水瓶の形に水はひつそりと
置かれてゐたり秋の門辺に
古谷智子『ガリバーの庭』
置かれてゐたり秋の門辺に
古谷智子『ガリバーの庭』
以前にも書いたことだが、本のタイトルに私は特に好みがある。歌集でも一見して惹かれるタイトルというものがあり、古谷智子の第一歌集『神の痛みの神学のオブリガート』というタイトルもそのひとつであった。タイトル中の『神の痛みの神学』とは、北森嘉蔵のキリスト教神学の著作の題名であり、「オブリガート」は音楽用語で、省略して演奏できないパート、あるいは主旋律に沿う伴奏的副旋律を意味する。もともとはイタリア語で「義務づけられた」「是非もない」を意味する過去分詞に由来する。「神の痛みの神学」という形而上学的意味作用の濃密な言葉と「オブリガート」という音楽用語の結合から生じる化学反応は、詩的連想を呼び出して止まない意味の膨らみを生み出している。またこのタイトルからは、作者のキリスト教と音楽への傾倒をも窺うことができよう。
『神の痛みの神学のオブリガート』が上梓されたのは1985年(昭和60年)のことである。前年には紀野恵が『さやと戦げる玉の緒の』で、中山明が『猫、1、2、3、4』で歌壇デビューを果しており、同年には仙波龍英の『わたしは可愛い三月兎』が、2年後の1987年には俵万智の『サラダ記念日』が出版されてある。ライト・ヴァースが注目を浴び、バブル景気が目前に迫っていた時代なのである。軽みが称揚されるそんな時代に、『神の痛みの神学のオブリガート』という重量級の意味作用を持つタイトルを自分の第一歌集に付けようとした作者の意図を思うと興味深い。
『神の痛みの神学のオブリガート』はもはや入手困難で、私は『第一歌集の世界』(ながらみ書房)というアンソロジーで抜粋を読むことができたにすぎないが、確かな短歌語法に基づく魅力的な歌が並んでいる。
いづこより吾は来たると問われゐて春の無明の夢たぐりゐる
永遠なるを問はば言葉と言ひくるるこのたまゆらの夕餉の酔ひに
光速の及ぶかぎりを宇宙とふ漠たる悲哀のみなもととして
円錐曲線試論少年パスカルの孤心するどく研がれしならむ
「知の人」と「情の人」という乱暴な二分法を適用すると、短歌における「知の人」の代表格は香川ヒサだが、古谷の歌にも事柄の知的把握を基盤とする抒情というスタンスが感じられる。「永遠」「宇宙」「光速」などの生活世界に還元されない硬質な語彙が形而上的世界への関心を示しており、4首目のパスカルの歌などは「スバルしずかに梢を渡りつつありと、はろばろと美し古典力学」という永田和宏の歌を連想させ、文科系的発想に理科系的な世界を接続していて注目される。経歴を見ると古谷本人は文科系だが、ご主人が理科系の研究者のようで、そこからの影響かもしれない。数学などの抽象思考を舞台とする抒情は、坂井修一に例はあるものの、現代短歌では未だに未開拓の領域であることはまちがいない。
『現代短歌大事典』(三省堂)の古谷の項目を執筆した同じ中部短歌会の大塚寅彦は、「第二歌集以後は知的な感性によって都市生活の中のさまざまな事物の本質を描き出してゆく」と書き、代表歌に「交差点に塞き止められし人の群むれの中にて群をみてをり」という第二歌集『ロビンソンの羊』の一首を挙げている。大塚がこの歌を選んだのは、群集の中の個という視点から、個から群集を眺めるという視点へと、一首の中に視点の転換があるからだろう。ちなみにタイトルの「ロビンソン」は孤島に漂着したロビンソン・クルーソーだろうし、第四歌集『ガリバーの庭』はスウィフトの『ガリバー旅行記』から取られており、この選択に作者の嗜好が窺える。それは微少な生活世界に自己の視野を限定することなく、時に時間と空間を超えた世界にまで視線を彷徨わせ、歌に物語的遠近法を付与したいというスタンスだと考えられる。
『ガリバーの庭』には都市詠が多く含まれており、『都市詠の百年 街川の向こう』という著書もある作者にはかねてより関心の深いテーマのようだ。
急(せ)き走る車が一瞬街角のショーウィンドーを飾りて消えぬ
