197:2007年4月 第2週 有沢 螢
または、内にあるみづかねの変色を見つめる歌

身のうちにみづかねといふ蝕あるを
  思ふゆふべの『テレーズ・ディケイルー』
       有沢螢『朱を奪ふ』

 著者の有沢螢という名前が本名か筆名か知るすべはないが、いずれにしても美しい名である。「沢の螢」は美しさと同時に命の明滅のはかなさを感じさせる。吉岡生夫の労作『あっ、螢』(六花書林)でも示されているごとく、古来から螢は歌によく詠まれてきた。あとがきによれぱ、著者は6歳から短歌を作っているという。もし本名だとすれば、歌を詠むべくこの世に生を受けたのかもしれないという考えがふと頭をよぎる。

 掲出歌の「みづかね」は「水銀」のことで、水銀は有毒の金属である。日本では古くは水銀の硫化物である辰砂が、朱色の顔料である丹(に)の原料として用いられてきた。だからこの歌の「みづかね」は、歌集の「朱」と微妙に呼応している。『テレーズ・ディケイルー』はフランスの作家モーリアックの代表作の小説。モーリアックはカトリックに深く根ざした作家で、人間の原罪の闇を描く作品が多く、『テレーズ・ディケイルー』は夫を毒殺する妻の物語である。掲出歌はしたがって、テレーズが心に巣くう闇に蝕まれて遂に夫を毒殺するに至ったように、作者が自分の心の中にある水銀のような毒を覗き込んでいるという歌である。水銀の光沢ある銀色と、その向こうに僅かに透ける朱色が歌に色彩を与え、「身のうち」「みづかね」の「み」音の連続がリズムを生みだしている。この歌に見られるキリスト教への傾斜と、自らの内なる闇を凝視する姿勢は、作者の歌の底流をよく表しているのである。

 有沢は第一歌集『致死量の芥子』を刊行後、「さんざん躊躇った末」に「短歌人会」に入会し、『朱を奪ふ』(2007年)はそれ以後の歌をまとめた第二歌集である。岡井隆、小池光黒瀬珂瀾が栞文を寄せている。作者についての情報は乏しいが、断片的記述から、高校の教員(おそらく国語)をしていて、キリスト教徒であり、幼少時に病気から寝たきりの生活を長く送ったことがわかる。歌集題名の「朱を奪ふ」は論語から取ったらしい。「切先の鋭きメスを選ぶ女医われのうちなる朱を奪ふため」という歌があり、病を得て手術で身体の一部を切除する喩として用いられている。

 『朱を奪ふ』にはさまざまな題材を詠んだ歌が収録されているが、中でも人の死に関係する歌が目につく。近代短歌のメインテーマは生老病死であるから、それ自体は異とするに当たらない。特徴的なのは死そのものを詠むのではなく、死と触れたときの心の変色を詠んだものが多いということだ。

 友の死を伝へる電話鳴る前にふと静寂がわれをつつめり

 マンダリン・ホテルから身を投げし時レスリー・チャンの目に入りし夜景

「死にたまふ母」しか思ひ浮かばない電車の旅のながき夕暮れ

「肺癌だ。こんな手紙でごめんね」と事務封筒の宛名のみだれ

 祖母の骨素手でつかみし幼子のゆび薔薇色に火照りて見ゆる

 ランドセルの影倒れたりパリ・コミューンに逝きし少年兵のごとくに

1首目は友人の訃報を伝える電話が主題で、電話が鳴る前にフッと心が冷たくなったという不思議な体験を詠んでいる。2首目は自殺した香港の映画スターの死の場面を想像しているのだが、1首全体が隠れた「のやうな目の前の夜景」にかかる喩となっているのだろう。3首目は母親の病気の折りの歌。4首目は病気を告げる友人からの手紙だが、宛名の乱れは差出人の心の乱れであり、その乱れは受取人にもそのまま伝わっている。5首目は親戚の葬儀の場面。ここでも眼目は少年の指が光っていたという事実ではなく、それを薔薇色の火照りと見た自分の心の翳りであるようだ。銀器は美しく輝くが、その輝きは空気に触れて黒く変色してゆく。人の心も同じで、身近な人の死に出会うことで心の一部が黒ずんで変色する。銀器の曇りは磨けば元の輝きを取り戻すが、心に生まれた変色は消えることがない。有沢は人の死を契機とするこの心の曇りをていねいに掬い上げて歌にしている。そのせいだろうか。上に引用した最後の歌のように、道路でランドセルを背負った子供が転んだだけのことで、パリ・コミューンに死んだ少年兵を思い浮かべるほどなのである。

