〈1人称単数 je〉
1人称は話し手をさし、話し手が男性でも女性でも、子供でも老人でも使うのはjeです。これは考えてみると驚くべきことではないでしょうか。
日本語ではニュートラルな「私」の他に、男性は「僕」「俺」「わし」、女性は「あたし」「うち」などと自分を呼び、性別によって異なる語を使うことがあります。多少文語的ですが、その他にも「吾輩」「小生」などもあります。警察官は自分のことを「本官」、役人は「小職」などと言いますし、天皇や国王専用の「朕」という代名詞まであります。なぜ日本語にはこんなにたくさん1人称代名詞があるのでしょうか。
日本語でさらに驚くべきなのは、相手が誰かによってちがう代名詞を使うことです。同じ人が会社で上司に話すときは「私」と言い、同僚と話すときには「僕」と言い、家で家族と話すときには「俺」と言ったりします。相手によって自分をさす人称代名詞を使い分ける言語はとても珍しいのです。
さらにおもしろいのは、本来は代名詞ではない役割名詞を用いて自分をさすことです。学校で生徒に話すときには「先生はこう思うよ」と言い、家で子供に話すときには「お父さんはうれしいな」と言います。靴紐が結べないよその子供に「おばさんが手伝ってあげる」と言うこともあります。こういうものまで人称代名詞と呼ぶことはできないでしょう。「人称詞」や「自称詞」あたりが適切ではないでしょうか。
フランス語ではいついかなる場合でも話し手は je なのに、日本語では場面や話し相手によって人称詞がころころ変わるのはなぜでしょうか。それはフランス語の人称代名詞と日本語の人称詞では担っている機能がちがうからです。
フランス語の人称代名詞 je には、大きく分けて二つの機能があります。意味的機能は「話し手をさす」ことで、文法的機能は「動詞の活用を支配する」ことです。je にそれ以外の機能はありません。一方、日本語の1人称詞「僕」「私」には、「話し手をさす」という意味的機能はありますが、「動詞の活用を支配する」という文法的機能はありません。主語が「僕」でも「君」でも動詞の形は変わらないからです。
そのかわり日本語の人称詞にはフランス語の人称代名詞にはない働きがあります。それは語用論的機能、とりわけ対人的機能です。語用論的機能(fonction pragmatique)というのは、言葉が使われる「場面」を言語に反映することをいいます。改まった場面なのか、くだけた場面なのかというちがいが人称詞の選び方を決めます。対人的機能とは、話し手と聞き手の人間関係にかかわるものです。相手に対する敬意やていねいさや親愛の情や侮蔑を表す働きで、これも人称詞の選び方に影響します。親しくない人には「私」と言う人が、家に帰れば家族に「俺」と言うのがそれです。教室では教師という社会的役割が前面に出て自分を「先生」と呼び、家庭では親子関係に基づいて自分のことを「お父さん」と言ったりします。日本語ではこのように「場面」が大きな語用論的機能を担っています。日本語は文法がすべてを決める言語ではなく、文法の外にある場面や対人関係が言葉の選び方に強く働く言語なのです。
〈2人称単数 tu と複数 vous〉
フランス語では珍しく2人称には日本語とよく似た語用論的機能があります。親疎の区別です。家族や友人などの親しい間柄では tu を、初対面の人や目上の人にはたとえ相手が一人でも複数形の vous を用います。
なぜ1人称にはなかった語用論的機能が2人称にはあるのでしょうか。それは2人称が聞き手をさす代名詞だからです。自分をどう呼ぶか以上に、相手をどう呼ぶかは対人関係において重要です。ヨーロッパの言語には2人称で親疎の区別のあるものが多く、英語にも昔は thou〜youの区別がありましたが、消えてしまいました。
では tu の複数形の vous を使うとどうしてていねいになるのでしょうか。ていねいさを表す鍵は「相手を直接さすことを避ける」ことです。では相手を直接ささないためにはどうすればよいでしょうか。やり方は二つあります。「ぼかす」か「ずらす」かです。相手が一人でも複数形を用いるのはぼかすためです。イタリア語では「ずらす」ことを選び、2人称の代わりに3人称代名詞を使います。フランス語でも特殊な場合には3人称を使って敬意を表すことがあります。国王に話しかけるとき Votre Majesté partira quand elle voudra.「陛下におかれましてはいつでもご出発くださいますように」(注1)のように3人称を使って国王を直接さすのを避けます。また昔は召使いが雇い主に話すとき Madame est servie.「奥様、お食事の支度が調いました」と言って、主人に3人称を使っていました。
