流れがある。

 山田富士郎は1950年(昭和25年)生まれで、詩と俳句を経て短歌に辿り着いた歌人である。1988年に角川短歌賞を受賞。第一歌集『アビー・ロードを夢みて』(1990年)で現代歌人協会賞を、第二歌集『羚羊譚』(2000年)で短歌四季大賞と寺山修司短歌賞を受賞している。この二冊の歌集の異色なところは、いずれにも長い後記が付されており、山田の短歌観を述べる評論となっているという点である。短歌自体にはあからさまな批評はなくむしろ抑制された筆致であるだけに、雄弁な後記との対比が目を引く。山田には『短歌と自由』という評論集があり、歌作だけでなく短歌をめぐる批評的考察にも優れた資質を発揮している。私は『短歌と自由』を先に読み、後から歌集を読むという逆の行程を辿った。そのためか『アビー・ロードを夢みて』は80年代の都会的抒情歌集の相貌を備えているにもかかわらず、読んでいて山田の方法意識につい目が行ってしまうのである。

 先にも述べたように、山田は詩と俳句を経て短歌を形式として選択したという経歴を持つ。『アビー・ロードを夢みて』の後記に、「現代詩と俳句の匂いを消し去る」ことを自分の作歌の戒律としていると書いているが、詩的圧縮の技法を現代詩と俳句で鍛錬したことは明らかである。

 南風に海ひろがれば石垣のすきまより出で蛇は輝く

 むごき夏を永久にと吊しおきたりし麦藁帽子朽ちて落つとふ

 電話回線しきりに花を降らすゆゑねむれぬ真昼 鰐にならうか

『アビー・ロードを夢みて』冒頭から数首を引いた。一首目は南風の吹く穏やかな海の情景に始まる歌だが、結句に至って登場する蛇は単なる景物のひとつではなく、詩的言語の圧がかかっている。二首目の夏と麦藁帽子の表象する青春性は寺山を連想させるが、「むごき夏を永久に」にもずいぶんと言葉を引き算した詩的圧縮がかけられていて、生み出された虚が反転して呼び出す連想空間の広がりが大きい。三首目では電話回線が花を降らせるという連辞結合関係に、詩的飛躍を強引に言葉に定着させる技法を見ることができる。短歌は三十一音の短詩型だから言葉を節約するのは当然だが、上に引いたような例には単なる言葉の節約ではなく、意図的に意味の真空地帯を作り出すことで一首の飛翔性を高める意図が見られる。

 山田の短歌を語るとき、その社会批評性が前景化されることが多い。ちなみに藤原龍一郎と島田修三は山田とほぼ同年齢であり、ふたりとも時に露悪的な社会性を短歌に盛り込むことで知られている。山田がこの二人と同世代であることは単なる暗合ではありえず、ここから短歌における世代論へと展開することもできるが、それは本意ではない。

 日本のパンまづければアフリカの餓死者の魂はさんで食べる

 死にも選択の幅ひろがりし世紀とぞドラッグの死ラーゲリの死

 日本は何にでもなる日本は子供のこねる粘土のやうに

  「国旗」に寄す
 立つてゐろ二年か三年すはだかで御子様ランチのライスの上に

 厠(し)が前に置かるる西瓜のやうであり哀しむべきか社会党を

 技術批評はつひにエコールをこえざらむグランドピアノの下の猟犬

山田は基本的に精神のリベラリストであり、教条主義的硬直性と思想的無節操を批判するとき舌鋒は鋭く、時に短歌の枠をはみ出してしまう。最後の歌は技術批評に終始する歌会への批判で、グランドピアノは結社の重鎮で猟犬は忠実な手下なのだという読みは、岡井隆が寄せた『アビー・ロードを夢みて』の跋文でようやく理解したがこれも辛辣である。

 しかしながら特に『アビー・ロードを夢みて』を読んで感じるのは、山田の作り上げる短歌世界の多面性であり、「山田の世界の本質はこれだ」と言い切ることの困難さの多くはこの多面性に由来する。ここでは今まであまり試みられてこなかった切口から入り込んでみたい。それは歌集題名の謎である。

