046:2004年4月 第1週 『西美をうたう – 短歌が美術と出会うとき』

 私はたまに東京に行くと、暇を見つけてはすることがいくつかある。明治・大正・昭和初期の擬西洋建築を中心とした建築探偵、東京の下町を歩き回る坂巡り、もうひとつは美術館巡りである。建築探偵と坂巡りは、私のホームページに一部を公開しているので、見ていただきたい。何と言っても東京にはたくさん美術館があるので、見て回る展覧会には事欠かない。展覧会だけでなく、美術館本体も見る価値がある。旧朝香宮邸の東京都庭園美術館は、アール・デコの内装が素晴らしい。砧公園にある世田谷美術館は、京都駅ホームで急死した内井昭蔵の建築と、素朴派のコレクションがよい。松濤美術館は孤高の建築家・白井晟一の思索的名建築として名高い。松濤公園の近くにあるTom美術館は、村山知義の娘さんがやっていて、「僕たちにもロダンを見る権利がある」と高らかに宣言している。「僕たち」とは目に障害を持つ子供たちである。

 上野公園にある西洋美術館にもときどき行く。日本唯一のル・コルビュジエの設計になる建築である。ある日、ミュージアムショップで『西美をうたう 短歌が美術と出会うとき』という本を見つけ、すぐに買った。「西美」は西洋美術館の愛称である。西洋美術館所蔵の絵画や彫刻を素材として短歌を詠むという趣向でまとめられた本なのだ。前書きには、現代歌人協会の協力により短歌を集めたとあり、第一線で活躍する歌人92名の短歌が収録されている。そうそうたる顔ぶれである。ただし、この本の成立経緯について詳しい説明がないので、個々の歌人がどのようにして絵画や彫刻と出会って歌を作ったのかは不明である。歌人がひとりひとり収蔵作品のなかから自分が好きなものを選んで歌にしたのか、それとも「この作品を題材にして歌を作ってください」と依頼されたのか、そのあたりがわからないのが残念だ。

 この本の成立経緯についてこだわるのは、俵万智が『短歌をよむ』(岩波新書)のなかで、「短歌とは日常のなかで心がフッと動いたときに、それを歌にするものだ」という趣旨のことを書いていて、「自分はわざわざ何かを見て短歌を作るのが苦手だ」と述べているからである。『サラダ記念日』の爆発的ヒットのあとで、「どこそこへ行って風景を詠む歌を作ってください」とか、「これこれの商品に合う歌をお願いします」という依頼が舞い込んだが、すべて断ったという。俵の言い分によれば、どこそこへ行って風景を見ても、心が動くとは限らない。心が動かなくては短歌は作れないということのようだ。〈内発的動機による作歌〉というプロセスを重視する俵の立場は、文芸を〈個人の内面の投射〉と見る近代的芸術観に基づいている。一方、古典的和歌の世界では、歌とはすべて機会詠・題詠であり、求められたあらゆる機会に歌が作れないようでは、練達の(プロの)歌人とは言えないとも考えられるのである。古典的和歌の世界を引きずったまま、近代的芸術観の洗礼を受けた近・現代短歌は、このふたつの要請のあいだで引き裂かれているとも言えよう。この点で西美の企画に歌人たちがどのように答えたのか、興味を引かれるのである。

 西美の試みがおもしろいと思えるもうひとつの点は、美術と詩歌の関係である。昔は、屏風絵や扇面に歌が書かれることがよくあり、南画などでも絵に賛が添えられていることが多かった。ある意味で絵画と詩歌は一体であり、全体としてひとつの美的世界を構成していた。例えば尾形光琳の築いた美の世界を見てみると、このことがよくわかる。しかし、近代的芸術観は、このようなジャンルの混淆を嫌い、絵は絵としての独立性を、詩歌は詩歌としての自立性を強く主張するようになった。絵と詩歌は以来、生き別れの状態にあり、それにより失ったものも多いはずである。西美の呼びかけに応じて歌を作った歌人たちも、このような絵画と詩歌の関係を意識しなかったはずはない。この関係は具体的には、見る主体である歌人が、見られる対象としての絵に対して、どのような距離感覚で接するかという問題として浮上することになる。

