078:2004年11月 第3週 冷蔵庫の歌

冷蔵庫内に霜ふり錐形の
     死の眠りもて熟るる苔桃

               塚本邦雄
 広く普及している家庭用電化製品のなかで家事に関係するものといえば、冷蔵庫・洗濯機・掃除機が代表的だろう。このうち短歌の題詠で登場することの多いのは冷蔵庫である。『岩波現代短歌辞典』も冷蔵庫のみを見出し語として立項している。洗濯機にも次のような秀歌はあるが、歌に詠まれることはずっと少ない。掃除機もたぶんあるのだろうが思いつかない。

 昏れどきの人らかへりみぬ店先に洗濯機はゆたかなる水を揉む 田谷鋭

 冷蔵庫も洗濯機も韻律的には5音なので、歌への収まりのよさという点でちがいはないのだから、この頻度の差は両者の喚起するイメージの差に起因すると考えてよい。また家事に関係する電化製品のなかで、冷蔵庫はいちばん男性に身近だということも理由のひとつだろう。掃除機など触ったことのない男でも、冷えたビールを取り出すために冷蔵庫は開けるのだ。

 昔の冷蔵庫は木製で内側に亜鉛板が張られており、いちばん上に氷を入れて冷やしていた。氷屋が玄関先を通りかかるのを呼び止めて氷を買う。氷屋は炎天下大きな鋸で氷を適当な大きさに切って売ってくれる。台所の木製の冷蔵庫は開けると独特の匂いがした。母が和服を着て割烹着姿だった時代の話である。

 イメージの豊かさと象徴性において、確かに冷蔵庫は電化製品のなかでは群を抜いている。言うまでもなく内部を低温に保ち食品を長期貯蔵するというのが冷蔵庫の目的なのだが、この目的のための形状と機能とが期せずして豊富なイメージの源泉となった。四角い形状と低温という環境は、棺桶との連想から死のイメージと結びつく。また低温貯蔵は動物の冬眠を思わせるところから、眠りや昏睡のイメージとも結合する。塚本邦雄の掲出歌はこのイメージを利用したものであり、「死の眠り」は死んだような深い眠りとも、深い眠りのような死とも解釈できるだろう。

 このように豊富なイメージを生み出す理由は、冷蔵庫に「内部性」があるという特徴に求めることができる。冷蔵庫にはドアがあり、ドアを閉めると「内部」は「外部」から遮断される。こうして形成された秘密の「内部性」は、中に何かが「隠されている」という対象把握を促しやすい。洗濯機や掃除機に欠けているのは、この「内部性」だと言ってよいだろう。

 さて冷蔵庫の内側には、冷凍庫・肉魚ケース・野菜ケース・ドア裏の瓶立てなど、使用目的に応じたさまざまな部分があるが、なぜか歌人たちはドア裏の卵ケースに注目することが多いようだ。

 冷蔵庫にほのかに明かき鶏卵の、だまされて来し一生(ひとよ)のごとし 岡井隆

 冷蔵庫ひらきてみれば鶏卵は墓のしずけさもちて並べり  大滝和子

 はじめから孵らぬ卵の数もちて埋めむ冷蔵庫の扉のくぼみ  林和清

 架空家族の氷庫につねにうつろなる卵置場の十二個の穴  古谷智子

 ほんとうにおれのもんかよ冷蔵庫の卵置き場に落ちる涙は 穂村弘

 穂村の歌を除きこれらの歌は共通して、本来は命を育むはずの卵が無精卵として冷蔵庫に収まっているという事実に着目している。工場のような鶏舎で生産され運ばれて来る無精卵は、現代における生の無効化や虚しさの象徴である。なかで大滝の歌は、白い卵の整列を墓地に林立する墓碑に見立てている点に、類歌と少し異なる視点が感じられる。また古谷の歌は、卵置場にあるはずの卵がなく、空虚なくぼみだけが並んでいるという場面を捉えることで、見せかけだけの崩壊家族の家族的内実の不在を暗示している点がおもしろい。

