意味は形式の階段を駆け上がり普遍の空へ(特集:短詩形文学の試み──定型とは何か)

 詩や俳句や短歌などの短詩型文学における定型とは何か。これはなかなか難しい問題である。そもそも短詩型文学はなぜ定型を必要とするのか。この問題に答えるためには、詩歌における言語の役割から考えてみなくてはならない。

 透徹した詩論を残したポール・ヴァレリーの文章のなかに、詩の発生する瞬間を捉えた美しい一節がある。あなたは煙草の火を借りるために、かたわらの人に「火をお持ちですか」Avez-vous du feu ? と言う。その人はあなたに火を貸してくれる。あなたの発した「火をお持ちですか」という短いフレーズはその命を終えて消えてしまう。言葉が行為に置換され、あなたは望んだ火を手に入れたからである。これが私たちが日頃経験している普通の言語状況である。ところがなぜか、役割を終えたにもかかわらず、私のなかにその短いフレーズをもっと聴きたいという欲求が生まれることがある。私はそのフレーズを、抑揚を変え速さを変え何度も反復する。そのフレーズは言葉の行為への置換という実用性を超えて生き延びたのだ。これがヴァレリーの描く詩の発生する機序である。

 ヴァレリーの言おうとしたことを現代言語学的に言い換えると、「詩歌の特徴はシニフィアンへの固着である」と要約できる。シニフィアンとシニフィエは現代言語学の父ソシュールの提案した用語で、言語記号を構成するふたつの面をさす。かんたんに言えば、シニフィアンは音、シニフィエは意味と考えればよい。意味の伝達を旨とする散文の世界ではシニフィエが全面的に君臨するが、詩歌の王国においてはその支配力は後退し、シニフィアンが頭をもたげ、時にシニフィエを凌駕する。

 あめんぼの足つんつんと蹴る光ふるさと捨てたかちちはは捨てたか  川野里子

 この歌の魅力が下句に凝縮されていることに異論はないだろう。音数的には七・七となるべき下句が八・八と破調になっているが、「ふるさと」「ちちはは」の対句的表現と「捨てたか」のリフレインによってむしろ安定感が増し、わらべ唄のような効果を生みだしている。この下句の魅力は意味によるものではない。四音の規則的連続と「捨てたか」の反復というシニフィアンへの固着によって、呪文のような効果を生みだしている。この魔術的な下句と比較すれば、上句は下句を導き出すための導入部にすぎない。

 作者の個人的な体験や思い入れにすぎないものを定型という鋳型に流し込むと、あら不思議、それは個人的地平を離れて公共性のレベルへと浮上する。川野の短歌は老いた両親を地方に残して上京し、都会生活者となりおおせた多くの日本人の心情を代表する。意味は形式の階段を駆け上がることで、普遍の高みへと達するのである。意味の一回性を保持しつつそれを公共化するという、個的意味から普遍的意味へのこの魔術的変換に、定型が決定的役割を果たしていることは疑いない。

 同じことは消費者への訴求力を必要とするCMコピーにも当てはまる。CMコピーの要諦は耳に残り多くの人々の好意的共感を得ることにある。

 すかっとさわやかコカコーラ
 セブンイレブンいい気分
 インテルはいってる

 「すかっ」「さわやか」「コカコーラ」の無声破裂音「カ」の反復は、歯切れのよいリズムを生み出し、炭酸飲料の刺激的な爽快感とよくマッチしている。「セブンイレブンいい気分」は三音・四音・五音と漸増する各句の末尾に「ブン」が反復されることで、弾むようなリズムが生まれている。「インテルはいってる」は、英語版のコピー Intel Inside の頭韻を日本語に置き換えるときに「てる」の脚韻に変えるという工夫されたコピーだが、日本語の定型の基盤である音数リズムに乗っていないのが惜しい。「インテル○○てるはいってる」となっていれば完璧だっただろう。「○○」の部分には、たとえば「インテルイケてるはいってる」のように二音を入れる。もっともこの改作が広告コピーとして「イケてる」かどうかは別の話だが…。かくのごとく定型は私たちの日常生活の至るところに溢れている。また日本語の定型は頭韻や脚韻などの韻(rime) によるのではなく、五・七・五などの音数 (正確にはモーラ数)によって成立することを、このインテル社のコピーは教えている。