教室ではよく tu は日本語の「君」や「お前」に当たると教えます。これはまずまず正しいでしょう。しかし神様に呼びかけるときには tu を使うので、少し感覚がずれるところもあるようです。困るのは vous ですね。便宜上、教室では vous には3つの意味があって、tu の複数の「君たち」「お前たち」、ていねいな単数の「あなた」、ていねいな複数の「あなた方」であると教えます。しかしほんとうはこれはとてもまずいのです。というのは日本語ではていねいに目上の人を呼ぶときに、決して「あなた」とは言わないからです。会社で社長に向かって「あなた」と言ったらクビになりかねません。日本語ではていねいな vous に相当する人称詞はないのです。それに代わって「部長はどうお考えですか」とか、「先生は明日大学にいらっしゃいますか」のように、「部長」や「先生」などの役職名を使います。日本語は相手を直接さすことをとても嫌うのです。これもまた日本語が文法のみによって駆動される言語ではなく、場面や人間関係などの語用論的配慮が強く働くことを表していると言えるでしょう。
留学中にパリ第8大学(Université de Paris VIII–Vincennes、現在はUniversité Paris VIII-Vincennnes-Saint-Denis)の授業に出たときは驚きました。学生が先生に話しかけるときに tu を使っていたのです。第8大学は5月革命の後に実験校として設立された大学で、とても自由な校風だったのですね。
〈3人称単数 il / elle〉
3人称代名詞がさす対象は人と物と非人称に分かれます。フランス語には英語の it のような物専用の代名詞がないので、非人称には男性単数形の il を使うのは周知のとおりです。非人称についてはまた別の所でお話します。
il / elle が物をさすときは特に問題ないのですが、問題は人をさすときです。次の例を見てみましょう。
(1) En ouvrant la porte, elle crut que ce vendredi serait semblable aux autres, ni plus gai, ni plus triste ; pourtant, elle ne devait jamais, par la suite, oublier ce jour où se déclencha la machination. Elle se pencha pour ramasser l’hebdomadaire posé en équilibre sur la bouteille de lait, referma la porte et se dirigea vers la cuisine en traînant ses savates.
(Catherine Arley, La Femme de paille)
ドアをあけながら、その日が金曜であったことに気づいた。彼女はすべての策謀が始められたこの日を、あとになると決して忘れることができなくなる。しかし、今はそれを知る由もなかった。その日も、ただ、一週間のうちの単なる一日であり、ほかの日よりも悲しくも嬉しくもなかった。彼女は、身をこごめて、牛乳瓶の上に、落ちないようにうまく置いてあった週間新聞をとりあげると、ドアをしめ、スリッパをひっかけ、台所へ入った。
(カトリーヌ・アルレー『わらの女』安藤信也訳、創元推理文庫)
最初の elle は訳されていませんが、2つ目以降の elle は全部「彼女」と訳されています。このような翻訳も多いのですが、少し年配のベテラン翻訳家だと次のようになっています。(注2)英語の例ですが事情は同じです。
(2) ‘Unsolved mysteries.’
Raymond West blew out a cloud of smoke and repeated the words with a kind of deliberate self-conscious pleasure.
‘Unsolved mysteries.’
He looked round him with satisfaction. The room was an old one with broad black beams across the ceiling and it was furnished with good old furniture that belonged to it. Hence Raymond West’s approving glance. By profession he was a writer and he liked the atmosphere to be flawless.
