つり革にのぞく少女の切れかけた
生命線が吸ふ晩夏光
日置俊次『ノートルダムの椅子』
通勤電車かバスのなかでの情景だろう。つり革を握る少女の掌の生命線が切れかけているという。作者は写実を作歌の基本としているので幻視とは解釈できないが、単にそのように見えたということかもしれない。それは重要なことではない。重要なのは「実際に生起した事実かどうか」ではなく、作者がそれをいかなる回路で受容し歌へと昇華したかである。「少女の切れかけた生命線」は、一般論として思春期の生の危うさを思わせ、特に拒食症やリスカという危険に囲繞されている現代の少女の生きる世界を浮上させる。少女の生の短さを象徴する切れかけた生命線に、晩夏の朝の光が降り注いでいる。その光景を受容する作者の心理は一縷の諦観が混入された〈戦き〉だろう。
日置俊次は第一歌集『ノートルダムの椅子』で今年の第50回現代歌人協会賞を受賞した新鋭歌人である。青山大学文学部日本文学科で教鞭を取る日本文学研究者でもある。歌集題名ともなった集中の連作「ノートルダムの椅子」は、平成17年度の角川短歌賞の次席に選ばれていて、その折りに角川『短歌』誌上で読んだ記憶がある。連作「ノートルダムの椅子」は次の歌で始まっている。
この留学より〈われ〉が始まる 原点をノートルダムのかたき椅子とす
作者はフランス政府給費留学生としてパリで留学生活を送った人で、留学中に短歌を作り始めたというから、これはまさに作者の歌人としての原点でもあるのだろう。フランス政府給費留学生というのは、選抜試験を受けてフランス政府から奨学金を受けて留学する制度をいう。かく言う私もずいぶん昔になるが、同じくフランス政府給費留学生としてパリで学んだので、日置の歌を読んでいると我が事のように共感できるものが多い。共感できすぎてしまうと言うべきか。
プルースト好きの日本人(ジャポネ)がまたひとりと苦笑し教授が肩をたたきぬ
長い髪のうしろに座りブロンドの斑(むら)見つめつつ心理学聴く
「日本館」とふパリの学寮に伝はりし雪平鍋をかぷかぷ洗ふ
〈ジャップ〉ですらもない希薄なる笑み泛かべパリに棲む 宮澤賢治抱へて
わがために流れよセーヌ 批判されし『スワンの恋』論はこべ海まで
一首目は業界の人でないとわかりにくいかも知れないが、フランスに留学する仏文研究者におけるプルースト研究者比率は異常に高い。だから「またプルーストか」という老教授の苦笑混じりの感想になるのだ。二首目のブロンドに斑があるのは染めた金髪だから。フランス人にもともと金髪は少ない。作者は留学生が暮す大学都市の日本館に在住していたようだ。帰国する人が残した代々伝わる雪平鍋があるのだろう。あり合わせの家財道具で暮す留学生のわびしい生活の一場面である。四首目は作者の自意識を描いたものだが、外国で長く暮らしているとこのような心理状態になるのは避けられない。「〈ジャップ〉ですらもない」という所に、アイデンティティーが希薄になる外国暮しの痛みが滲み出ている。最後の歌は論文かレポートを指導教授に批判された時の歌だろう。日本とちがって批判は容赦ないもので、批判されたときに落ち込みはたいへんなものがあるのだ。
角川短歌賞で次席に選ばれた時の選評では、一位に押した高野公彦が「叙情的で、思索的、知的な要素がある」と高く評価し、小池光は「一つ一つの歌が単なる観念的なものではなくて、ディテールがある」と述べている。確かに作りがしっかりしていて破綻のない歌が多いのだが、それは逆の面から言うと意外性や飛躍がないということでもある。いくつか歌を引いてみよう。
目白らを追ひはらひみかん食べつくす鵯と内気なわれの眼があふ
手児奈池のなよれる亀か池袋東武デパートのペット売り場に
二丁目のコンヴィニもつひに潰れたり朝ごとに買ひしあのメロンパン
ゆりかもめの蹼(みづかき)といふ燠火みゆ 踏みこえられて風の鳴る音
反りて火にしづみゆきたりわが想ひをこばみしひとの伸びのある文字
一首目のような自省の歌が集中には比較的多いが、「内気な」のように心情に直接言及する表現はないほうがよかろう。二首目の手児奈は万葉集にも読まれた真間の手児奈のこと。作者は近くに在住しているらしく、手児奈に想を得た歌が他にもある。三首目は厳しい経済競争の結末がテーマだが、結句の「あの」という指示詞がきいている。四首目はゆりかもめの水掻きの色を燠火に譬えた歌で、静かな歌のなかに隠された激しさを感じさせる。五首目は思いを拒まれた人からの手紙を焼く場面で、沈んで行く自分の思いと、逆に伸びのある文字との対比が鮮やかである。いずれも描かれた場面が明瞭にイメージできるように作られており、情景を歌に定着させる作者の力量を示している。
しかしイメージが明瞭だということは、逆に言うと歌が指し示す世界が言葉で説明された世界に限定されるということでもある。言語記号の最も大きな機能は指示機能で、「犬」という記号で〈イヌ〉という動物の概念を指す働きであることに異論はない。しかし、短歌で用いられる言葉には、単なる指示機能を超えて、通常は指し示されることのない何ものかを暗示する余剰的機能があるはずだ。それが発揮されていないと、短歌は「読んだままの世界」しか描くことができない。しかし、それでは読んだ人の感覚の非日常的拡大は望めない。その点から言うと、私が注目したのはむしろ次のような歌群である。
乳母車見下ろす母をおしつつみ水木の葉うら這ふみづあかり
破傷風の接種を受けしよりパリの路地には馬のにほひ満ちたり
さつくりした陽ざしの底に白鳥はみなカリエスを病みて浮かべり
火の卵を抱きて走る その火にて身を炎やしいつか孵すたまごを
たれもゐぬ他界にたれか白頭鳥(ひよどり)の咽しめながら翔けるゆふぐれ
黒揚羽そこびかりしてふりむかぬ僧にもみたびかげをこぼしぬ
ゆふぐれの宇宙は百合のなかへ入りあまやかな疵(きず)ほつかりひらく
一首目は今までの歌とはちがって、描かれた場面がそれほど明瞭ではない。「母」はいったい誰の母なのかも語られていない。しかし、「水」「みづ」の繰り返しを含む下句には魔術的な喚起力があって惹きつけられる。二首目は角川短歌賞の選評で高野公彦も褒めていた歌だが、破傷風の予防接種を受けた後で馬の匂いを感じるという所に感覚的拡がりがある。三首目は白鳥とカリエスの結合が残酷で幻視的である。四首目はイラク戦争を詠った連作のなかの一首で、火の卵はおそらく爆弾の暗喩だろう。自爆テロをテロリストの心情の側から詠ったもので、集中では異色の一首である。五首目は幻想的な心象風景を詠ったものと思われる。六首目は写実のようでありながら、限りなく幻視に近付いている点がミソ。七首目は百合の花が開花した情景を詠んだものだが、極小の百合に極大の宇宙を感じている点にスケールの大きさがある。
角川短歌賞の選評で選者たちが評価したのは、「知的要素」と「ディテールがしっかりある」という点だから、ここに引用したような歌はその基準からはいささか外れている。先に引用したような歌群の方が、むしろその基準に合致している。ここから先は好みの問題と言ってしまえばそれまでなのだが、私は言葉の魔術で普段は見えない世界を見せてくれる短歌が好きなので、上に引用したような歌が心に残った。それが作者の本意かどうかはまた別の話である。