先月号の歌壇時評で「口語によるリアリズムの更新」について書いたところ、「短歌研究」七月号で「二〇二一『短歌リアリズム』の更新」という特集が組まれた。企画と問題提起は山田航である。時評子が先月号の時評を書いていた時点では、「短歌研究」のこの号はまだ出ていなかったので、同じ話題が相前後して取り上げられたのはまったくの偶然である。この特集では、自分の経験を交えた山田の問題提起に続き、永井祐、手塚美楽、𠮷田恭大、穂村弘との対論が収録されている。
その中で永井は、「写生」と「リアリズム」は違うと前置きして、写生的な短歌というのは「読む主体が作る主体を内面化するようにして作品を享受する」、「読む主体が作る主体の中に入る(…)特徴的なコミュニケーション」だと述べている。これは読者が作者の作中視点へと視点移動して、作者の体験を追体験するということだろう。興味深いのは、写生の描写方法をシューティングゲームに喩えたくだりである。主人公の目にカメラを置いたFPS(ファースト・パーソン・シューター)と、主人公の「頭上後方からの見下ろし視点」にカメラを置いたTPS(サード・パーソン・シューター)があり、近代短歌は基本的にTPS方式で作られているという。これにたいしてゼロ年代のリアル系短歌は、徹底してFPSを採用していると永井は述べている。この喩えはとてもわかりやすい。例えば岡井隆の次の歌はTPS方式で作られている。憎しみに酔うようにパンをひたすら咀嚼する〈私〉の孤影を見下ろす目が感じられるからである。
夕まぐれレーズンパンをむしり食む憎悪に酔ふがごとしひとりは 『神の仕事場』
一方、今橋愛の次の歌は完全にFPSである。
もちあげたりもどされたりするふとももがみえる
せんぷうき
強でまわってる 『O脚の膝』
山田との対論の中でとりわけ興味深く感じたのは、永井の次の発言であった。
「FPSが果たしてリアルかというと難しいというか、ふつうに五感をもって存在している段階で、斜め上からの認識というものがすでにあるという感じもするんです。TPSのほうが、人間のもっている感覚に対して自然なものな気がする。逆にカメラアイのみが突出した状態ってけっこうおかしな状態って思うというのかな」
文体派の永井としては、山田がそう言うことを期待したように、単純にFPSがリアルだと認めるつもりはないようで、なかなか複雑な問題であることを示唆している。「写生」と「リアリズム」を別物だとする永井の見解は注目に値するように思われる。
先月の時評で時評子は、現代の若手歌人の歌に見られる〈今〉の多元化に触れたが、この問題を扱った文章がもう一つあったので紹介しておきたい。斉藤斎藤の「文語の〈われわれ〉、口語の〈わ〉〈た〉〈し〉」(「短歌研究」二〇一四年十一月号)である。この文章で斉藤は、中世・中古の和歌においては、一首の中で複数の時間が並存するのがふつうだったとする。たとえば紀貫之の〈袖ひちて掬びし水のこほれるを春立つけふの風やとくらむ〉では、水を掬った夏、それが凍った冬、溶け出す春の三つの時点が並存している。短歌改革者の子規はこれを嫌い、助動詞を排することで名詞中心の視覚的で映像的な写生を確立したという。こうして〈今〉は一元化されたのである。ところが斎藤茂吉はこれに飽き足らず、眼前の〈今〉以外の遠い時点を歌に取り込もうとしたというのが斉藤の見立てである。斉藤は大辻隆弘の論を引いて、〈わたつみの方を思ひて居たりしが暮れたる道に佇みにけり〉という歌では、海の方角を想像していた大過去、呆然と我を忘れる過去、そのことに気づいた今という三つの時点が、「ゐたりしが」「たる」「にけり」という助動詞によって表現されているとする(大辻の論考は「多元化する『今』 ―近代短歌と現代口語短歌の時間表現」『近代短歌の範型』所収。ただし、斉藤が右の文章を書いた時点ではツイッターの投稿)。これは単一の〈今〉を保持しつつ、遠い過去や近い過去を歌に取り込む手法であり、斉藤は近代の文語短歌の時間組織は英語のシステムに近いと述べている。この指摘は興味深いが、さらなる論究は別の機会に譲りたい。