 次にあげる歌は、冷蔵庫が何かを貯蔵する場所だという点に焦点を当てたものである。WWWとある歌は、『短歌、WWWを走る』(邑書林)の題詠「冷蔵庫」から引用した。

 たましいを預けるように梨を置く冷蔵庫あさく闇をふふみて  島田幸典

 切り分けたプリンスメロンの半分を冷蔵庫上段のひかりへ  佐藤りえ

 冷蔵庫の薄暗がりに初恋のひとりをしまふ、食器らとともに  大辻隆弘 (WWW)

 アクリルの箱にきっちり詰め込まれ憎悪はそっと冷蔵庫の奥  五十嵐仁美 (WWW)

 腐らないように低温貯蔵するのが冷蔵庫の役割なのだが、歌人たちはそんな本来の目的とは関係なく、ずいぶんいろいろな物をしまうものだと感心する。冷蔵庫に物をしまうとき、私たちは扉を開けた冷蔵庫の前に跪くことがある。この姿勢で物をしまうと、まるで祭壇に捧げ物をしているようになる。島田の歌ではしまうのは梨であり、それ自体は日常ありふれたことだが、それを「たましいを預けるように」と表現したところに日常を超えた宗教的希求のようなものを感じさせる。こう表現されたとたん、冷蔵庫はあたかも霊安室のような相貌を呈するのである。佐藤の歌ではプリンスメロンだが、「冷蔵庫上段のひかりへ」という下句の表現に、光とキラキラ感にこだわる佐藤の面目が現われている。ふつうならば「光る冷蔵庫の上段へ」しまうのだが、それが「冷蔵庫上段のひかりへ」と表現されると、一句の意味の焦点は光そのものに移行する。意味の焦点のこのような微細なずれを断機として、日常のコトバは詩のコトバへと浮上する。こうして佐藤の歌にもまた、日常を超えたせつない希求が感じられることになる。大辻の歌の「初恋のひとり」を文字どおり人間だと解釈すると、かなりホラーになってしまう。確かにアメリカのジェネラル・エレクトリック社製の大型冷蔵庫ならば、人間ひとりを収納することもできるが、大辻の「初恋のひとり」は比喩と解釈すべきだろう。ただし、「食器らとともに」というのがひっかかる。食器をしまうのは食器棚であり、冷蔵庫に食器だけをしまうことはない。もちろん残り物の入った食器ごと冷蔵庫にしまうことはあるが、それだと初恋のひとり〔の記憶〕が残り物の入った食器と並ぶことになり、どうもまずい気がする。最後の五十嵐の歌では冷蔵庫を憎悪の隠し場所にしているようだが、歌のなかで「憎悪」とはっきり表現してしまうのは作歌技法から言ってよろしくない。短歌は表現されずに隠されたもので生きる詩型である。憎悪とははっきりと表現せず、憎悪を仮託した形象を冷蔵庫にしまうとすべきだろう。

 以上あげた歌は、冷蔵庫のなかに何かをしまうという発想から作られたものだが、冷蔵庫のなかにもとから何かが入っているという前提からの発想もありうる。例えば他人の家の冷蔵庫には何が入っているかわからない。引っ越しした家に前住者が冷蔵庫を置いていったとしたら、何が入っているか知れたものではないので、これはかなり不気味である。次の歌はこのような発想から作られたものだろう。

 干からびた肉といつしよに見つかつた古いともだち冷蔵庫の中  村本希理子 (WWW)

 冷蔵庫の奥になにやら居座って恨めしそうに私を見てる  丸山進 (WWW)

冷蔵庫は忘れたいものや隠しておきたいものを隠匿する場所であったり、何か不気味なものが居座っている場所であったりする。冷蔵庫の「内部性」が秘密や犯罪と通底するところから生まれたイメージであることはまちがいない。

 冷蔵庫を詠んだ歌を通観してひとつ興味深いと感じたことは、冷蔵庫の内部性を闇と捉えた歌と、光と捉えた歌におおきく二分されるということである。上にあげた歌でもすでに、島田はあさい闇、大辻は薄暗がりと「闇」系統なのにたいして、佐藤は「光」で対照的な捉え方を見せている。次の歌もそうだ。

