077:2004年11月 第2週 菊池 裕
または、都市的現実から分泌されるしかない〈私〉

睾丸に似たる蘭の実脆ければ
    スプーンで神を掬い難きか

     菊池裕『アンダーグラウンド』(ながらみ書房)
 菊池は1960年(昭和35年)生まれ。中部短歌会に所属し、『アンダーグラウンド』は2004年8月に刊行された第一歌集である。惜しまれて逝去した春日井建が跋文を寄せている。歌集に付き物の栞もなく、私は菊池個人についていかなる情報も持ち合わせていないので、こういう場合には歌集で展開された菊池の短歌世界にのみ焦点を当てて語るべきかと思う。

 「都市譚」「禁忌譚」「冥界譚」の三部構成から成る歌集のなかで中心を占めるのは、高層ビルの林立する現代の都市詠である。

 摩天楼内で整体師の指(おゆび)わたしの骨を鳴らし終えたり

 防犯用監視カメラの結露にもあなたが映り滴り落ちぬ

 チアノーゼ色の空から降ってくる着信音にとよむ地下街

 子をなさぬつがいの棲まう新築のマンション林立する中空に

 朝なさなエントランスに佇つ妻よ霊安室のようにひんやり

 現代の都市詠というと、すぐに藤原龍一郎が頭に浮かぶが、菊池の歌は確かに藤原の歌と近縁種と見えるかもしれない。藤原はラジオ局ディレクターだが、菊池はTV番組制作にかかわっているらしいという職業の類似もこの連想を強める。

 湾岸のビルにはかなき霊棲みて屋上途上地上は冷雨  
                  藤原龍一郎『花束で殴る』

 二十四階よりくだる階段に夕潮騒と呼ぶべきかすか

 シルバーのケータイが夜の雨に濡れ拾得物ともならず壊れて

 しかし、菊池の歌と藤原の歌とは決定的に違っていることに注意すべきである。それは藤原の歌に頻出する固有名詞が菊池の歌にはほとんど見られないというような、表層的な差異ではもちろんない。作歌という行為を通じて実現される〈私〉の立ち上げ方がちがうのである。大きな枠組みで語れば、短歌が「私性の文学」であり、短歌においては何を語ろうとも歌の背後に隠然と存在する一人称的私に送り返されるということは確かに事実ではあるけれども、歌から〈私〉への回路は一様ではなく、また〈私〉の浮上の仕方もさまざまである。

 乱暴を承知で大雑把な言い方をすれば、藤原の都市詠は、鎮め難い情念を抱いて都市を彷徨う〈私〉の軋轢の叫びであり、浮遊する現代都市のなかで〈私〉の抱え込んだ情念の軋みが抒情の核である。

 「我、永久に渇きていたり」― 降りしきる強酸性の雨こそ慈悲ぞ
                  藤原龍一郎『花束で殴る』

 望郷の郷あらざれどわが詩歌の古典となせる『水の覇権』を

 いささかカッコ良すぎるが、藤原の短歌にはハードボイルド小説の定義である「現代の卑しい都市を行く騎士」という言葉を思わせるところがある。事実、藤原は次のような歌も作っているのであり、少なくとも主観的にはマーロウを希求しているのだ。

 ハードボイルド風日常を希求してついには慈悲に包まれた死を

 湾岸の駅に降り立ちマーロウのフィリップ・マーロウのような翳りを

 だから藤原の作品に現われる〈私〉は、無定形の現代都市に囲繞され、脳の快楽に至るまで都市の発する電波に浸食されながらも、抱え込んだ情念を抒情の核として都市と対峙する〈私〉である。

 ところが菊池の短歌から立ち上がる〈私〉は、これとはずいぶんちがった様相を呈している。菊池においては、〈私〉は都市のコンクリートから浸み出す何ものかとして、ガラスウォールの反射に一瞬煌めく何ものかとしてしか定義できない、不確かな存在なのだ。歌集表紙のデザインのちがいを、この〈私〉の位相の差の象徴と捉えることは、あながち牽強付会ではあるまい。藤原の『花束で殴る』の表紙写真は、夜の都会を川のように流れる車を写したもので、露光時間を長くしているため、車の照明は光の帯のように伸びているが、被写体を切り取る視点は固定していて揺るぎがない。都市は流れて行くが、私はひとつの地点に佇んでいるのである。一方、菊池の『アンダーグラウンド』の表紙も同じように夜の都会の写真である。人気のあまりない街角を撮影したもので、中央に女性が一人写っているが、輪郭が二重になってぼやけている。これは明らかに撮影した視点そのものが浮遊しているのである。このため同じ夜の都会の写真でありながら、菊池の表紙のほうがずっと不安定で浮遊感が強い。

 むらぎもの空白だけが液晶の画面に写り削除するべく

 嘘っぽくなった私を検索す〈ブロードバンド・カフェ〉にこもりて

 私を模写する私みていしがついに描けぬ背景のわれ

 向こうからやってくるのは私の知らない私の潦(にわたずみ)