おもしろいのは、斉藤によると、〈白壁にたばこの灰で字を書こう思いつかないこすりつけよう〉(永井祐)のように、一首の中に複数の〈今〉が並立する歌は、中世・中古時代の和歌への先祖返りとみなすことができるということである。ただし、貫之の和歌では「き」「り」などの助動詞によって時間軸が一本化されている点が、動詞の終止形が連なる現代の短歌と異なる点であろう。
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「現代短歌」二〇二〇年一月号から川野芽生が「幻象録」という連載を続けている。時評という枠を超えた独自の視点があるコラムである。二〇二一年五月号で川野は、睦月都の歌壇時評「抑止する修辞、増幅しない歌」(角川『短歌』二〇一九年十月号)に触れており、興味深い論考となっているので少し見てみたい。
この時評で睦月は、近代短歌は永田和宏の説くように、一首の中の求心力と遠心力の相克によって意味の増幅に向かうものだが、近年になって増幅ではなく抑止・制限に向かう修辞を見るようになったと述べている。睦月はそのような歌をどう読めばよいか、当初はわからなかったと述懐している。これはどこにも盛り上がりのないフラットな歌を目にしたときに、多くの人が抱く感想ではないだろうか。
睦月はそのような修辞傾向が見られる現代の若手歌人の歌をいくつか引いて、次のように述べている。
夏の本棚にこけしが並んでる 地震がきたら倒れるかもね 五島諭
そのへんのチェーンではないお店より安心できる日高屋だった 鈴木ちはね
とても軽そうな子犬が前足に落ち葉を絡めて歩いていった 谷川由里子
このような歌で作者は、自分が意図しない方向に勝手にイメージが溢れないように慎重に言葉を置いている。読者は言葉の向こうに抒情性や心理的屈折という「何か」を探すのだが、それは見つからないと睦月は書き、最後に次のように締めくくっている。
「長い歴史の中で培われてきた短歌のインデックスを利用することもなく、言葉に必要以上の感情を乗せることもない。そこにあるのはシンプルな定型だ。かれらは潔癖ともいえるほどにていねいに言葉を削ぎ落とし、安易なポエジーを躱す。これらの行為は短歌の所与性、ハイコンテクスト性、あらゆる『短歌的なもの』を照らし、問い直しているように思う」
この睦月の発言を受けて、川野は第三回笹井宏之賞を受賞した乾遥香の「夢のあとさき」から歌を引いてさらに考察を進める。
飛ばされた帽子を帽子を飛ばされた人とわたしで追いかけました
レジ台の何かあったら押すボタン押せば誰かがすぐ来てくれる
なぜこのように修辞の増幅を抑えて、リフレインを多用するかというと、省略を利かせて省かれた部分を読者に補完してもらうのではなく、読みのぶれを最低限に抑えようとしていて、歌の背後には書かれていないことなど何もないと意思表示しているのではないかと川野は考えている。なぜそこまで解釈をコントロールしたいかというと、それは「読者を信用していない」からであり、「解釈共同体を信用していない」からだとする。短歌で多くのことを表現しようとすると、共有された読みのコードに頼って意味を補完することになる。それは便利な手段ではあるけれど、マイノリティの排除にもつながると川野は続けている。現代の若手歌人の歌が、あたりまえと見えることをわざわざ反復してまで表現するのは、説明抜きで共有されることを拒むからだというのが川野の考えである。
川野の論考は多岐にわたる問題を含んでおり、その中には短歌の本質に関わるものもある。そのすべてを論じることはこの時評では到底無理だが、その一角だけでも考えてみたい。
問題を考えるキーワードとして「くびれ」と「ずん胴」を選びたいと思う。「くびれ」は穂村弘が『短歌という爆弾』(二〇〇〇、小学館)で提唱した用語である。穂村はまず短歌が人を感動させる要素に共感(シンパシー)と驚異(ワンダー)があるとする。共感とは「そういうことってあるよね」と感じてみんなに共有される想いであり、驚異とは「今まで見たこともない」と目を瞠るような表現をさす。人々に愛唱される歌の多くは、共感の中に驚異が含まれており、それを穂村は「短歌のくびれ」と呼んでいる。それはちょうど砂時計の狭くなった場所に相当する。