169:2006年9月 第1週 酒向明美
または、眼差しは現象を超えて抽象のかげりへ

どうしても現象(フェノメノン)に目がゆきさうだ
     枇杷がゆさゆさ陽を孕むだから
           酒向明美『ヘスティアの辺で』

 わかりそうでわかりにくい歌だ。上句の意味は明瞭である。「どうしても現象に目が行ってしまう」というのは、われわれの感覚で捉えられる形而下の世界に捕われがちだということだ。現象の反対は本質であり、作者は形而上の世界にほんとうは目を向けたいと願っている。でも枇杷の揺らぎに象徴される自然界の煌めきが、作者の視線を現象世界に招いてしまう。おおよそこのような意味かと思われる。女性歌人のなかでは珍しく思弁的な歌風であり、現実を組み換えて抽象に至ろうとするその方法論は、ときに歌意の晦渋さを招きながらも注目される。また掲出歌の結句におまけのように付け加えられた「だから」が破調を生み、予定調和的コーダを破壊しているのもおそらく意図的なことなのだろう。

 作者の酒向明美については、金沢在住で結婚して男の子が二人いることくらいしか知らない。「未来」と同人誌「レ・パピエ・シアン」に所属していて、『ヘスティアの辺で』は2000年に上梓された第一歌集である。題名の「ヘスティア」はギリシア神話の竈の女神で、あとがきに「ひとつの場所にとどまるという生き方に、迷いのない叡智をみる」と著者自身が書いている。「凍豆腐つゆふふませて溺れをるのっぺら世帯のヘスティアの辺(べ)で」という歌があり、「辺」には「ベ」とルビが振ってある。「厨辺」(くりやべ)と同じことだろう。

 女性歌人の場合、恋愛・失恋・結婚・出産・離婚といった女の一代記的人生の里程標がそのまま歌に詠み込まれていることがおおいのだが、酒向の場合、そのような実人生的要素は非常に少ない。そういった要素はまずふるいにかけられて、存在の抽象度を高められてから、歌を構成するパーツとして登場することを許されているのだろう。

 入り日待つ一瞬のためにある埠頭ほほづゑついてわたしは生きて

 肉体の崩ゆる日よりもなほうつろ生きたあかしの灰の軽さの

 わすれ水さがしゆくべし薔薇酔(ゑ)ひの覚めやらぬきぞまたはあした

 パール・グレーの鈍きひかりの横溢に喪の夏はありと粛粛きたりぬ

 流されて汽水に沈みし思想かな旗はみぎはへひるがへるみぎへ

 まつたきフォルム林檎を食めば疵あらぬわが歳華の酸ゆさしたたる

 いずれも純粋の叙景でもなく純粋の叙情でもなく、言葉を梃子として「凡庸な現実」を一段階上がろうとするかのごとき語法である。日常生活で何かハッと気づいたことがあり、それを歌にしたというものではない。だからこういう歌の解説はとてもむずかしい。たとえば三首目、「薔薇酔ひ」は薔薇の香りに酔うことであり、感覚的陶酔を表しているが、それがまだ覚めないうちに「わすれ水さがしゆくべし」とあり、陶酔と覚醒の交代が詠われていると思われるのだが、それが何かの具体的体験を指しているとは考えにくい。言葉の差し出す意味の純度が高められているそのような使い方だろう。 

 ひたぶるに注ぐうつはになりたくて身の裡深くくぼみを彫らむ

 人はなぜ温もりのある懐を求める裡なる世界を有ちて

 冬空がラピスラズリになだれ込む突然言うから薄目をあけた

 スリットゆ生まれたる恋は待つのみのわたしを追ひ越し交差点(スクランブル)過ぐ

 やはらかにふかくひろごるたなごころあはれをみなの美徳とされつ

 ここにあげたのは恋の歌、あるいは女という立場から詠んだ歌だが、やはり具体性は乏しく、心情の吐露よりも自らのなかに疑問を持って問いかけるという姿勢が勝っている。作者にとって歌とは心情の表現であるよりも問の器であり、言葉を入念に選び磨くという作業を通して、自分を取り巻く現実を抽象のレベルへと押し上げたいという願いが込められているようだ。この方向がさらに進むと「夏椿咲(ひら)くかたへにそと置きてうつし身はすずしきこの世の嘘」と詠った照屋眞理子の境地に近付くのだが、ここまで行くとそれは『玲瓏』の世界になってしまう。もともとはアララギの流れを汲み、写実を基本とする結社「未来」だが、所属する歌人の歌風の振幅は大きく、酒向のような指向を持つ歌人が「未来」にいるということもまたおもしろいことである。

 最後に印象に残った歌をいくつかあげておく。

 月齢を増しつつをらむ提供の臓器しづかに外さるる夜の

 てぶくろの十指にあまるせつなさをこぼしつつ行く思案橋まで

 月面にひとの足型標されて白兎の至福とはにほろびぬ

 うつくしき錯誤ひとつを与ふること謀りてほどかるカサブランカは

 母たらず死にゆく母にどことなく肖るわが鎖骨冷えて久しき