 この心の変色は、冒頭に述べた自らの内なる闇を凝視する姿勢とも関係していよう。それは「今日の私は神の御心に沿うか」と問う宗教的態度から来るのだろう。作者はこのようにことさらに闇に惹かれているようである。これが「みづかねといふ蝕」である。

 ふたり乗りの絶叫マシーン 落ちてゆく闇の深さを甘受している

 葛きりの店ほのぐらく身のうちに冷たき蜜の闇ながれこむ

 その闇の深さをはかりより深き闇もつひとに惹かるるならひ

1首目は遊園地の絶叫マシーンが表面上は主題であるが、下の句に至ってその表面上の主題は明らかに何かの喩に転じている。余談ながら、このように字義通りの意味がいつの間にか喩へと相転移するところに短歌の言葉の妙味がある。2首目は京都の名店鍵善を詠ったものなのだが、作者が闇という語を扱う手つきは他の歌と変わらない。3首目は場面のはっきりしない歌だが、作者が闇に惹かれていることを明確に語っている。

 集中でも心を打たれるのは病床にある弟を詠った歌である。

 「希死念慮」と診断されしおとうとを見舞へば背後に鍵かかる音

 二輪草毒もて咲くとおとうとの指さす花の白きかそけさ

 真夏日の小樽オルゴール工房に入りて消息消えしおとうと

 「希死念慮」とは自殺願望が懸念されるという意味で、見舞う作者の背後に鍵をかける音が響くところに冷徹な現実がある。3首目はどこかメルヘンのようでほんとうに起きたこととは信じられないが、「寺山修司の嘘を愛す」という趣旨の歌もあるので、詩的虚構かもしれない。その他にも次のようなおもしろい歌がある。

 中井英夫の本ひもとけばこともなく金魚の味に言及したり

 セピア色の画面の中にかつて見し山口二矢の刃の動き

 フラフープの円にみづからとらへられ緊縛されゆく少女のからだ

 私も中井ファンの一人だが、金魚の味の話は知らなかった。山口二矢(おとや)は社会党党首の浅沼稲次郎を1960年に暗殺し、刑務所で自殺した右翼青年。フラフープは1958年に大流行した遊具。どんぴしゃり映画「Always三丁目の夕日」の世界であり、懐かしさを禁じ得ない。その他、印象に残った歌をあげてみよう。

 白金の坂の下なる帽子屋に西日のほかに入るひともなく

 絽の単衣 執念(しゆうね)き蛇の目をしたるひとに会ひたり納涼茶会

 午前五時 天使翔びたつ気配して街の塑像に酸性雨ふる

 そら豆がくつくつ笑ふ鍋の底はじけるまへのざわめきに似て

 胡桃割る音かちりと響くときゆるしの予感家を満たせり

 テニヲハが省略さるる手話の恋きり捨てられしためらひの数

 カルナバル 死者たちはいつ帰るのとささやく声す広場よぎれば

 おそ秋の石畳ゆく影ふたつ薔薇科の罪にとらへられたり

 清正公(せいしやうこう)の夜店にひらく水中花母をしばしば見失ひたり

 以下は蛇足だが、栞文を書く歌人がその歌集を読んで、どんな歌を取り上げるかにはいつも興味を惹かれる。岡井は「ホワイトボードひとつ買ひきてみづからに伝言を書く母の晩秋」をまずあげて、なんでもないようで深みのある現実があると評している。小池は「パンティーストッキングで首をくくりし小説家鈴木いずみの生の加速度」を引いており、いかにも小池の選択と感じさせる。また、集中に「デビルマン群れ飛ぶやうな大茜ひたに地上のわれを囲へり」という歌があり、黒瀬はきっと引用するだろうと思っていたら、予想どおりだった。歌を選ぶというのも立派な批評行為であり、おのずから個性が滲み出る。

 上に引いた有沢の歌では、歌に織り交ぜられた「帽子屋」「天使」「そら豆」「水中花」などの語彙が、字義どおりの意味という現実のくびきを脱して、詩的浮力によってなかば虚の空間に浮遊して、無人称的な虚的意味を帯びる様相を垣間見ることができる。充実した読後感の残る歌集である。