都庁舎の外壁あはき電飾に照らされ春の海ゆく母艦
帰路遅き街頭に立つ透明な電話ボックスに電話鳴りゐる
カーブミラーに映らぬ一台車体低く唸りて都心の闇に消えゆく
一冊の分厚き都市論かかへゆく夕べ地下街の雑踏を縫ひ
硬質の肌光る馬ジェラルミンの鬣(たてがみ)を梳く都心の雨は
山下雅人の『世紀末短歌読本』を貫くテーマもまた「都市」であるが、山下の視線は廃墟としての都市に注がれており、また地方から東京へと移住した離郷者という重い視座からの発言である。これに対して古谷には離郷者という視点はなく、もっぱら共時的な都市の風景を一瞬の角度から切り取った歌が多い。なかでも上の一首目や四首目のように、全貌を俯瞰することのかなわない大都市の隠れた一角に着目して定着した歌が、作者の視点の有り様を表しているように感じられる。藤原龍一郎もまた東京の下町生まれという出自を押し出した都市詠を多く詠んでおり、様々な角度から切り込むことのできる都市詠は、現代短歌の大きなテーマだと思われる。
『ガリバーの庭』には、夫の発病と手術、高齢の舅の介護、被爆者であった実父の死など、人生の後半において人が否応なく経験する大きな出来事を詠んだ歌も多く収録されている。これらの歌もまた人がその中を過ぎゆく時間の厚みを感じさせるものではあるが、私は一読して次のような歌に心を惹かれた。
肩触れ合ひ歩む街中テロリストの面輪やさしく紛れてをらむ
水中を出でし快楽(けらく)の一刻をとどめて魚の腹に傷あり
臓器みな透きみゆるごとし循環器病棟出でて歩む人混み
この街の上空に見えぬ磁場あらむいつまでも弧をえがく鳩群
一首目は地下鉄サリン事件を受けて詠まれた歌。テロリストの面輪は人混みの中で優しいに違いないとする把握の仕方に作者の視座がある。二首目は水から出る喜びとその結果裂かれた腹の対比に生の無惨が感じられる。三首目はレントゲン写真を見せられて病棟を出たときの印象。四首目は都市詠に連なる一首だろう。
そして掲出歌「水瓶の形に水はひつそりと置かれてゐたり秋の門辺に」はこの歌集の中では最も印象深く、様々な事件に見舞われた作者の時の流れの中で、時間の流れをすり抜けて永遠の世界に一歩入り込んだような印象を残す。短歌には現実の瞬間の定着と、永遠の形象世界への参入という、逆の方向性を持つベクトルが働きうる。現実の人称的世界とそれを超えた非人称的世界と言い換えてもよいのだが、その往還とせめぎ合いにこそ短歌のダイナミスムがあるように思えるのである。
『神の痛みの神学のオブリガート』が上梓されたのは1985年(昭和60年)のことである。前年には紀野恵が『さやと戦げる玉の緒の』で、中山明が『猫、1、2、3、4』で歌壇デビューを果しており、同年には仙波龍英の『わたしは可愛い三月兎』が、2年後の1987年には俵万智の『サラダ記念日』が出版されてある。ライト・ヴァースが注目を浴び、バブル景気が目前に迫っていた時代なのである。軽みが称揚されるそんな時代に、『神の痛みの神学のオブリガート』という重量級の意味作用を持つタイトルを自分の第一歌集に付けようとした作者の意図を思うと興味深い。
『神の痛みの神学のオブリガート』はもはや入手困難で、私は『第一歌集の世界』(ながらみ書房)というアンソロジーで抜粋を読むことができたにすぎないが、確かな短歌語法に基づく魅力的な歌が並んでいる。
いづこより吾は来たると問われゐて春の無明の夢たぐりゐる
永遠なるを問はば言葉と言ひくるるこのたまゆらの夕餉の酔ひに
光速の及ぶかぎりを宇宙とふ漠たる悲哀のみなもととして
円錐曲線試論少年パスカルの孤心するどく研がれしならむ