 薔薇朽ちるまでの淫雨に次ぐ淫雨冷蔵庫から光は漏れて  嵯峨直樹

 真夜中に開けたらだめよ冷蔵庫は薄墨色の虹を吐くから 久哲 (WWW)

 冷蔵庫の扉をあける 仏壇はいつも暗くてどこか冷たい  西橋美保 (WWW)

 嵯峨の歌は今年の短歌研究新人賞受賞作から。雨に降り込められた暗い室内に漏れる冷蔵庫の光は、冷たい輝きながらもどこか救いを暗示する光のようにも見える。久哲の歌はよくわからないが、冷蔵庫の中では夜中に人知れず不思議なことが起きているというイメージと、内部の光から虹という連想が働いたものと思われる。西橋の歌は冷蔵庫と仏壇をイメージの世界で並置したものであり、死と闇系統の把握そのままである。

 冷蔵庫の内部性を「闇」と捉えるのは、おそらく自分が昼の世界にいて外から冷蔵庫を見ているからだろう。このとき、冷蔵庫の内部性には往々にして負の価値が付与され、内部性が外部性に転じたときに〈私〉が脅かされるか、〈私〉の隠しておきたい側面が露呈するという位相で捉えられている。これに対して内部性を「光」と捉えるのは、夜の暗い台所で冷蔵庫を開けて中を覗き込んでいるからである。つまり、ここでは〈私〉は夜の世界にいて、冷蔵庫の中から漏れる光を憧憬している。内部性には正の価値が付与され、〈私〉の慰藉や救済を暗示するものとなる。どうやら歌人はこのどちらかのスタンスから冷蔵庫を眺めるようで、興味深い。

 なかには上にあげたものとは少しちがう歌もある。

 せつなさに変化してゆくピーナツバターは冷蔵庫の片隅で  佐藤りえ

 だめになった食品たちを眠らせて夏のしずかなる冷蔵庫   同

 冬の間は忘れ去られる冷蔵庫の製氷皿のごときかわれは  玲はるな

 「心配して言っているのさ嘘じゃない」冷蔵庫には真冬のキャベツ  村上きわみ

 佐藤はよほど好きなのか、冷蔵庫の歌をたくさん詠んでいる。冷蔵庫は低温で長期貯蔵を可能にはするが、食品が変質し腐敗することを止めることはできない。ただその過程を遅らせるだけである。この点に着目すれば、冷蔵庫は徒労と無力感の象徴となる。佐藤の二首で冷蔵庫が不毛性の象徴として詠われているのはこのためだろう。これに対して玲の歌は、恋人の都合のよい時にだけ声を掛けられ、それ以外の時は忘れられている自分を冬の製氷皿に擬したものであり、視点がユニークだと言える。村上の歌は少々わかりにくいが、上句の台詞と下句の事実描写が互いに裏切りの関係に置かれている点がポイントなのだろう。真冬は本来はキャベツが収穫できない時期である。だから冷蔵庫に納まっている「真冬のキャベツ」は、上句の台詞がその言明とは裏腹に嘘であることを暗示していると解釈できる。

 最後にまったく異なる発想からの歌をひとつあげよう。

 天然の冷蔵庫だなを聞きたくて父と市バスに揺られとります  斉藤斎藤 (WWW)

 歌集『渡辺のわたし』で才気を見せた斉藤斎藤の歌である。「天然の冷蔵庫」とは、山の冷気や川べりの涼しい風を言うのがふつうである。窓を開け放した市バスに入る空気は、都市熱で暖められた空気であり、とても天然の冷蔵庫とは言えないのではないかという疑問が残りはするが、斉藤本人の父と自分との関係の複雑なねじれを歌集から読み取った者には、腑に落ちるところがあるかも知れない。冷蔵庫の題詠で冷蔵庫そのものを詠むのではなく、「天然の冷蔵庫だな」という科白を介した人間関係を詠んだところ、なかなかの才気と言えよう。