黒瀬珂瀾歌集『黒燿宮』書評:〈絶対的不可能〉を希求する悲劇性

 まず表紙のデザインが目を引く。黒一色で、蔓植物に首を絡まれた長髪の美青年の絵がある。蔓植物は青年の首を絞めようとしているのだが、青年は抗うどころか恍惚として迫り来る死を受け入れている。この表紙絵の青年は、黒い服、とりわけJ.P. ゴルティエを好んで着るという黒瀬本人だろう。いや、このように言うことは著者が周到に張り巡らした陥穽に陥っていることになる。表紙絵の青年は、著者が「他者からこのように見られたい」と望む自己像であり、黒瀬が入念に作り上げた「歌人黒瀬珂瀾」という〈虚構の私〉に他ならない。歌会に化粧をして現われ、NHKの番組にスカートをはいて登場したという黒瀬は、髪型や服装もまた歌人の構成要素であると考える演劇的歌人であり、黒瀬の作り上げた短歌宇宙はひとつの劇場なのだ。表紙の絵はそのことを教えてくれる。

 表紙絵には作品世界のテーマの主音も現われている。青年特有のナルシシズムと死への誘惑と官能である。

 The world is mine とひくく呟けばはるけき空は迫りぬ吾に

 わがために塔を、天を突く塔を、白き光の降る廃園を

 からみあふぼくらを常に抱く死とは絶巓にして意外と近し

 「巴里は燃えてゐるか」と聞けば「激しく」と答へる君の緋き心音

 復活の前に死がある昼下がり王は世界をご所望である

 「世界は我が物」と呟くのは青年の倨傲である。これを声高に叫んだらヒトラーになってしまう。しかし青年は低く呟く。世界が我が物であるのは、自らの主観の中でしかないことを知っているからである。青年は「わがために塔を」と叫ぶ。塔は世界を統べる権力の象徴である。しかし、その塔が建つのは打ち捨てられた廃園の中なのである。これらの歌は、黒瀬の作品世界を貫くひとつのベクトルを示している。それは「あらかじめ失われた愛」であり、「瓦解するべく建てられた塔」である。これは〈絶対的不可能の希求〉と言えよう。絡み合う二人が死を間近に感じるのは、快楽の頂点が死と触れ合うように、プラスの頂点がいきなりマイナスに転じるという逆説的構造がそこにあるからである。世界を支配する権力への渇望が、全世界を焼き払う破壊衝動に転じるのもまた、同じ理屈による。同性愛のモチーフが頻出するのも、それが結婚というゴールのない〈不可能な愛〉だからに他ならない。黒瀬が縦横に引用する三島由紀夫、ジル・ド・レ、サド、バタイユらの文学もまた、〈絶対的不可能の希求〉を重要な縦糸としたことを想起すればよい。

 黒瀬の描く短歌世界には、パゾリーニやヴィスコンティの映画、マーラーの音楽、バルテュスの絵画と並んで、若者のサブカルチャーがよく登場することも特筆に値する。

 エドガーとアランのごとき駆け落ちのまねごとに我が八月終る

 June よ June、君が日本に一文化なる世を生きてわが声かすむ

 darker than darkness だと僕の目を評して君は髪を切りにゆく

 エドガーとアランは、萩尾望都の少女マンガ『ポーの一族』に登場する不死を運命づけられた吸血鬼の少年。Juneは1978年創刊の雑誌で、美少年同性愛もの(いわゆる「やおい」)の舞台となった。darker than darknessはヴィジュアル系バンド BUCK-TICHが1993年にリリースしたアルバムのタイトルである。このようにハイカルチャーとサブカルチャーが同じ地平で扱われていることに、世界で最も大衆化された消費社会である現代日本の典型的な光景を見る思いがする。

 ではこのような世界に住む歌人にとって抒情とは何か。ここにもアンビバレントが顔をのぞかせる。絶対的不可能を希求する矜持と、自らの営為の不毛性の自覚が背中合せに同居することになるからである。ここに歌集の主調低音である悲劇のトーンが生まれる。

 穢れ、時にきらびやかなり。汝は傷を受け燔祭におもむきたまふ

 血の循る昼、男らの建つるもの勃つるものみな権力となれ

 ふと気付く受胎告知日 受胎せぬ精をおまへに放ちし後に

 砂漠なる雨のごとしも指の間ゆ自涜の果ては落ちて冷めゆく

 『黒燿宮』の代表歌として「地下街を廃神殿と思ふまでにアポロの髪をけぶらせて来ぬ」を挙げた菱川善夫に、硬派の批評家である山田富士郎は激しく反発した(季刊『現代短歌雁』五六号)。いかにも黒瀬が意図した劇場的で耽美的意匠を施したこのような歌ではなく、山田は歌集後半に多い「少女らは光の粒をふりまきぬクラミジアなど話題にしつつ」のようなおとなしい歌を代表歌としている。では黒瀬本人はどうかといえば、同じ号の特集「わたしの代表歌」では意外なことに、「明け方に翡翠のごと口づけをくるるこの子もしづかにほろぶ」を挙げている。華麗な耽美的意匠の少ない静かな歌である。黒瀬の短歌に溢れる演技性と耽美的装飾は、おそらくは計画的にデザインされた意匠なのであり、その背後には等身大の二十代の青年の清新な抒情が隠されているのではないだろうか。私が集中で最も心に沁みると感じるのもまた、このような歌なのである。

 ピアノひとつ海に沈むる映画見し夜明けのわれの棺を思ふ

 線路にも終わりがあると知りしより少年の日は漕ぎいだしたり

 父一人にて死なせたる晩夏ゆゑ青年眠る破船のごとく

 女学生 卵を抱けりその殻のうすくれなゐの悲劇を忘れ

 

『短歌』(中部短歌会) 2004年2月号掲載