 「むらぎも」は内臓であると同時に「心」を導く枕詞であるから、一首目の〈私〉は内部性を喪失しているのである。二首目の〈私〉は内在的に感得されるべき存在実感が希薄化し、ためにインターネットの大海で自分を検索する。三首目ではモデルの〈私〉と描く〈私〉と背景の〈私〉というように、合わせ鏡に映ったように無限に増殖してゆく〈私〉が描かれている。四首目はもっと直接的であり、確固たる一人称として内部性を持つ〈私〉の不在そのものが主題である。

 山下雅人の『世紀末短歌読本』(邑書林)は、現代短歌を都市論の視点から読み解く試みで、短歌と都市の出会いが歴史的にも跡付けられている点が興味深い。山下によれば、戦後派歌人によって初めて都市が風景としてでなく、表現者の必然を担うものとして描かれたという。戦前の歌人にも都市を詠った例は確かにある。

 いそいそと広告灯も廻るなり春のみやこのあひびきの時  北原白秋

 しかしこれは都会を風物詩として短歌に取り込んだものであり、都会の風物は主観的な気分を表わすものとして描かれているという意味で、「述語的風景」だと山下は言う。これに対して戦後派歌人においては、都市空間そのものが詠うモチーフとして扱われており、そこで初めて都市は主体的に語られる「主語的風景」たりえたと山下は続けている。

 水銀の如き光に海見えてレインコートを着る部屋の中  近藤芳美

 飾窓(ウインド)の紅き花らは気(いき)ごもり夜の歩道のゆきずりに見ゆ  佐藤佐太郎

 山下の言わんとするところはわかるが、戦後派歌人のこれらの歌においても、都市の風物は主観の投影であるという事情には、さほど変わりがないように感じられる。もちろん都市風景がより内面化され、単なる景色ではなく心象に転位しているというちがいは確かにある。都市を描くにあたって、戦前を第一世代、戦後派歌人を第二世代と仮に呼ぶならば、菊池などは途中をすっ飛ばして第五世代と呼んでもかまわないほど、都市と〈私〉の関係は変質している。「〈東京は人を殺す〉かあはあはと生きて寄りゆく春の欄干」と詠んだ川野里子などは、さしずめその中間の第三ないし第四世代だろう。1959年生まれの川野と1960年生まれの菊池とはほぼ同世代だが、都市体験の濃淡がこのような差を生むのだろう。

 山下はこの変質を次のように分析している。近代短歌においては生活実感が短歌表現の基盤であり、主体信仰がリアリズムを下支えしていた。しかし近代から戦後への変化の過程で、素朴な主体信仰は崩壊し、都市空間の方から〈私〉が分泌されてくるという逆説が生じた。この結果、現代においては生活実感は詠いにくいが、都市空間と自分の関わりを描くと、比較的リアルな感覚がつかめるというのである。これは聞く人によっては耳の痛い批評だろう。

 リアリズムを支えていた素朴な主体はおろか、戦後世代のもっと不安定な主体すらも、菊池の短歌には感じられない。山下が言うように、〈私〉は都市空間から滴る水のように分泌される何物かとして立ち現れて来る。だから菊池の短歌には、藤原の歌のような命令形がない。命令するべき主体が屹立せず、〈私〉は都市から分泌されるものとして受動的に把握されているからである。

 この変容の意味するところは小さくはない。例えばイスラム圏のように一神教が支配する地域では、日本人が自分は無宗教だと話すと驚かれると言う。神を信じることなくどうして〈私〉の統一性を維持することができるのか、一神教を信奉する人たちにはわからないのだ。〈私〉の統一性は人格神と対峙することによって、その存在を保証されるからである。日本においてこの神の役割を果たしてきたのは、多くの人の指摘するように自然と「世間」であろう。神道におけるご神体は、山や岩や滝などの自然物であることが多い。しかも、日本人は一神教において〈私〉が神と対峙するように、自然と対峙してきたわけではない。むしろ〈私〉を自然の一部と感じ、自己を自然に溶け込ませることによって〈私〉のありかを感じてきた。

 これは何を意味するかというと、〈私〉とは決してそれ自体として単独で定義されるような絶対概念ではなく、何かとの関係において定義される関係概念だということである。〈私〉は何物かとの関係を通してのみ〈私〉と呼べる。しかるに現代の私たちは都市的現実に囲繞されており、今まで〈私〉を成立させてきたもう一方の項である自然ははるか彼方に後退している。〈私〉がそれとの関係において定義される対立項を失った以上、〈私〉が希薄化し浮遊するのは無理からぬことである。菊池の短歌において〈私〉が都市空間から分泌される受動的な存在として描かれ、時には消失するように見えるのはそのためである。そしてまた菊池の歌にときどき神が登場するのも、同じ理由によると思えるのである。

 聖なればこそFUCKする人類に悲しみありしや否や神にも

 まったけく無風であれば風鈴は神の不在を鳴らしめ給え