(Agatha Christie, The Thirteen Problems, “The Tuesday Night Club”)
「迷宮入り事件」
レイモンド・ウェストは、タバコの煙をパッと吐きだしてくりかえした。ゆっくり味わいかえしているようなうれしそうな口調だった。
「迷宮入り事件」
レイモンド・ウェストは満足そうに一座を見まわした。古風な部屋だった。天井には太い黒っぽい梁がわたされ、部屋相応にどっしりした古めかしい家具が置かれている。レイモンド・ウェストが好ましげに眺めたのもむりはなかった。レイモンド・ウェストは作家だった。
(アガサ・クリスティー『火曜クラブ』中村妙子訳、ハヤカワ文庫)
この訳では原文で he となっているところを全部「レイモンド・ウェスト」としています。私もそうなのですが、人によっては人称代名詞の il / elle や he / she を「彼」「彼女」と訳すことに抵抗を感じます。それはなぜでしょうか。それは日本語の「彼」「彼女」の歴史に由来します。
古語で「彼」は遠い所にあるものをさす遠称の指示詞でした。「たそがれ」という表現は、元は「誰そ彼」で、「あの人は誰だろう」を意味し、人の顔の見分けがつかない夕暮れをさします。この意味は現代語でも「山の彼方」という言い方に残っています。「彼方」というのは遠い場所という意味ですね。また多くの言語で遠称の指示詞は、話し手も聞き手も知っているものをさします。現代日本語の遠称の指示詞は「あの〜」や「あれ」ですが、部長が部下に「山田君、あの件はどうなった?」と言うときは、「あの件」がさすものは部長さんにも山田君にもわかっているのです。同じように古語の「彼」は共有知識に属するものを指していました。この意味は現代日本語にもかすかに残っていて、次のような場合には「彼」は使えません。(注3)例文の (*)記号は非文法的な文であることを表しています。
(4) Aさん : イタリア語の翻訳ができる人を探しているんだけど、誰か知らない?
Bさん : 僕の知り合いに澤口さんという人がいて、イタリア語が得意ですよ。
Aさん : じゃあ、{その人 / *彼}に頼もうかな。
Aさんは澤口さんを知らないので「その人」と言わなくてはならず、「彼」を使うことはできません。このような感覚を今でも持っている人は、小説の翻訳で il / elle を「彼」「彼女」と訳すのに抵抗を覚えるのです。日本語ではフランス語のように同じ単語の繰り返しを嫌わないので、Paulを受ける代名詞 il を「彼」と訳さずに、「ポール」と繰り返すか、もっとよいのは省略することです。
(5) Paul avait sommeil ; il n’avait pas bien dormi la veille.
ポールは眠かった。昨夜はよく眠れなかったのだ。
そもそも il を「彼」と訳すことができないケースも少なくありません。たとえば先行詞が「神」のときがそうです。
(6) Dieu sait tout. Il connaît non seulement les moindres détails de nos
vies, mais aussi de celles de tout notre entourage.
神はすべてをご存知である。神は私たちの暮らしの細かいことのみならず、
私たちのまわりの人たちの生活の細部までもご存知である。
もし教室で学生が「彼」と訳したら、「君は神様とそんなに親しいのですか」とからかいたくなるところです。「彼」は本来よく知っている人をさすからです。
次のように先行詞が総称の場合も問題になります。
(7) Tandis que le Français, lui, trouve indigne de porter atteinte à un certain
équilibre entre le travail et l’oisiveté. Il veut jouir de la vie, fût-ce de la
façon la plus modeste.
(Ernst-Robert Curtius, Essai sur la civilisation en France)
一方、フランス人は仕事と余暇のあいだのほどよいバランスを壊すのは適切で
はないと思っている。フランス人はたとえささやかであっても人生を楽しみた
いのだ。
「彼」は特定の人しかさすことができないので、「フランス人一般」をさす総称の il を「彼」と訳すことはできません。
次のように先行詞が不定代名詞のときも同様です。もしこの例で il を「彼」と訳したら、それは特定の人をさすことになってしまいます。
(8) Personne ne croit qu’il est malade.
自分が病気だと思う人は誰もいない。
この例で従属節の il は特定の人をさすのではなく、主語のpersonneのとる値に連動してさすものが変化します。このような代名詞を統語的代名詞 (英 syntactic pronoun)と呼び、先行詞がPaulのように特定の人のとき、それを受ける代名詞 il を語用論的代名詞 (英 pragmatic pronoun) と呼ぶことがあります。(注4)日本語の「彼」は特定の人をさす語用論的代名詞で、統語的代名詞に当たるものはありません。(注5)このようにフランス語の il / elleと日本語の「彼」「彼女」は異なる点が多いのです。 (この稿次回につづく)
(注1)『小学館ロベール仏和大辞典』
(注2)中村妙子さんはC.S.ルイスやアガサ・クリスティーの翻訳で知られる翻訳家である。私はパリで一度お会いしたことがある。
(注3)田窪行則「名詞句のモダリティ」、仁田義雄、益岡隆志編『日本語のモダリティ』(くろしお出版、1989)などに詳しい。
(注4)Bosch, Peter, Agreement and Anaphora. A Study of the Role of Pronouns in Syntax and Discourse, Academic Press, 1983に詳しく論じられている。
(注5)例(8)の訳の「自分」を統語的代名詞とする見方もある。