186:2007年1月 第4週 都築直子
または、私たちの空間把握に垂直の次元を加える歌

蒼蒼と瞠(みひら)くまなこ森のうへに
      降る点ありてこゑを放たず
        都築直子『青層圏』(雁書館)

 「蒼蒼(そうそう)と」は、(1) 空・海などが青い様、(2) 草木が生い茂っている様、(3) 薄暗い様を表す連用修飾語である。したがって「蒼蒼と瞠くまなこ」は「青い瞳」とも「薄暗い瞳」とも解釈することができる。このような場合、両方のイメージが重なることが多くそれでよい。「青い瞳」ならば西洋人である。尋常でないのは下の句である。「降る点」とはパラシュートを用いてスカイダイビングをしている人なのだ。この前に「いつまでも開かぬ主傘もがきつつ降る人体をわれは見たりき」という歌があり、パラシュートが開かず地面に激突しようとしているダイバーのことだと知れる。現代短歌はさまざまな情景を詠ってきたが、空から降って来る人をこのように描いたことはかつてなかったのではなかろうか。素材の新しさに流されることなく結句を「こゑを放たず」と静かに締めくくった短歌的手腕にも注目したい。

 歌集巻末の略歴によると、都築直子は1955年生まれ。上智大学のフランス語科を卒業してスカイダイビング・インストラクターになり、その後小説家に転身したという異色の経歴を持つ人である。中部短歌会を経て日本歌人社に所属。『青層圏』は第一歌集で前川佐重郎が跋文を寄せている。歌集題名の「青層圏」は「成層圏」を踏まえた造語で、作者がもとは空を職場としていたことと関係しているのだろう。「青」の一字は歌集が捧げられている春日井建の記憶にもつながる。青一色の表紙に半透明のプラスチックカバーをかけて空の色を再現した瀟洒な造りの本だ。

 収録歌のなかでまず注目されるのは、何と言ってもスカイダイビング・インストラクターとしての経験から生まれた歌だろう。

 わがうへにふつと途切れしセスナ機のおとの航跡よぞらにのこる

 着地場の暗がりの中に聞きとめよ にんげんが夜をおりてくるおと

 青ふかく引かるるままに落ちてゆく からだしづかに浮かびはじめぬ

 旋回の機よりにんげん減るたびに床の面積広さを増しぬ

 地上より仰がばひるの花火ならむいま宙空を散りゆくわれら

 まひるまの地へおりゆけばねつとりと熟れた空気が手足にからむ

 一首目の飛行機の爆音や二首目の降下音には体験のみが生み出す迫真性が感じられる。三首目は落下の身体感覚を詠っており、パラシュート降下ならばまっさきにテーマとなるだろうが、作者は四首目のように降下が進行するにつれ飛行機の床が広く見えるという細部にも周到な視線を送っている。また最後の歌のように降下後の身体感覚を詠んだものもあり、上空と地上の最も大きな体感の差は温度と湿度だということがわかる。

 さまざまな素材を貪欲に取り入れる現代短歌においても、スカイダイビングの歌は少ない。『現代短歌分類集成』(おうふう)を見ても、「水平に身を伸べて翼負ふ人ら漂ひゆけり万緑の上」(三国玲子)というパラグライダーの歌と、「ハングライダー群の一つが遠ざかり消えにし空の夢幻の如く」(千代國一)というハンググライダーの歌は収録さているがスカイダイビングの歌はない。これらの歌にしても、自分で飛んでいるのではなく、地上から飛ぶ人を見ている歌である。パラシュートの歌といえば、『短歌パラダイス』(岩波新書)の「パラシュートひらきし刹那わが顔のステンドグラス荒天に見ゆ」という水原紫苑の歌がすぐに思い浮かぶが、これは100パーセント想像で作られた歌である。

 おもしろいのはスカイダイビング・インストラクターという職業経験のゆえに、空間把握が地上に縛り付けられた人とは異なるという点だろう。パラシュート降下は垂直落下であり、このため作者の空間把握は空へと続く垂直軸を加えた三次元になっている。

 高層の壁の真下にわれ一人のけぞるやうにいただき仰ぐ

 足もとより空に直ぐ立つ垂線をふたつまなこに追ひ飽かずけり

 緋の色はあらはとなりて壁面に立ちあがりたるけふの朝焼け

 空中にふかくねむれる者らありて機内映画のましろきひかり

 五十階、屋上プールに浮く女男(めを)をしづかに覆ふ夜のあをぞら

 垂直の街に来る朝われらみな誰か生まれむまへの日を生く

 パラシュート降下で地上を見下ろす眼差しは、反転すれば地上から上空を見上げる眼差しとなる。この視線は地上を歩くのみで二次元平面で暮しているわれわれとは質の異なるものである。また四首目で航空機の乗客を「空中にふかくねむれる者ら」と表現したり、五首目の高層ビルの上にあるプールに泳ぐ人を空中に浮遊する人と表現したりするのもまた、同じ三次元的眼差しがもたらすものである。このように都築の歌はスカイダイビングという素材の新鮮さのみに寄りかかったものではなく、空間把握の新しさという点においても目を引く。優れた詩や歌は世界の新しい見方を提示するものだ。それを読んだ後では、もう世界は今までのようには見えなくなるというのが究極の理想型である。このことに鑑みても都築の短歌が提示する空間把握は注目に値すると言えるだろう。

 素材が新奇な場合、ネタの新鮮さだけで勝負する寿司屋のように、素材と実体験に基づく実感が過度に前面に出てしまい、歌の姿を損なうことがままある。都築のスカイダイビングの歌にもその徴候を感じる歌がないわけではないが、実感を越える修辞の力がそれを救っている。たとえば次のような歌である。

 てのひらに夜を握りて水となしその水ふかく入りてゆきなむ

 ひきしぼりたわめたるもの一瞬にときはなちたり光のなかに

 大空をいのち激ちて駆くるもの傘を開きて吊さるる肉

 くれなゐの光を引いて落ちゆけば闇の底より夜せりあがる

 すべてスカイダイビングの歌なのだが、ここでは具体的な素材が消されており、説明的になることを免れている。素材が消されたなかから言葉がある感覚や印象を掬い上げるように詠われている。これらの歌には確かな修辞の力が感じられるのであり、一首目「てのひらに」などは秀歌だと思う。

 この歌集には他にもタイ旅行やチベット旅行の羈旅歌も多く収録されており、作者はなかなかの行動派でハードボイルドな人生を送っているようだ。第9回歌壇賞を受賞した本多稜の『蒼の重力』を読んだときも、スキーやスキューバダイビングで世界を駆け回る行動力に驚嘆した覚えがあるが、本多や都築の歌が現代短歌に新たな次元を付け加えていることは確かだろう。

 その他にも次のような歌が特に印象に残った。

 ショスタコーヴッチながれこむ夜半の骨迷路うつむいてわれはまなこ閉じたり

 ビル風が吹き落ちる昼の植ゑこみにみどりごは青銅のまなこ開けり

 白鳩は願ひをもたぬ骨組を柵にひろげて飛びたてりけり

 斉唱は地に触るるごとながれたり明かりともれるゆふべの伽藍

 椅子ひとつ朝の戸口にはこばせて雨待つやうに僧待つをんな