031:2003年12月 第4週 水原紫苑
または、カテゴリーを自在に越境する美の探索者

美しき脚折るときに哲学は
   流れいでたり 劫初馬より

          水原紫苑『びあんか』
 私の知り合いで、水原と早稲田大学の仏文科で同級だったという人がいる。その人の話では、当時から水原は独特の雰囲気のある女性で、「あんな風に生まれていたら、ちがう人生を送れただろう」と周囲に思わせる何かを持っていたという。

 水原は高校生の頃から短歌を作っていたらしいが、第一歌集『びあんか』で1990年に現代歌人協会賞を受賞して、はなばなしく歌壇にデピューした。1987年に俵万智の『サラダ記念日』が出版され、口語によるライトヴァースの時代と騒がれた直後だけに、水原の端正な文語短歌は驚きを持って迎えられたという。その作品世界は解説を書いた高野公彦により、「透明伽藍」と形容された。確かにその作品群は透明な輝きを持つと同時に、寺院の伽藍に喩えられるスケールの大きさを感じさせる。水原の短歌の魅力は、端正な古典的語法を駆使することで、伝統的和歌の世界の美意識を踏まえながら、時に強引なまでのイメージの衝突を恐れない大胆な発想にある。

 掲載歌では、馬の脚の骨折と哲学の起源という、本来ならばまったく相いれないものがひとつに歌われている。なぜ馬が脚を折るときに哲学が流れ出るのか、散文的で合理的な説明は難しい。しかし、サラブレッドがその華奢な脚を骨折するという、悲劇的でありながら限りなく美的なイメージと、古代ギリシアにおける哲学の起源という形而上学的問題とがひとつの歌のなかで出会うとき、そこには火花を散らす磁場のような共鳴世界が現出する。こうして何とか説明しようとすることが虚しく思えるほど、そこには美しい世界があると感じてしまうのである。

 炎天に白薔薇(はくそうび)断つのちふかきしづけさありて刃(やいば)傷めり

 殺してもしづかに堪ふる石たちの中へ中へと赤蜻蛉(あきつ) 行け

 われらかつて魚なりし頃かたらひし藻の蔭に似るゆふぐれ来たる

 天球に薔薇座あるべしかがやきにはつかおくれて匂ひはとどく

 白鳥はおのれが白き墓ならむ空ゆく群れに生者死者あり

 水原の師は中部短歌会の春日井建であり、アララギ系統のリアリズム短歌ではなく、実生活とは無関係な美的世界を言葉の力で構築する短歌世界をめざしている。処女歌集『びあんか』に収録された第一首の「炎天に」の薔薇と刀の組み合わせには、春日井の濃厚な影響が感じられる。

 水原の個性としてよく指摘されるのは、人間と動物、生物と無生物、動物と植物といったカテゴリーを自在に飛び越える想像力である。『新星十人・現代短歌ニューウェイブ』(立風書房)に解説を書いた川崎賢子は、「水原紫苑は、ひととモノ、ひととケモノ、自己と他者との差異の消滅する境地を歌う」と評した。例えば、上にあげた第三首の「われらかつて」で詠われている夕暮れの風景は、ヒトの祖先がかつて魚であったカンブリア紀の水中の藻の蔭に喩えられている。また次の歌では、自分がガラスや貝や時計を生むという、まさに種を越えた幻想が詠われている。

 宥されてわれは生みたし 硝子・貝・時計のやうに響きあふ子ら

 岡井隆によればこの歌の眼目は、時計のようにチクタクと鳴り、貝殻のように響きを発するという、物件のおもしろさの方にあるという(『現代百人一首』朝日出版社)。岡井は水原の短歌について、「平成短歌特有の没歴史的な抒情」と、手厳しい批評を下していることも付け加えておこう。確かに岡井のように、かつて人生を賭けた政治活動に基づく歴史意識を作歌の基盤としている歌人から見れば、水原のように自在な幻想を呼び込む短歌世界は、いかにも甘い絵空事に見えるのかも知れない。

 しかし、水原の持ち味である強引なイメージの結びつきは、時には難解という評価を生むことになる。例えば、次の歌は『短歌パラダイス』(岩波新書)の歌会で、「パラシュート」の題詠で出された歌である。

 パラシュートひらきし刹那わが顔のステンドグラス荒天に見ゆ

選評ではこの歌の意味をどう解釈するかで意見が分かれた。問題は「わが顔のステンドグラス荒天に見ゆ」の部分である。パラシュートが開いた瞬間に、「私の顔を象ったステンドグラスが見える」ならば、見ている人は地上にいる。パラシュートをステンドグラスに喩えたと見ることもできる。しかし、見方によっては自分自身がパラシュートで降下しているともとることができる。解釈が分かれて、吉川宏志は「水原の歌の特徴は主体と客体の区別がない点だ」と弁護に回っているが、いかにも苦しい。

 しかし、公平を期するために、水原の短歌は難解なものばかりではなく、次のようなのびやかな歌もあることも付け加えておこう。

 菜の花の黄溢れたりゆふぐれの素焼きの壺に処女のからだに

 坂くだる少女の爪のはらはらと散るくれなゐを聴きつつゆくも

 みづうみ、と呼びかけしなり名をもたぬみづうみわれらを抱かむと来つ

 水原は人前に出るときはいつも着物姿で、梅若流の能に入門し、古典芸能に造詣が深い。年齢を重ねるとともに古典の世界に入って行くのは、馬場あき子の例を引くまでもなく歌人のひとつの王道である。ここから次のような歌が生み出される。

 わらふ狂女わらはぬ狂女うつくしき滝の左右に髪濡るるかも

 白色尉・黒色尉の昼夜より濃き千歳が朝焼けあらむ

 ヴェネツィアングラスを投げし僭主あり梅若大夫いかに応へし

 しかし、これは水原の短歌にさらなる難解さを加えることになっていないだろうか。舞台芸術や古典芸能は、知っている人、見た人でなくてはわからない世界である。短歌のなかに舞台芸術や古典芸能を自在に引用することは、水原の短歌の美の世界を広げることになるかも知れないが、逆に読者を遠ざける結果にもなりかねない。

 本がどうしても見つからないのでうろ覚えの引用だが、かつて赤江瀑が歌舞伎の名優・中村歌右衛門を題材にした短編を書いたとき、中井英夫が巻末の解説で、「美の毒は作者にまっさきに回ったのだろうか」という意味の手厳しい批評を書いていた。作者は美の毒をコントロールしなくてはならないのであり、自分がその毒に溺れてはならないということである。水原の古典芸能への接近がそのような結果にならないことを祈るばかりである。