185:2007年1月 第3週 今井恵子
または、私からものの存在へと深化してゆく歌

陽の下に島国の文字わわらかし
       遅れて届く春の絵葉書
         今井恵子『分散和音』

 歌を書き写していて今更ながら気がつくのは、歌人によって漢字と仮名の配分が日常の日本語とほぼ変らない場合と、大きく異なる場合とがあるということだ。漢字と仮名の使い分けの規則としてよく知られているのは、同じ語彙を一首の中で二度使うときには、一度を漢字にもう一度は平仮名にするというものである。 

 つつましき花火打たれて照らさるる水のおもてにみづあふれたり 小池 光

これは同じ語彙の反復による単調さを避けるという一般的な修辞的意識のなせる業だが、次の歌の平仮名の使い方はもっと特殊な修辞意識によるものだ。

 みずうみのあおいこおりをふみぬいた獣がしずむ角(つの)をほこって  小林久美子

 一般論としてこのような文字感覚を駆使する歌人は「コトバ派」であり、「人生派」の写実から距離を置いた地点で歌を構築しようとしている人である。今井恵子の歌について言うと、私たちが日常書いている日本語の漢字・仮名配分とほとんど変らない。ということは今井は紛れもなく「人生派」歌人なのである。

 今井恵子は1952年(昭和27年)生まれ。早稲田大学在学中に「まひる野」に参加して作歌を初めている。ということは窪田空穂の流れを汲むわけで、近代短歌の王道であった写実と民衆の詩としての短歌がベースにあることになる。その後1982年に武川忠一を中心として結社「音」が結成されたときに今井も加わっている。現在では「音」も離れて、2002年に吉野裕之・高橋みずほと創刊しした歌誌「BLEND」を拠点に活動している。『分散和音』は1984年刊行の第一歌集。「分散和音」とは音楽用語でアルペジオのこと。この題名といい、第二歌集『ヘルガの裸身』といい、今井は歌集の題名の付け方が巧みだ。

 さて今井の歌は第一歌集『分散和音』を見る限り王道を行く「人生派」で、中学教員をしていた頃の歌、そして結婚・出産・子育ての歌と並んでいて、歌人の人生行路を見るようである。しかし読んでいてふと気づくのは、自然詠が少なく人事の歌がとても多いことだ。第一部の最初には「ウィンドのシャツの帆船風をはらみ夢売るごとし夕暮れの街」のような瑞々しい叙景歌があるが、集中の今井らしい歌は次のようなものだろう。

 わが裸心見すかすごとき声ありて顔あげしとき舌かわきいき

 究極は泥をかぶらぬわれがいて海の日没などを語りぬ

 ことさらに高く笑いて水飲める人のかたえに送りたる午後

 許されて今あるわれの立場かと人のやさしさ憎む夜の卓

 開き直れと思いつつ頭(ず)よりシャワー浴び身の冷ゆるまで眼を閉ずる

 つば広き帽子を買いぬあるときは狭き視界に身を置かんため

 一言で言うならば「対他関係における自意識の屈曲」を詠んだ歌である。例えば一首目を見ると、自分の本心を見透かすような人の発言に驚いて顔を上げた時、口の中が乾いているように感じるというように、ここには他者との関係における自意識の動きが生起順序のままに叙述されている。このとき今井の視線は、発言をした他者にではなく、乾く口中を持つ自分へと向けられている。ここに挙げた他の歌にも同じ動きがあることが見てとれよう。この傾向は初期歌篇を代表する最後の歌にすでに顕著である。帽子を買うという女性らしい行動が身を飾るためではなく、自分の視界を狭めるためであるという。これは自己分析に長けた人の感覚であり、この視線が今井の歌に理知的色彩を濃厚に与えているのである。まぎれもなくこれは〈私〉の歌であり、このとき〈私〉の輪郭は生身の作者とほぼ同一である。

 短歌に何を求めるかは人によって異なる。私は今まで多くの短歌を読んできて、自分がどんな歌が好きなのかがようやく分かってきた。それはどうやら〈私〉に収斂する歌ではなく、逆に〈私〉をはみ出して行く歌、場合によっては〈私〉の輪郭を壊して拡散するような歌なのである。だから『分散和音』で今井らしい歌は上に引用したような歌だとは知りつつも、次のような歌に心を惹かれるのだ。

 透かし見ればあまた傷ありガラス器に天より秋陽の降り注ぎいて

 指の長さ比べてたわいなき会話われら地上に濃き影を曳き

 このような歌には生身の作者とほぼ同一のものと措定された〈私〉を越える眼差しがあると感じられる。

 第二歌集『ヘルガの裸身』、第三歌集『白昼』と歌歴を重ねるにつれて、今井の作風は変貌を遂げている。その変化を言い表すと、作歌の重心を〈私〉から〈ものの存在〉へと徐々に移動させていると言えるだろうか。

 噴水の石組はだらに濡れている見ており暗き袋にて〈私〉  『ヘルガの裸身』

 キッチンの床にころがしおく西瓜ひと眠るころ動くことあり

 工事場の穴の深みを覗きこむときの眼(まなこ)は眼らしくあり

 手が見えて顔見えるまで壁ぎわに母が立つまで濃く時間あり  『白昼』

 明るみにうっすりと埃。見ていしが次第に埃の重さに気づく

 降りだして白き雨脚いつのまに鞄の中が濡れたのだろう

 例えば『ヘルガの裸身』よりの一首目では、噴水の石組みが濡れているのを見ている〈私〉を暗い袋と感じているのだが、眼差しが全面的に〈私〉に収斂するのではなく、濡れた石組みもまた〈私〉と同等かそれ以上の存在感を持っているように感じられる。二首目の西瓜の歌は人を喰ったような歌だが、丸ごとの西瓜には確かな存在感がある。また三首目の眼の歌には自意識の欠片もなく、穴という非在との関係で眼そのものが即物的に詠われている。『白昼』所収の歌を見ると、歌の作りはさらに自在さを増しているようだ。『BLEND』10号から近作を引く。

 鍋底の暗きに落す粗塩の粒はざらりと指先を過ぐ

 ホームにて電車待つ間に拾いたる百円硬貨に咲く桜あり

 放課後の少女らの声のらりるれろ青きレールをわれに思わす

 長電話切りたる後はつくづくとつくづくと見つスリッパの裏

 眉のなき少女の顔に一歩ずつ近づきぬレジの列に並べば

 歌の「読み」とは不思議なもので、最初からこのような歌を示されたとしたら、どこがおもしろいのかを具体的に言語化することは難しいだろう。しかし作歌の過程においてどこに重心が置かれているかを通時的に見てゆくと、重心の変遷そのものが興味深いものと見えてくる。今井の場合、重心は〈私〉から〈私〉の外部へシフトしている。歌集を通読するとそのことがよく感じられる。それが今井の短歌に自在さの感触を与えているように思うのである。

 

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