 例えば、西洋美術において風景画を確立したことで知られるクロード・ロランの『踊るサテュロスとニンフのいる風景』に藤岡武雄がつけた歌を見てみよう。

 喜びは森にあふれてニンフらの踊りに山羊まで踊り出したり

 この歌はロランの絵の忠実な描写なのだが、それだけに終ってしまっている。関西弁ではこんな時には「マンマやんけ」と言う。与えられた絵画を題材にということを意識する余り、対象に即して歌い過ぎたという例である。短歌が絵画の世界に吸収合併されてしまっている。「対象につきすぎた」例である。

 かと思えば、次の歌はこれとはまったく逆の方向性を持つ例といえるだろう。

 夕闇に溶けゆくネーブル・オレンジと蠅をみていたあのまなざしは  穂村弘

 いい歌だと思うのだが、さてこの歌を見て、どんな美術作品を題材として作られたか想像できるだろうか。マイヨールの『イル・ド・フランス』と題されたブロンズの裸婦像なのである。裸婦像にはオレンジも蠅も登場していない。像と穂村の歌のあいだに一対一の対応関係はなく、そもそもいかなる関係も認めることができない。穂村は像を見てある印象を内的に形成し、その印象を今度は穂村自身の言葉に変換して表現してみるとこのようになったとしか言いようがない。歌は見る対象から離陸し、それを見ている穂村の心内印象に重点が移っている。穂村にとって短歌とは、このような〈変換装置〉として機能しているのだ。かつてサルトルは文学批評で tourniquet というフランス語の言葉を使った。「転車台」という意味で、操車場で機関車の向きを変えるために使われる放射状の回転する車台のことである。穂村は「短歌を転車台として世界をねじる」という方法論を得意としているが、上にあげた歌においてもその技法が活かされている。「対象につかない」という例である。

 対象につかない点では人後に落ちないのが水原である。

 こころなき泉の精となり果ててきよきをのこも影とのみ見む  水原紫苑

 ジャン=マルク・ナティエというあまり知られていない18世紀の画家の描いた貴族の婦人像につけた歌である。婦人は緑のドレスを着てソファーに座っているので、泉もをのこも描かれてはいない。ここにもまた、絵画と短歌のあいだに要素間の単純な転写関係はないのである。

 三枝昴之『現代短歌の修辞学』(ながらみ書房)のなかで、水原自身がかなり率直にみずからの作歌技法について語っている。歌われた対象がある転換を得ることによって別次元にとべることが自分の喜びであると水原は述べている。水原の「別次元にとばす」という技法は、穂村の「短歌を転車台として世界をねじる」という方法論とは方向性が少し異なるのだが、見たものを見たまま詠わず(反リアリズム)、それを何らかの回路に流すことで次元の異なるものへと変換するという点では共通するところがある。

 次の歌も対象に即してはいないのだが、またちょっと対象との関係がちがう。

 肉体の思想激しく叫ばんに十九世紀夢の波濤よ  福島泰樹

 この歌の題材は写実主義を確立したクールベの『罠にかかった狐』という、雪の野原で前足を虎ばさみに挟まれて苦しげにもがく狐を描いた絵である。福島はこれを自らの浪漫主義のなかに取り込み、魂の叫びとしての絶叫短歌に仕立てあげている。完全に福島が主で、絵の方が従の関係である。福島がドン・キホーテで絵がサンチョ・パンザなのだ。この境地に到達すると、何を詠ってもそれは福島の魂の叫びになってしまう。

