036:2004年1月 第4週 飲食の歌

 短歌的には「飲食」は「いんしょく」ではなく「おんじき」と読む。『岩波現代短歌辞典』によれば、飲食はプライベートな側面が強いので、古典的和歌の世界ではあまり詠われることがなかったという。そう言えば源氏物語などの古典の世界では、女性が物を食べている姿を人に見られることは恥であったと高校時代に習った。近代短歌になって、歌の世界が花鳥風月から個人の内面へと移行することで、本来プライベートであるべき飲食の場面は、にわかに前面に出ることになった。飲食は個的行為であり、そこに個人の内的生活を投影させるには絶好の素材だからである。

 飲食は本来、生命維持のために不可欠の行為であるが、もちろん生活のささやかな楽しみでもある。だから純粋に飲食の快楽を詠んだ歌も数多い。

 味噌汁尊かりけりうつせみのこの世の限り飲まむとおもへば
                        斎藤茂吉

 寒鮒の肉を乏しみ箸をもて梳きつつ食らふ楽しかりけり  
                        島木赤彦

 また家族で食卓を囲む場合は団欒の象徴であり、恋人同士がふたりでいるときは、親密な関係を記号化することもある。

 「この味がいいね」と君が言ったから七月六日はサラダ記念日
                          俵万智

 サキサキとセロリを噛みいてあどけなき汝(なれ)を愛する理由はいらず
                        佐佐木幸綱

 俵の歌はあまりにも有名な『サラダ記念日』の題名にもなった歌だが、食材がステーキや味噌汁ではなく、サラダという都会的で軽い副食だという点がポイントである。サラダが記号化するのは、深刻にならない軽い恋愛なのだ。俵のライトヴァースの基調をよく表わしている。佐佐木の歌では、「サキサキ」という絶妙の擬音と、セロリというこれまた都会的で女性的な食材が歌を支えている。

 このように複数の人間による飲食は、短歌の描く世界のなかで人と人との関係を浮上させる恰好の装置として用いられるのだが、飲食を詠った現代短歌では、一人が食材と向き合うという構図の方が多い。そのとき食材は個人の内面を投影する対象として前景化され、とりわけ濃密な象徴的意味を付与されることになる。このような構図は、次の歌に典型的に表れていると言えよう。

 悲しみをもちて夕餉に加はれば心孤りに白き独活食む 
                       松田さえ子

 箸先に生きて身をそる白魚をのみこみし夜半ひとりするどし
                       松坂弘

 松田の歌では作者はひとりではなく、家族の夕食の卓についているのだが、心はひとりの孤独を噛みしめている。食べているのは独活(うど)である。独活の白さとサクサクとした触感とその冷たさが、ひとり感じている孤独感と見事に呼応している。これが里芋の煮物とか鮎の塩焼きでは、こうはいかないのである。飲食の歌では何を食材に選ぶかがすべてを決める。松坂の歌では、生きた白魚の踊り食いをしているのだろう。食べたあと夜中にひとりになったときに、踊り食いの残酷さと自分の腹に入った命を噛みしめている。次の歌もおもしろい。

 真昼 紅鮭の一片腹中にしてしばし人を叱りたり
                       高瀬一誌

 昼食に食べた紅鮭が腹に収まっている。そんな自分が人を叱っているという場面を内省的に詠んだものだが、腹の中の紅鮭と人を叱るという偉そうな態度の対比がポイントである。

 人間は雑食性なので、実にさまざまな物を食べるのだが、短歌に詠まれることの多い食材と、そうでないものがある。『岩波現代短歌辞典』は歌語をたくさん収録しているので、こういう時に便利なのだが、野菜でいうとトマト・西瓜・キャベツ・茄子は立項されているのに、キュウリ・白菜はない。確かにキュウリを食べるというのはあまり絵にならないかもしれない。私の読書に偏りがあるのかも知れないが、なかではレバーを詠んだ歌が目につく。

 鵞肝羹(フォワグラ)のかをりの膜にわが舌は盲(し)ひゆめかよふみちさへ絶えぬ
                        塚本邦雄

 無理矢理に肥大させたる肝臓を抗ひがたく生きて味わふ
                        本多稜

 ほろほろと肝臓(レバー)食みつつふと思う扱いにくき人の二、三を
                        村上きわみ

 世界三大珍味のひとつフォワグラは、ガチョウに無理に餌を食べさせて、人工的に作った脂肪肝である。塚本の短歌には食材がよく登場するが、この歌は純粋にフォワグラの旨さを詠んだものだろう。あまりの美味に、ふだんなら働く想像力が封印されて、目の前のフォワグラが世界のすべてになるという歌である。本多の歌は少し屈折していて、無理矢理脂肪肝にさせられたガチョウの哀れさと、生きてそれを味わっている自分とのテーブルでの出会いを詠っている。村上の歌では、レバーの食感と苦みから扱いにくい人を連想するという構図だろう。「ほろほろ」という擬音が効果的だが、「扱いにくい人」との関係性の薄さを物語っている。

 果物もまたよく短歌に詠まれることがあるが、林檎・檸檬と並んで人気は葡萄である。『岩波現代短歌辞典』では大項目として立項しているほどだ。丸い果実が房をなしている形状、緑や紫のつややかな色、古代からワインの原料として地中海で栽培されてきたという歴史性が、葡萄を豊かな意味の器として成立させている。

 童貞のするどき指に房もげば葡萄のみどりしたたるばかり
                         春日井建

死者一切近づくなかれ哄笑しわれらかがやく葡萄呑みたり
                         小池光

口中に一粒の葡萄を潰したりすなはちわが目ふと暗きかも
                         葛原妙子

春日井と小池はいずれも葡萄を緑に輝くものとして描いていて、青春性の象徴的記号となっている。輝く葡萄を飲み込む人は不死となるかのごとくである。葛原はもう少し屈折していて、口に葡萄を潰すことから、心中の暗い思いが誘発されている。「球体の幻視者」葛原にとって、葡萄は自らの幻視を誘う対象である。

 私たちは四方を海に囲まれた島国に暮らしているので、魚もまた親しい食材である。魚が歌に詠まれるときにもまた、共通してある傾向が感じられることがある。

 夏至の日の夕餉をはりぬ魚の血にほのかに汚るる皿をのこして
                         小池光

 しかれども飲食清(すが)し魚汁は頭蓋、目の玉、腸(わた)もろともに
                         村上きわみ

 交(あざ)わらず愛遂ぐるてふいろくずの累卵のせて今朝の白米(しらいひ)
                         高橋睦郎

 小池の歌では、夏至という明るさの極まる日と、血に汚れた皿との対比が、私たちの生の有り様を浮き彫りにしている。「ほのかに」という語が、ひょっとしたら血の汚れには気づかずに日常を過ごすかも知れないことを暗示して特に効果的である。村上の歌では、「飲食清し」と宣言しているわりには、魚汁のなかには魚の頭も目玉も腸もいっしょくたに入っていて凄惨である。また高橋の歌では、交接することなく子孫を残す魚の卵を食べている今朝の食卓に、いやおうなく自分の不毛性を認識している。

 このように魚には高度の象徴性が込められている。魚は水の中では生きて、水から出ると死ぬという鮮やかな生死の対比があり、また調理するときに一匹を包丁でさばくことから、人間が生きていくために他の生命を奪うことをことさらに意識する食材だということが関係しているのかも知れない。