168:2006年8月 第5週 岡崎裕美子
または、書き割りのような戦場を生きる身体感覚の歌

いっせいに鳩が飛び立つシグナルの青
     あの部屋にブラウスを取りに
          岡崎裕美子『発芽』

 ふつうなら岡崎の代表歌としては、歌集の帯にも印刷されている「したあとの朝日はだるい自転車に撤去予告の赤紙は揺れ」を選ぶところだろう。しかし最初は付箋を付けていなかった上の歌を選んだのは、話題になった「したあとの」の大胆な性愛表現よりも、上の歌の方が岡崎の美質がよく現われていると思ったからである。

 上句「いっせいに鳩が飛び立つシグナルの青」は、交差点の信号が青になり自動車が発進して鳩が飛び立つ光景だろう。しかし、たくさんの鳥が飛び立つ光景は、ヒッチコックの名作『鳥』を待つまでもなく、危機意識や災厄の前兆としての象徴的価値を持っており、上句はどこか危機を孕んだものとして読める。そして一字空けを挟んで下句「あの部屋にブラウスを取りに」が続くのだが、「遠・親」を表す指示詞「あの」で指されているのは、歌のなかの〈私〉と誰かが共有した体験を過ごした場所である。その部屋にブラウスを取りに行くというのだから、たぶん置き忘れた自分の服を取りに行くのであり、同時に恋人との別れを暗示している。上句と下句との間に意味的連関はなく、一字空けがその無関係性をだめ押ししているが、ここには上句と下句の間で成立する短歌的喩がある。だから岡崎は見かけ以上に現代短歌のコードに忠実に則って歌を作っているのであり、さすがは岡井隆の弟子なのである。

 岡崎裕美子は1976年生まれで、「未来」に所属し『発芽』(2005年)は第一歌集。あとがきに高校生の頃から短歌のようなものを作っていたとあるから、たぶん投稿歴があるだろうと探してみたら、『短歌研究』2000年の臨時増刊号「うたう」作品賞に応募していた。投稿歌の多くは『発芽』に収録されているようだ。

 さて、岡崎の短歌世界の特質だが、上にも書いたように、大胆な性愛表現が見られ、あとがきを書いた岡井隆はそれを「ときには掌篇小説のように」と評している。

 蜜よりももっとどろどろした時間確かめもせず君を味わう

 交わってきたわたくしを抱くあなた キャベツのようにしんと黙って

 Yの字の我の宇宙を見せている 立ったままする快楽がある

 しかし性愛表現といえば、すでに1986年には林あまりの 『MARS☆ANGEL マース・エンジェル』が先行していて、短歌の世界ではすでに経験済みである。

 しろっぽい目の妻のこと嬉々として話したあげく抱こうとするのか

 性交も飽きてしまった地球都市したたるばかり朝日がのぼる

 林の歌集の背景には80年代のフェミニスムの台頭と、石岡瑛子とリサ・ライオンに象徴された強い女という時代の雰囲気がある。一方、岡崎にはそのような志向はかけらもなく、林の歌にあった激しく相手を求める男女関係もない。岡崎の歌は同じ性愛を詠っても、どこか淡く投げやりで、相互交通がなく一方的なのだ。

 体などくれてやるから君の持つ愛と名の付く全てをよこせ

 豆腐屋が不安を売りに来たりけり殴られてまた好きだと思う

 平行線上に非常ベル見えていてされるがままになって傾く

 初めてのものが嫌いな君だから手をつけられた私を食べる

 一首目は激しい愛の希求というよりも、捨て鉢感覚が先行する。二首目の上句はおもしろいが、殴られて好きだと思うのは自己愛が不足していはしないか。三首目も恋愛においてあくまで受動的であり、四首目では自分を男の好きな食べ物になぞらえる感覚に驚かされる。80年代のフェミニストなら決してこのような言い方はしないだろう。

 この印象は次のような歌を見ると一層強まるのである。

 こじあけてみたらからっぽだったわれ 飛び散らないから轢いちゃえよ電車

 鳴らぬもの集めてまわる男いてそのトラックにわれも乗りたし

 「渡辺さんですよね」と言われてその日から渡辺さんとして生きている

 なんとなくみだらな暮らしをしておりぬわれは単なる容れ物として

 自分はからっぽだという強い感覚が、電車に自分を轢けという自己破壊衝動として溢れた出す。二首目の「鳴らぬもの」とは、壊れた鳩時計やオルゴールのように、本来鳴るものが鳴らなくなったという意味と解する。ここにも自分はどこかが壊れていて鳴らないという感覚がある。三首目の歌が表しているのはずばりアイデンティティーの希薄さだろう。四首目にも自分を単なる容れ物として把握する凹感覚が見られる。これらの歌に共通して感じられるのは、自己意識の希薄さと投げやり感なのである。

 この感覚はどこかで見たことがあると思っていたら、次の歌に遭遇した。

 通夜のあと告別式の時間まで転がって読む岡崎京子

 そうだ。この感覚は岡崎京子のマンガにただよう空気とどこか似ているのだ。93年から94年にかけて発表された『リバーズ・エッジ』に登場する高校生達。ゲイでいじめられっ子の山田君と、モデルで過食と嘔吐を繰り返す吉川さんが、河原で偶然見つけた人の死体を宝物にしているという物語。作者の岡崎の言葉を借りれば、「あらかじめ失われた子供達。すでに何もかも持ち、そのことによって何もかも持つことを諦めなくてはならない子供達。深みのない、のっぺりとした書き割りのような戦場」を生きる子供達。岡崎の短歌の醸し出す雰囲気は、このマンガの空気感とよく似ている。

 焼けだされた兄妹みたいに渋谷まで歩く あなたの背中しか見ない

 いずれ生む私のからだ今のうちいろんなかたちの針刺しておく

 さいあくだあと吐くように鳴るシャッターを下ろすもうすぐ川を越えるの

 「焼けだされた兄妹」は岡崎京子のマンガの主人公であってもおかしくないし、岡崎の主人公もまた「さいあくだあ」と叫んでいる。「川を越える」というところに、東京近郊に住み電車で通う郊外生活者の感覚がある。二首目の針はたぶんピアスのことで、針をさすことによってかろうじて確認される身体感覚もおそらく短歌の世界では新しいが、小説の世界ではすでに『蛇にピアス』でお馴染みだ。

 このように岡崎裕美子の『発芽』は短歌の技法的にとりわけ新奇な試みを行なっているわけではなく、むしろ現代短歌のコードに乗っているのだが、短歌に歌われた世界、とりわけ〈私〉の自己感覚は極めて現代的だと言ってよいのである。この自己感覚は声高な主張と数の力で世の中を変えてきた団塊の世代の人達にはわからないだろう。「もっとしゃゃきっと生きろ」などと説教されかねない。1973年生まれの佐藤りえや1975年生まれの生沼義朗らの団塊ジュニアあたりの世代感覚にいちばん近いだろう。もちろんすべてが世代論に還元されるわけではなく、岡崎の短歌に表現されている身体感覚は注目されるのであり、その推移はもう少し時間をかけて見守る必要があるだろう。