159:2006年6月 第4週 噴水の歌

 今は6月末で梅雨の最中だが、うっとうしいこの時期になると涼しさを感じさせるお題シリーズに走りたくなる気持ちがふつふつと湧く。というわけで今回は「噴水の歌」である。噴水は夏の季語だが、冬の噴水を詠んだ歌もまた多い。

 水の表面は原則として水平であり、また水は土地の高低に沿って低きに流れる。水を高く噴き上げる噴水は人為によるものであり、自然と対置された人工の極致と考えることができる。ヨーロッパでは古代ローマ時代から噴水は庭園に不可欠の要素で、現在でもイタリアの庭園には噴水が多い。グラナダのアルハンブラ宮殿にも美しい噴水があり、アラブ世界においても噴水は楽園のイメージと結びついていた。日本における近代的噴水は、1903年に日比谷公園に作られたものが最初だという。「喨々とひとすぢの水吹きいでたり冬の日比谷の鶴のくちばし」という北原白秋の歌はその最初の噴水を詠んだものだろうか。収録されている『桐の花』は1913年刊行だから可能性は高い。

 小池光の『現代歌まくら』も噴水を立項していて、次の3首が引用されている。

 自動車の後ろに高き噴水の立つと思ふがここちよきかな  与謝野晶子

 天上を恋ふる噴きあげ環となりて水堕つるなり都市の空間  前登志夫

 冬の日の光かうむりて噴水の先端がしばしとどまる時間  佐藤佐太郎

 与謝野晶子の歌は洋行中の歌で、まだ日本では珍しかった風物としての噴水が詠まれている。小池は、前登志夫の歌では都市空間を形成する垂直線としての噴水を、佐藤佐太郎の歌では噴水の先端が表している空間が反転した時間の停止を指摘している。

 噴水を眺めるとき、ポイントはいくつかある。水が勢いよく吹き上がる様、いったん上がった水が落ちる様、水柱が風に揺れる様、そして水の噴き上げが止まる様などで、歌人はそれぞれ自分の感性に応じて諸相のなかから取捨選択している。その選択の様子が興味深い。

 噴水の水燦燦とひらきおり薔薇のごとくに水は疲るる  阿木津英

 噴き上げの白しぶく秀(ほ)の縺るるがさすらいびとのごとく立てるも  阿木津英

 照らされし空間にして水柱打ち合いしびるる如くなる個所  高安国世

 時雨過ぎて青める夕べ噴泉は人なきときを音あらく噴く  玉井清弘

 上の歌群はいずれも噴水が水を噴き上げる様子に焦点を当てている。阿木津の一首目は噴水の華麗さを上句で前景化し、そのイメージは下句の薔薇の喩を導出するが、結句の「水は疲るる」に至って作者の感情の注入がある。阿木津の二首目では、噴き上がる噴水が「さすらいびとのごとく」と形容されることにより、全体として心象の喩に転化している。高安の歌では、「空間」「個所」という硬質の抽象語彙の使用によって景は抽象化され、「しびるる如くなる」という表現によってさらに観念化されていると言えるだろう。モダニスムの香りが高い表現となっている。また玉井の歌は人気のない公園で水を噴き上げる噴水を詠んだもので、一首の見るべきポイントはもちろん「音あらく」にある。

 絵師はきて噴水散らす風をいふ世界は風に満つるといへり  坂井修一

 噴水は疾風にたふれ噴きゐたり 凛々たりきらめける冬の浪費よ  葛原妙子

 冬の噴水ときおり折れて遠景に砲丸投げの男あらわる  佐佐木幸綱

 上の歌群は、噴水の水が風で散らされる様に着目している。定常流となって噴き上がる噴水は不動の柱とも見えるが、水が散らされ水柱が折れることによって、不可視の風の存在が前景化される。坂井の歌は噴水よりも目に見えない風を詠うことに主眼があり、スケール感の大きな歌となっている。葛原の歌はあまりにも有名な歌で、水が風に飛び散る様を「冬の浪費」とする主観的断定の強さと下句の大幅な破調が印象的である。佐佐木の歌は噴水の向こう側に砲丸投げの男を配することで一首に遠近感を生み出している。マラソンでもなく幅跳びでもなく砲丸投げであるところがミソ。

 噴水のしぶき微かにふたたびを横ぎるときに翳る微笑み  高安国世

 音もなく霧をひろぐる噴水のとらえがたなき哀しみに遭う  高安国世

 待つ側に立つ人たちの腰かける噴水広場の円形のいす  嵯峨直樹

 高安には噴水を詠んだ歌が多い。上の歌は噴水そのものを即物的に詠ったものではなく、噴水の回りに集う人を詠んだものである。一首めの微笑が翳るのは相手の女性でこの歌は相聞と読むべきだろう。二首目では噴水を眺める〈私〉の心情に焦点が当てられている。噴水の多くは公園にあり、その回りに集う人々がいるはずなのだが、以外にそのような視点から詠まれた歌は少ない。嵯峨の歌では噴水の周囲で人を待っている人々が詠われているが、この歌では必ずしも噴水でなくてもよいような気もする。

 噴水は挫折のかたち夕空に打ち返されて円く落ちくる  吉川宏志

 ほんとうに若かったのか 噴水はゆうやみに消え孔を残せり  吉川宏志

 流星の痕なき空へ噴水の最後の水がしばしとどまる  林和清

 水の涸れた噴水のみを点景に佇てり消滅だけを信じて  光栄堯夫

 青銅の天使の噴ける水まるくひらきぬ水の腐臭かすかに  佐伯裕子

 上の歌群では噴水がネガティブな視点から把握されている。吉川の一首目では、噴水の水が噴き上げられて落ちる様に焦点が当てられて、それが「挫折のかたち」と表現されることで心情の喩となっている。二首目では上句のつぶやきと下句の叙景が対となり、描かれているのは夜になり水が止められた噴水である。林の歌でも噴水が噴き上げる最後の水が焦点化され、全体として希望のなさが浮かび上がる。光栄の歌ではもはや水を噴き上げることのない噴水が取り上げられており、その象徴的価値は明白だ。佐伯の歌は嗅覚に訴える肉感的な歌で、作りに間然とするところがない名歌だと思う。

 噴水のまばゆい冬のひるさがり少女は影に表情がある  加藤治郎

 噴水のしぶきを頭にあびながらベンチに待てり、不発弾処理  加藤治郎

 現代短歌シーンを疾走する加藤の噴水を詠んだ二首をあげた。一首目を見ると、冬の噴水が詠まれることが多い理由のひとつは、モノトーンになりがちな冬の情景に彩りを与えるためだということがわかる。二首目はいかにも現代短歌という作りで、四句目までは伝統的な近代短歌と言っても通るが、結句の「不発弾処理」で一気に世界のキナ臭さが前景化されるという仕組みになっている。極小から極大へと飛躍する点もまた、現代短歌が切り開いた手法のひとつである。結句によるこのような転換は「未来」の得意技だと三枝昂之が指摘したことがあるが、この意味で加藤は岡井隆の直系の弟子と言えるかもしれない。