 「アビー・ロード」は言うまでもなくビートルズが1969年に出したアルバムのタイトルで、横断歩道をメンバーの四人が一列になって歩くカバー写真は、その後何度も換骨奪胎され引用された。このタイトルはEMIスタジオがあったロンドン北部の St. John’s Wood の通りの名前に由来する。カバー写真が撮影されたのもスタジオの目の前の横断歩道で、ここは今でも日本人観光客が多く訪れる名所になっている。加藤治郎は「このタイトルは不可解である」とし、「一巻のキーワードではない。ビートルズ云々は、周辺の一挿話に過ぎないのだ」と結論している。確かにこの歌集には上に引用した「まだ死なないなんて」を初めとして、「鮭のぼり始めし河をけふも越ゆもうビートルズを聴くこともない」など、ビートルズを詠んだ歌が数首あるが、全体として大きなウェイトを占めているわけではない。しかし、「アビー・ロードを夢みて」は歌集題名であるだけでなく、一章の題名としても、章のなかの歌群の題名としても使われており、入れ子構造になって三回登場する。単なる挿話にしては露出が多いのである。

 アビー・ロードがどこにあるかはビートルズファンなら誰でも知っている。問題はアビー・ロードがどこへ続くかである。ヨーロッパの都市の道路に地名が付けられているとき、それはたいてい到着先を示している。たとえばロンドンに Oxford Street という道路がある。どうしてロンドンにオックスフォードの名を冠した道路があるかというと、その道をずっと行くとオックスフォードに通じているからである。パリに Avenue d’Italie や Porte d’Italie があるのも、そこがイタリアへの出口となる通りだからである。だからアビー・ロード Abbey Road は「僧院へと続く道」を意味するのだ。

 『アビー・ロードを夢みて』と『羚羊譚』からキリスト教に関係する歌を拾い出してみよう。

 基督教徒山田富士郎しまらくはキリストの肉食はず

 海の紺またおごそかに深まりぬ信仰宣言(クレド)の階を昇りゆくひと

 マラリアの発熱よりもすみやかに信仰は去りイエス親しも

 プリンみたいにふるへる家はあるのだが心が貧しい神父みたいだ

 山田タノわが祖母にして伯父一夫戦中に死せる基督教徒

 夏空のふかき青より降りきたる血のにじむ羽聖書にはさむ

 耶蘇教の墓は松林のうちにあれどわが骨灰は海にまかなむ

 ビルの間に密雲しばし垂れさがる水曜が来る灰の水曜日

 これを見ると山田の一族はキリスト教の家系だったことがわかる。山田自身も一時は自らをキリスト者と規定していたことがあり、その後信仰から遠ざかったようだ。一首目の「キリストの肉」はミサ聖祭で信者が拝受する聖餅(ホスティア)で、告解をして罪の赦しをまだ受けていない信者や、信仰にゆらぎのある信者は拝受を遠慮する。また最後の歌に登場する「灰の水曜日」 Ash Wednesday は、四旬節の始まりとなる水曜日で、もともとは罪の赦しを乞うため樹木を燃やした灰を信者の頭にかけたことに由来する。だからこれらの歌から浮上する意味の層とは、「信仰からの離反」と「罪」を軸とするものになる。このことを踏まえて今一度歌集題名『アビー・ロードを夢みて』を振り返ってみると、そこにはビートルズに代表される60年代の無垢の青春性への憧憬が直示的意味として表象されていると同時に、その裏面には「僧院へと続く道」を歩まんとして果たせなかった慚愧が隠されているのではないか。また山田の姿勢に見られる倫理性はここに由来するのではないだろうか。山田の歌にときどき謎のように登場する蛇にもまたキリスト教の影が濃く、悪魔の化身と知の開祖という両義的役割を付与されているように思える。

 この倫理性から流れ出て来る歌集の主調は、神の不在とそれに取って代わろうとした近代の神話の無効性であり、世紀の悪意に耐える日常である。

 自らの足をあらひて悲しかり呼ぶべき神をわれは持たぬを

 火を放て燃やし尽くせといふごとき純白の蛾時計にとまる

 レーニンの落としたバトンかつさらひスターリンは殴る同志(タワリシチ)の頭

 鉄を噛むごときくやしさ口中に満ちたればああ生きのびるのみ

 横ざまに地に倒しあるくろがねの階(きざはし)に雨今日も昨日も

 メルカトル図法のグリーンランドこそ魂蒼きわが墓場なれ

『アビー・ロードを夢みて』の冒頭は「TOKIO」と題された連作であり、不眠都市東京を舞台にこのような心情が展開されるとき、世紀末の都市的抒情歌集としての相貌を呈するのだが、その根底には山田の骨太の思想的骨格が横たわっていることを見過ごしてはなるまい。