 G.M.ホプキンズは韻文を「同じ音文彩を全面的にまたは部分的に反復する発言」と定義した。これは韻を基本とする欧米の詩に当てはまることである。学者のモットー Publish or perish. 「論文を出版するか、さもなくば消えてゆけ」も -ish の反復があるから極小の韻文である。欧米の詩が強弱リズムと韻を定型の基本要素としているのにたいして、日本語の詩が音数形式を定型の基礎としたのは、日本語が「ウイーンっ子」を、「ン」も伸ばす音もつまる音も含めて六拍として発音する等拍性の言語であることと、同音語が多くて韻の効果が出ないからである。ではなぜ五・七・五(七・七)が定型として現代まで生き延びたのかという疑問については、坂野信彦『七五調の謎をとく』(大修館書店)に説得的な論証が展開されているのでそちらに譲る。その骨子は、日本語の基本リズムは二音一拍であり、五音と七音を基本とする組み合わせに語彙がもっとも乗りやすいというものである。

 ここでもうひとつ難しい問題が生じる。五・七・五(七・七) の音数律を守れば定型詩ということになるのだろうか。

 枡野浩一の提唱する「かんたん短歌」の生み出したスター加藤千恵に、「あの人が弾いたピアノを一度だけ聴かせてもらったことがあります」という口語短歌がある。五・七・五・七・七の音数律が厳密に守られている。しかしこの歌が一行書きされていたら、誰も短歌だとは思わないだろう。それは上句と下句の切れをはじめとして、一首の内部に内的リズムを生み出す仕掛けが一切ないからである。これを次の創作都々逸と較べてみる。

 椿つや葉樹(ばき)つんつら椿めのう細工と見てござる 渡辺光一郎

都々逸は七・七・七・五形式だが、それさえ守ればよいというわけではない。初句の七音は調子よく始めるために「●○○○|○○○○」でなくてはならない(●は半拍の休止を表わす)。だから最初は三音の単語になる。渡辺の作品を見ると「●つばき|つやばき∥つんつら|つばき●∥●めのう|ざいくと∥みてござる●●●」と、三音と四音がリズミカルに交代して、内的リズムを作り出していることがわかる。内的リズムは語句どうしを凝集させ離反させることで、定められた音数律の内部に緩急を生み出す。この内的リズムがなければ、たとえ全体として音数を守っていても定型とは言い難い。またこうして生み出された緩急のリズムに意味をどのように乗せてゆくかが歌人の腐心するところである。

 しかし歌人とは因果なものだ。定型があればそれを逸脱しようとする力学がどこかに働く。穂村弘の歌集『手紙魔まみ、夏の引越し(ウサギ連れ) 』には次のような歌が並んでいる。

 「凍る、燃える、凍る、燃える」と占いの花びら毟る宇宙飛行士

 『ウは宇宙船のウ』から静かに顔あげて、まみ、はらぺこあおむしよ

 この歌集に収録された歌は、若干の例外を除いて三十一音で書かれている。しかし定型感覚は無惨なまでに打ち砕かれている。戦後の第二芸術論、特に小野十三郎の「奴隷の韻律」論を受けて、塚本邦雄が句割れ・句跨りを駆使して「オリーブ油の河にマカロニを流したような」短歌の韻律を意図的に革新しようとしたように、穂村もまた新たに定型を撓める実験を試みているのだ。その試みが成功しているかどうかはまた別の話である。また逆に解釈すれば、これほどまでに撓めてもその残滓が残るほどに、伝統詩の定型は日本語の生理そのものに根ざしたものだとも言えるのではないだろうか。



「すばる」(集英社)2005年10月号掲載