002:2003年5月 第1週 寺山修司
または、地理的想像力と劇場的〈私〉

マッチ擦るつかのまの海に霧ふかし
     身捨つるほどの祖国はありや
           寺山修司『空には本』
 実験劇団「天井桟敷」の主催者として、「アングラ」という言葉がまだ生きていた70年代を駆け抜けた寺山は、1983年に持病のネフローゼから腎不全を発症し、5月4日鬼籍の人となった。享年47歳。今年は没後20周年に当たる。太宰治は桜桃忌、芥川龍之介は河童忌など、文学者ゆかりのアイテムを冠した命日があるが、「私の墓は私のことばであれば十分」と書いた寺山の命日には名前がない。

 詩・小説・演劇・映画と多彩な展開を見せた寺山の文学的出発は、10代に故郷青森で始めた俳句と短歌である。寺山は弘前に生まれ、すぐに青森市に越しているが、津軽地方は今でも文学の盛んな土地柄だ。

 寺山が若い頃短歌を作っていたことなど、私も昔は知らなかった。奇妙な厚底靴をはいて、ときどきTVに登場し、「天井桟敷」を通して前衛的な演劇論を展開する寺山しか知らなかった。寺山の短歌との出会いは、試験監督のときに偶然見つけた、大学の教室の壁に書かれた落書きである。

 青空はわがアルコールあおむけにわが選ぶ日日わが捨てる夢

見たときには誰の短歌か分からなかった。寺山のごく初期の歌だと知ったのは、ずいぶん経ってからのことである。それまでずっと記憶にの底に残っていた。まぶしいほどの青春のひとコマである。「チェホフ祭」50首で寺山を世に送り出した中井英夫が「したたる美酒」と形容した、この甘酸っぱいまでの過度の青春性は、寺山の初期短歌の魅力のひとつであり、多くの人がはまってしまうツボだろう。

 海を知らぬ少女の前に麦藁帽のわれは手をひろげていたり

 知恵のみがもたらせる詩を書きためて暖かきかな林檎の空箱

 森駈けてきてほてりたるわが頬をうずめんとするに紫陽花くらし

 『寺山修司・斎藤慎爾の世界』(柏書房)で、佐佐木幸綱が詳細に分析しているように、寺山の短歌の他にない特徴は、「引用とコラージュ」と「私の虚構化」であった。

 事実、掲載歌の下敷きには、「一本のマッチをすれば湖は霧」(富沢赤黄男)、「めつむれば祖国は蒼き海の上」(同)があったとされる。この作法は歌壇の批判の的となったが、塚本邦雄は「原典を自家薬籠中のものとして自在に操り、藍より出た青より冴冴と生れ変わらせる、この本歌取りの巧妙さ。」と褒め称えた。

 寺山の短歌が青春の愛唱性を失うにつれ、それと反比例するように「私の虚構化」が顕著になる。

 亡き母の真赤な櫛で梳くきやれば山鳩の羽毛抜けやまぬなり

 新しき仏壇買いに行きしまま行方不明のおとうとと鳥

実際には母がまだ生きていても亡き母と歌い、弟がいなくても行方不明になる。寺山の「私」は短歌のなかで演劇化された虚構の私である。寺山の身振りはどこまでも演劇的なのである。ここでハッと気づいて振り返り見直してみると、初期短歌に詠われた鮮やかな青春もまた、寺山の演出であったことが理解される。この演劇性もまた、若者を引きつけてやまない寺山短歌の特徴だといえよう。青春とは、自己と人生の過剰なまでの劇化の時期だからである。

 寺山が精力的に短歌活動をしたのは、「チェホフ祭」でのデビューから10年余りに過ぎない。30歳の声を聞くと同時に、寺山は歌を捨てて二度と帰ることはなかった。寺山もまた「歌の別れ」をした歌人なのである。寺山が歌を捨てたのは、「短歌をこのへんで止めないと、私の問題ばかりにこだわって、歴史感覚の欠如した人間になってしまう」と感じたからであり、短歌はどれほどみじめな自分を詠おうと、結局は「自己肯定」になる文学形式だと断じたからである。

 逆説的なことだが、歌を捨て歌に封印をすることによって、寺山の残した短歌はますます輝きを増すことになった。

 時まさに処女作品に『われに五月を』という題名をつけた寺山が愛した五月である。