 水の上にかがやくをとめ。水底にともなふ翳をしらず漂ふ  岡野弘彦

 睡蓮は水の恋人、くれなゐのまぶた明るく閉ぢてひらきて  岡井 隆

 上の2首は題材との関連が明らかで、なおかつ歌としての自立性を失っていない例といえるだろう。ともに印象派の巨匠クロード・モネを歌ったものである。印象派の画家には日本趣味があり、おまけに水の風景は日本人にとって親しみのある風景である。短歌の世界にもともと親和性のある絵と言えるかも知れない。

キース・ヴァン・ドンゲン『カジノのホール』
  羅(うすもの)の女ささめくカジノの夜 “oui, oui,, “mais, non”,, 恋も賭けるの  松平盟子

マックス・クリンガー『手袋』
 人恋ふる夜明けの部屋にみづみづと春の花木となりし手袋  秋山佐和子

 おしゃれな短歌と言えば松平盟子、さんざめく社交場の雰囲気をよく映し出している。秋山の歌はクリンガーの絵のなかの要素とほとんど一対一の対応関係があるのだが、絵を離れても幻想的な一首として読むことができる名作である。

 こうしていると、展覧会の会場で絵を見て回っているように短歌を見て回るという楽しい感覚を覚え、西美の企画はなかなかの成功だと言えるかもしれない。

 最後に次の歌を見てみよう。この2首は他の作家の歌とは画然と区別される特性を有しているという点で、注目に値する。作者の名前を見れば、ひと筋縄ではいかないことがわかるだろう。

クールベ『もの思うジプシー女』
 百年の受容ののちの夕微光ここ出でて春の橋わたるべし  谷岡亜紀

デューラー『メランコリア』
 西洋細密画よりまなこを転じみるものは境もあらぬ大和の桜  小池 光

 谷岡の歌は抽象的でわかりにくいが、「百年の受容」を「上野の芸大が象徴している日本の西洋美術受容の百年の歴史」と読めば、この歌は輸入文化であった西洋美術そのものへの、過去の歴史を踏まえた呼びかけと取ることができる。それが「夕微光」なのだから、谷岡の目には衰弱したものと映ったということだろう。むずかしいのは下句の読みである。「ここ出でて春の橋わたる」の主語は何だろうか。直前の「夕微光」は主語として読むことはむずかしい。隠されている主語は「私」とも「展示されている絵」とも「西洋美術」とも取れる。「西洋美術」と取れば、薄暗い美術館を飛び出して、春爛漫の世界に出てゆけ、という擬人化された美術への呼びかけとなり、これはなかなか面白い読みだと思う。もちろん他の読みも可能かとは思うが。

 小池の歌に移ろう。デューラーの細密銅版画から視線を外して、美術館の窓の外を見れば、そこには日本の国花である桜が咲き拡がっている。美術館の内と外の対比が、西洋絵画と日本の桜すなわち〈洋と和〉の対比に重なり、絵から桜へと視線を移動させる観察主体がここにはある。絵に即するのではなく、絵から離れるのでもなく、絵を見ている〈私〉を介在させることで、対象を相対化すると同時に、〈見る〉という制度化された鑑賞行為そのものが意識される構造になっている。この企画に参加した92名の歌人のなかで、美術館の外まで視線を拡げて歌に詠んだ歌人が小池ただ一人であることは、注目されてよい。他の歌人たちはおそらく、課題の美術作品をいかに詠むかに腐心するあまり、目の前の美術作品だけを凝視し続けたのだろう。目の前の作品は建物のなかに展示されているが、建物の外には広い世界があり、また作品はソフト面・ハード面での美術館という〈制度〉の枠内に置かれているという点にまで、視線が拡がることはなかったのである。ことほど左様に、人は目の前のモノを見ているつもりでも、実は見えていない。谷岡の歌には抽象的ながら、美術館の外に拡がる世界へと志向する視点が組み込まれている。小池の歌ではさらに一歩進んで、歴史的・地域的発明品である美術館という〈制度〉を前景化している。これは「作歌の技術」の問題ではない。「何が見えているか」という問題である。小池の目には、他の歌人たちよりも多くのものが見えていたということだろう。