たとえば〈砂浜に二人で埋めた飛行機の折れた翼を忘れないでね〉(俵万智)という歌のくびれは「飛行機の折れた翼」で、読者はここで「えっ? 飛行機の折れた翼?」という自分自身の体験とはかけ離れた衝撃に出会う。もしこれを「桜色のちいさな貝」に置き換えると、上から下まで円筒形のズンドウになってしまう。読者は短歌のくびれで思いがけない衝撃に出会い、それを通過することで深い感動を得て、より普遍的な共感の次元へと運ばれることになるというのが穂村の解説である。穂村はもともと塚本邦雄の短歌に衝撃を受けて短歌に手を染めた人なので、基本的に共感より驚異を重視する立場であることも押さえておきたい。なお穂村は、穂村弘×東直子÷沢田康彦『短歌はプロに訊け!』(二〇〇〇、本の雑誌社)でもほぼ同じことを述べている。
二〇〇〇年代のリアル系の若手歌人の歌には共通してくびれがなく、フラットで高まりがない。どうしてこんな普通のことを歌に詠むのか首を傾げる向きもあろう。
なんか知らんが言われるままにキヨスクの冷凍みかんをおごってもらう 宇都宮敦
なんとなく知らない車見ていたら持ち主にすごく睨まれていた 鈴木ちはね
おろしてはいけない金をゆうちょからおろす給料日が火曜日で 山川藍
このような歌を見て感じるのは、時代がワンダーからシンパシーへと大きく舵を切ったということである。穂村はシンパシーの中に含まれる微量のワンダーが秀歌を生むとした。しかし二〇〇〇年代のリアル系若手歌人には、その微量のワンダーが作り物に見えて嘘臭く感じられるのではないだろうか。このような歌はもはや秀歌をめざしていない。彼らはワンダーを生み出す天才に憧れて身悶えするよりも、等身大の日常にシンパシーが静かに漂うほうを好む。「長い歴史の中で培われてきた短歌のインデックス」を参照し、「解釈共同体」を梃子としてワンダーを生み出す必要がないので、それらは歌に要請されることがないのではないだろうか。
「ねむらない樹」別冊の「現代短歌のニューウェーブとは何か?」(書肆侃侃房、二〇二〇)に永井祐が「第4回歌葉新人賞のこと」という文章を寄稿している。永井は歌葉新人賞でこの回がベストだったとする。〈それは世界中のデッキチェアがたたまれてしまうほどのあかるさでした〉という歌を作った笹井宏之は「遠いところを目指す」歌で、〈牛乳が逆からあいていて笑う ふつうの女のコをふつうに好きだ〉の宇都宮敦は「近いところの見方を変える」歌だとする。この対決は一種の「スタイルウォーズ」、つまり文体の対決だったと永井は総括している。笹井は言葉を極限まで純化することで誰も真似することのできないワンダーをめざしたのにたいして、宇都宮はシンパシーに立脚して日常に微妙なずれを生み出す戦略ということになるだろうか。宇都宮の文体は意識的に選ばれたものである。そのことは斉藤斎藤が「書きたくないことは書かないで」(「短歌研究」二〇一二年七月号)の中で、「ずんどう鍋を磨きあげる」という宇都宮の言葉を引用していることからも明らかだ。宇都宮は穂村の「くびれ」に対抗する文体を模索したのである。その結実は『ピクニック』(現代短歌社、二〇一八)に見ることができる。
川野の言うように、二〇〇〇年代のリアル系歌人が「解釈共同体を信用していない」かどうかは疑問の余地があるが、信用しないまでも必要としていないことは明らかである。そのちがいはカトリック(旧教)とプロテスタント(新教)のちがいに喩えることができるかもしれない。旧教では教皇が神の代理人で、教会という共同体を通して信者は神とつながるが、新教はそれを否定し、一人一人の信者が直接に神とつながるとする。結社や歌会として表れる解釈共同体は、旧教の教皇や教会と同じように信者と神の媒介として働く。リアル系若手歌人の多くは結社に所属せず、一人で歌と向き合う。〈私〉と神とが直接につながるように、〈私〉と歌の間に媒介を必要としない直接的な回路があるかのようだ。その回路はある意味で歌の純度を担保する役割を果たすかもしれない。しかしその一方で、媒介を拒否する態度は、短歌から座の文芸としての性格を奪うことはまちがいない。その結果として、彼ら・彼女らの歌が、成層圏の群青の空に向かって放たれる孤独な叫びとならないだろうかという一抹の危惧を拭い去ることができないのである。