「知の人」と「情の人」という乱暴な二分法を適用すると、短歌における「知の人」の代表格は香川ヒサだが、古谷の歌にも事柄の知的把握を基盤とする抒情というスタンスが感じられる。「永遠」「宇宙」「光速」などの生活世界に還元されない硬質な語彙が形而上的世界への関心を示しており、4首目のパスカルの歌などは「スバルしずかに梢を渡りつつありと、はろばろと美し古典力学」という永田和宏の歌を連想させ、文科系的発想に理科系的な世界を接続していて注目される。経歴を見ると古谷本人は文科系だが、ご主人が理科系の研究者のようで、そこからの影響かもしれない。数学などの抽象思考を舞台とする抒情は、坂井修一に例はあるものの、現代短歌では未だに未開拓の領域であることはまちがいない。
『現代短歌大事典』(三省堂)の古谷の項目を執筆した同じ中部短歌会の大塚寅彦は、「第二歌集以後は知的な感性によって都市生活の中のさまざまな事物の本質を描き出してゆく」と書き、代表歌に「交差点に塞き止められし人の群むれの中にて群をみてをり」という第二歌集『ロビンソンの羊』の一首を挙げている。大塚がこの歌を選んだのは、群集の中の個という視点から、個から群集を眺めるという視点へと、一首の中に視点の転換があるからだろう。ちなみにタイトルの「ロビンソン」は孤島に漂着したロビンソン・クルーソーだろうし、第四歌集『ガリバーの庭』はスウィフトの『ガリバー旅行記』から取られており、この選択に作者の嗜好が窺える。それは微少な生活世界に自己の視野を限定することなく、時に時間と空間を超えた世界にまで視線を彷徨わせ、歌に物語的遠近法を付与したいというスタンスだと考えられる。
『ガリバーの庭』には都市詠が多く含まれており、『都市詠の百年 街川の向こう』という著書もある作者にはかねてより関心の深いテーマのようだ。
急(せ)き走る車が一瞬街角のショーウィンドーを飾りて消えぬ
都庁舎の外壁あはき電飾に照らされ春の海ゆく母艦
帰路遅き街頭に立つ透明な電話ボックスに電話鳴りゐる
カーブミラーに映らぬ一台車体低く唸りて都心の闇に消えゆく
一冊の分厚き都市論かかへゆく夕べ地下街の雑踏を縫ひ
硬質の肌光る馬ジェラルミンの鬣(たてがみ)を梳く都心の雨は
山下雅人の『世紀末短歌読本』を貫くテーマもまた「都市」であるが、山下の視線は廃墟としての都市に注がれており、また地方から東京へと移住した離郷者という重い視座からの発言である。これに対して古谷には離郷者という視点はなく、もっぱら共時的な都市の風景を一瞬の角度から切り取った歌が多い。なかでも上の一首目や四首目のように、全貌を俯瞰することのかなわない大都市の隠れた一角に着目して定着した歌が、作者の視点の有り様を表しているように感じられる。藤原龍一郎もまた東京の下町生まれという出自を押し出した都市詠を多く詠んでおり、様々な角度から切り込むことのできる都市詠は、現代短歌の大きなテーマだと思われる。
『ガリバーの庭』には、夫の発病と手術、高齢の舅の介護、被爆者であった実父の死など、人生の後半において人が否応なく経験する大きな出来事を詠んだ歌も多く収録されている。これらの歌もまた人がその中を過ぎゆく時間の厚みを感じさせるものではあるが、私は一読して次のような歌に心を惹かれた。
肩触れ合ひ歩む街中テロリストの面輪やさしく紛れてをらむ
水中を出でし快楽(けらく)の一刻をとどめて魚の腹に傷あり
臓器みな透きみゆるごとし循環器病棟出でて歩む人混み
この街の上空に見えぬ磁場あらむいつまでも弧をえがく鳩群
一首目は地下鉄サリン事件を受けて詠まれた歌。テロリストの面輪は人混みの中で優しいに違いないとする把握の仕方に作者の視座がある。二首目は水から出る喜びとその結果裂かれた腹の対比に生の無惨が感じられる。三首目はレントゲン写真を見せられて病棟を出たときの印象。四首目は都市詠に連なる一首だろう。
そして掲出歌「水瓶の形に水はひつそりと置かれてゐたり秋の門辺に」はこの歌集の中では最も印象深く、様々な事件に見舞われた作者の時の流れの中で、時間の流れをすり抜けて永遠の世界に一歩入り込んだような印象を残す。短歌には現実の瞬間の定着と、永遠の形象世界への参入という、逆の方向性を持つベクトルが働きうる。現実の人称的世界とそれを超えた非人称的世界と言い換えてもよいのだが、その往還とせめぎ合いにこそ短歌のダイナミスムがあるように思えるのである。