034:2004年1月 第2週 ダリアの歌

黒きだりあの日光をふくみ咲くなやましさ
         我が憂鬱の烟る六月

                前田夕暮
 短歌を読む楽しみのひとつに、歌に詠み込まれた動物・植物・事物などとの出会いがある。なかでも植物は花の咲く季節が決まっているので、季節感と強く結びついている。古典和歌は花鳥風月の世界であり、ために季節感を大事にしたが、現代短歌は〈個人の内的感情〉を詠むことに軸足を移したため、歌に詠まれた植物は〈季節の記号〉ではなくなり、〈内的感情の記号〉または〈観念の形象化〉へと変質した。

 その日からきみみあたらぬ仏文の 二月の花といえヒヤシンス
                        福島泰樹

 傾きし緋牡丹の花思ひきり崩れはてよといふこころあり
                        齋藤 史

 向日葵は枯れつつ花を捧げおり父の墓標はわれより低し
                        寺山修司

 大学の仏文科に所属する可憐な女子学生は、ぜひともヒヤシンスでなくてはならない。色は白か薄いブルーだろう。ヒヤシンスは作者が女子学生に寄せる淡い思慕の象徴である。齋藤の歌ではより直接に、緋牡丹が作者の激しく渦巻く心情の形象化となっている。花びらが少しずつ散るのではなく、花全体がぽっとり地上に落下する牡丹の性質が鍵である。寺山の歌では、枯れて頭を垂れたヒマワリの花が、父の墓に供えられた供花のようだというのだが、枯れた花と自分の身長より低い墓標に、父親に対する苦い感情が込められている。ここでも他の花ではなく、本来ならば真夏の明るい太陽のもとで咲くヒマワリであるところに、〈内的感情の記号〉としての意味がある。

 植物にも流行り廃りがある。最近めっきり見かけなくなった植物は、ダリア、カンナ、鶏頭だろう。昔は民家の庭や田舎の畑の傍らによく咲いていたものだ。ダリアはメキシコ原産で、18世紀にヨーロッパで園芸用に品種改良された。日本には1842年頃渡来し、当初は天竺牡丹と呼ばれていたという。日本にやって来たのは比較的遅いが、明治40年に大流行したようだ。しかし廃れて顧みられなくなるのも早かったようだ。今どき庭にダリアを植える家は珍しいだろう。

 小池光は『現代歌まくら』(五柳書院)の「ダリア」の項目で、掲載歌の前田の歌と並んで次のふたつを引き、短歌にダリアが詠まれたときには、決まって色は黒であり、どこか禍々しく倦怠感が漂う不吉なイメージだと指摘した。

 夜の机われのにほひを嗅ぐごとく黒きダリアを手にとりてみる
                        若山牧水

 ダリアは黒し笑ひて去りゆける狂人は終にかへり見ずけり
                        斎藤茂吉

 若山の歌にはそれほど不吉なイメージはないが、他の二首には小池の言うとおりマイナスのイメージが濃厚である。この三首はいずれも大正2、3年に作られたものだが、おもしろいことにそれ以後作られた短歌においても、似たイメージが反復されている。

 おもかげに顕(た)ちくる君ら硝煙の中に死にけり夜のダリア黒し
                        宮柊二

 抱えゆく農婦のダリヤ一、二本こぼれ岬に地蔵盆来る
                        馬場あき子

 ダリア畑でダリア焼き来し弟とすれちがうとき火の匂うなり
                        佐藤通雅

 ダアリアの花園をゆくうつしみの人影は黒きころもを着たる
                        小池光 

 首細きダリア窓辺に揺れながら挫折していく君を見ていた
                       錦見映理子

 取り消しの効かないことを笑ひつつダリア植ゑつつ言ふ奴がゐて
                        黒瀬珂瀾

 マーラー忌さすらふ若人手のひらに塊根黒し五月のダリア
                        藤村益弘

 宮の歌に詠われた黒いダリアは死と鎮魂の象徴である。馬場の歌は不吉という訳ではないが、地蔵盆もまた先祖を偲ぶ行事であり遠い死と呼応しあっている。佐藤の歌ではダリアを焼くという行為に、何か激しく凶々しい鬱屈した感情が感じられる。小池の歌では、ダリアではなく登場人物の方が黒い服を着ている。錦見の歌ではダリアはずばり挫折の象徴である。黒瀬の歌でもまたダリアは、取り返しの効かないことを笑いながら告げるという、いささか常軌を逸した精神状態の表象として効果的に働いている。

 ダリアに罪はない。不吉なイメージは、目の前のダリアを見ている〈私〉の心理が外部に投影されたものである。モノの色がモノ自体に備わったものではなく、モノに当たる可視光線が反射して、私たちの網膜に映じたものであるように、ダリアにこめられた〈意味〉は、ダリア自体にあるのではなく、それを見ている私たちの側にある。こうして、ダリアを見ている私たちは、ダリアを通して私たち自身を見ているという屈折した関係が成立する。短歌の根底にはこのような、私とモノをめぐる〈再帰的構造〉が横たわっている。

 最後にもう一首ダリアの歌を挙げてみよう。この歌では珍しく、ダリアに過剰な意味を詠み込まず、モノ自体を即物的に詠おうとしている。クマバチの尻が乳首に、ダリアが乳房に見立てられているのだから、このダリアは黒ではないだろう。ロンドン郊外のキュー植物園での歌である。

 ぷつくりと葉月の黒き乳首見ゆダリアに潜るクマバチの尻
                        本多稜