短歌における「わたし」

震えながらも春のダンスを繰り返し繰り返し君と煮豆を食べる

堂園昌彦『やがて秋茄子へと到る』

 感性の共同性を基軸とする古典和歌から「自我の詩」である近代短歌へと移行して以来、短歌と〈私〉は切り離せないものとなった。たとえ「曼珠沙華一むら燃えて秋陽つよしそこ過ぎてゐるしづかなる径」(木下利玄)のように、表面上は〈私〉が顔を出さない歌においても、歌の背後には風景を見ている〈私〉が蟠踞している。とはいえ実際に歌に現れる〈私〉の奥行きと射程は様々である。

 〈私〉の最も直接的把握は、坂道を登って来てはあはあと息が切れている〈私〉、冷えたビールをごくごく飲んで喉を鳴らしている〈私〉のように、「たった今・現在」を生きる私である。こうして感得される〈私〉は瞬間的であり強い実感を伴う。この対極にあるのが、「薔薇抱いて湯に沈むときあふれたるかなしき音を人知るなゆめ」(岡井隆)や「首都高の行く手驟雨に濡れそぼつ今さらハコを童子を聴けば」(藤原龍一郎)などの歌に見られる〈私〉である。

 どこがちがうのだろう。この二つの〈私〉は多数の軸において対立する。まず前者の〈私〉は瞬間的で奥行きがない(瞬間性)。こうして切り出された〈私〉は過去と切断された〈私〉である(非歴史性)。まるで劇作家アヌイの主人公のように記憶すら失っているかに見える。かたや後者の〈私〉は持続的で奥行きがある(持続性)。そのため過去と繋がっており、積み重ねられた記憶を抱えている(歴史性)。岡井の歌も藤原の歌も、自分の今の状況と過去の苦い記憶が重ね合わされていることからもそれは明らかだろう。

 さて振り返って掲出歌を見ると、この歌の〈私〉は前者の奥行きと射程の短い〈私〉である。この〈私〉はダンスを踊り君と煮豆を食べる今という瞬間を生きている。現代の若手歌人の短歌に見られるのはこのような〈私〉である。この私の位相は、「イルカがとぶイルカがおちる何も言っていないのにきみが『ん?』と振り向く」(初谷むい)の、まるで瞬間の連続のように動詞が終止形に置かれている文体に現れている。現代の若手歌人は歴史性を担う持続的な〈私〉よりも、かけがえのない今という瞬間を生きる〈私〉に惹かれている。

 

『ねむらない樹』vol5, 2020に掲載