196:2007年4月 第1週 大谷雅彦
または、発光する自然に中に自己を沈潜させる歌

苦しみて花咲かすべし夕闇の
     なか垂直に木蓮光る
       大谷雅彦『白き路』

 大谷が1976年(昭和51年)に第22回の角川短歌賞を受賞したとき、まだ高校生ということで話題になったという。高校生でありながら文語を駆使した文体と静謐な内容におおかたは喫驚し、選考委員の一人の片山貞美は「歌がどうも明治時代に帰っているようなところがあるんですね。(… )汚れていない。これは今の世の中ではちょっとめずらしいんじゃないか」と評したという(『短歌』平成16年10月号の特集「角川短歌賞50年のすべて」)。新聞でも大きく報じられ、この頃から短歌賞の受賞が社会的事件として取り上げられるようになった。しかし大谷は「短歌人」に拠りながら歌作を続けるも、1995年に『白き路』を上梓するまで歌集を持たなかった。角川短歌賞を受賞した「白き路」は歌集巻末に収録されている。

 かなかなとしみ入るこゑをあげながら杉生の中に蝉ひそみをり

 谷あひのもろ田をわたる水の音はけふ里人の壺にありたり

 水近き匂ひがありて幽かなる馬のひづめの音のみ聞ゆ

 確かに高校生が作るにしてはあまりに正調古典派で、老成感すら漂う作風である。しかしそれより驚くべきは、20年の長きにわたって大谷がその作風をほとんど変化させていないという点にある。

 『白き路』は勅撰和歌集の部立にならい、「春」「夏」「秋」「冬」「戀」「雑」という構成を採っており、「挽歌」を欠くが、あとがきに「歌集全体がひとつの挽歌である」と記されている。ここにも大谷の古典志向がよく現れているが、それは単に構成上のことではない。通読して私が強く感じたのは、歌のをちこちに漂う「湿り気」である。大谷が歌に詠む題材は自然、なかでも樹木と花であり、それは東アジアのモンスーン気候に位置する日本の湿潤な自然である。

 樹の中を水のぼりつつ冷えてゆく泪のごとく花ひらきたる

 さくらばな水にうつりてうすあをし言葉をしまふ夕暮れに似て

 さみだるる夜の湍ちをのぼりこし螢をすくへ歌のはじめに

 湖に生るる雲あつかりき明るめる底ひかすかに雪をふふめる

 やはらかに柳しだるるゆふまぐれ花咲きてのち人はありしか

 水底に水なきごとく陽は差して魚浮かびつつしばし華やぐ

これらの歌のどれにも溢れんばかりの湿潤な自然がある。地には水溢れ、空より雨・雪が降り、樹木はたっぷりと樹液を湛えている。それは欧州のような乾燥し厳しく人を拒む自然ではなく、人を包み込み人と融合する自然である。このような自然の中への自己溶解を通じて自己浄化を希求する態度は、古典和歌の時代から歌という器を用いて行なわれてきたことである。この態度から生まれるのは葛藤と煩悶の短歌ではなく、観照と慰藉の短歌である。

 自己浄化を希求する視線の先にあるのは、あるがままの自然ではない。視線に捉えられたというまさにその一点により、自然は知覚者の心に映じた自然となる。そして大谷の視線が捉える自然は、自らの光で発光する自然である。

 ふりしきる三月の雨一切の光を閉ぢて櫻樹てるを

 夜となりて時雨重なる菜の花の黄のかぎりより光湧きくる

 きざはしのかなたに光りゐるものを花と呼びたるあなたのために

 降りしきる朝の時雨に打たれつつ森あり徐々に光りはじめぬ

 光りつつわれの渚に降る時雨かそけく降れば人見つらむか

『白き路』は「光の歌集」と呼んでもよいくらいに、発光する自然に満ちている。この自然に見入るとき、作者の自己の輪郭はぼやけてゆき、言葉を失うのである。

 合歓の花咲きさだまりて夕べふかし輪郭あはき言葉を放つ

 雲みちて雲明るめるはるかなる空にかへさむ人も言葉も

 大谷の短歌を論じるとき、三枝昂之が「規範としての定型詩 ― 短歌表現の現在性をめぐって」と題された文章で行なった厳しい批評に触れないわけにはいかない(『現代定型論 気象の帯、夢の地核』所収)。三枝は「なぜ今短歌形式を選び取っているのか」という根源的問いかけを基盤として、「安保粉砕とか、東大解体とか、革命的恋とか、そんな言葉が一つ一つ風化していって、何のデコボコもない言葉の情況の中で、歌人たちが言葉を歌に高めようとして使う短歌の定型を、どのように使っているか」という情況論的問いかけを発する。そして次の3首を引用して、「詩人の詩的力量と史的体験の一回性がびったりと結合されて成立した作品」であると高く評価する。

 ひきよせて寄り添ふごとく刺ししかば声も立てなくくづをれて伏す  宮柊二

 装甲車踏みつけて越す足裏の清しき論理に息つめている  岸上大作

 運動部・民青・明日・機動隊 旗棹のさき尖鋭に研ぐ  福島泰樹

そして三枝は大谷の「白き路」の巻頭2首を引用し、次のように評している。

 あらくさの最中に光る泉あり春のひかりの在処と思ふ

 白樫の枝に崩るる残雪のかそけくなりて春たつらしも

 「ただただ見事な短歌的措辞と、ただただ見事な短歌的秩序である。ここには歴史的な時間の切れっ端が全くないだけではなく、生活とか日常性とか、作者の思想の独自性とかも見事に消し去られて、定型詩短歌のモデルコースとしての自然観と定型観とその措辞があるばかりである。」

 なかなか厳しい批評である。三枝は続けて「ある絶対的な規範を短歌に見出して、その定型観や自然観の中に自己を溶解してゆくという光景」は、「時代との軋轢を喪ったとき、歌人はこのような形で短歌に敗れはじめた」ことの徴候だと断じている。

 三枝がなぜここまで激越な言葉で大谷の短歌を批判したかを理解するには、いささかの歴史的回顧が必要となろう。三枝がこの文章を『かりん』に掲載したのは、1979年(昭和54年)1月である。三枝らが関わった新左翼を中核とする学生運動は、1970年に実質的に終息し、1972年の連合赤軍浅間山荘事件で息の根を止められる。その後、青年の政治離れが急速に進行し、もう足音が聞こえていた大衆消費社会の物質的豊かさの中に自己の在処を見いだす時代を迎えるのである。三枝の短歌をめぐる本質論的問いかけとそのいらだちは、このような時代背景を抜きにしては十分に理解できない。三枝の議論の中心にある「短歌が時代と切り結ぶとき優れた作品が生まれる」という思想は、それ自体が時代の刻印を受けた思想である。やがて短歌は80年代に入って修辞の復活とライト・ヴァースの時代を迎え、多様な方向へと拡散してゆくのである。

 確かに三枝の言うように大谷の短歌は「時代と切り結ぶ」短歌ではなかったかもしれない。それは自己への沈潜の短歌である。しかしそれから30年の年月を経て振り返ってみると、短歌定型に拠り自己へと沈潜する態度もまた、別な意味で時代の刻印を受けていたようにも見えるのである。