第162回 中畑智江『同じ白さで雪は降りくる』

生と死を量る二つの手のひらに同じ白さで雪は降りくる
          中畑智江『同じ白さで雪は降りくる』
 作者の中畑智江なかはた ともえは、1971年生まれで、中部短歌会所属。今までに歌壇賞や角川短歌賞の候補・佳作に選ばれており、連作「同じ白さで雪は降りくる」で2012年に第5回中城ふみ子賞を受賞している。連作と同じ題名の歌集『同じ白さで雪は降りくる』は、2014年9月に書肆侃侃房から新鋭短歌シリーズの一冊として刊行された第一歌集であり、中部短歌会叢書の一冊という位置づけでもある。跋文は中部短歌会主宰の大塚寅彦。
 他の新鋭短歌シリーズと同じ装幀と版組で出版されているが、中畑は他の若手歌人たちよりやや年齢が上で、また中城ふみ子賞受賞という受賞歴もあり、シリーズ内では別格の感がある。私は歌集を受領したとき、必ず中をパラバラと見て、何首かに目を通すことにしているが、このようなパラパラ読みでも中畑は別格という印象を強く持った。口語短歌全盛の中にあって、文語定型を守っていることもその理由のひとつだろう。
 一読して非常に爽やかな読後感を得たのは、作品の基調が光と明るさにあり、暗く鬱屈した歌がないためだと思われる。バブル経済が崩壊してすでに四半世紀以上経過しているが、90年代に青春期を迎えた人たちは「失われた世代」と呼ばれている。青春を謳歌すべき年齢に達したとき、すでに日本はデフレ基調の不景気に見舞われていたからである。中畑と同年生まれの嵯峨直樹は「髪の毛をしきりにいじり空を見る 生まれたらもう傷ついていた」と詠んだ。この世代の人たちは自己不全感満載の歌を詠むことがよくあるが、中畑がその弊を免れているのは驚くほどである。
レタスからレタス生まれているような心地で剥がす朝のレタスを
差し込める光くぐりて子は朝のいちばん澄んだところに座る
伸びあがる水を捕らえて飲み干せる少年たちに微熱の五月
夏やせの背中を上がりゆくファスナー 月色の服がわれを閉じ込む
淡青のひかりを水にくぐらせて小さき花瓶を洗う七月
 一首目の眼目は「レタス」の反復にある。剥いても剥いてもどこまでもレタスというあの感覚を、同語反復によって歌に移し替えている。「レタスの歌」特集を企画したらまっさきに引きたいような歌である。二首目に詠まれた子は少年である。この歌の手柄が「朝のいちばん澄んだところ」という表現にあるのは言うまでもない。朝は世界が作り直される時間だからもともと清澄なのだが、そのなかでもいちばん澄んだ場所があると感じる繊細な感覚が貴重だ。主題はもちろん少年の無垢である。一首目にも二首目にも暗い影はなく、明るい光が満ちた世界である。三首目の「伸びあがる水」とは、公園などに設置されている水飲み場で、蛇口が上を向いているものだろう。四首目は女性にしか作れない微量のナルシシズムを含有する歌で、「月色の服」とは薄いクリーム色の服だろうか。五首目にも光が溢れている。この歌では「淡青の花瓶」をその色と実体とに分解して詠んでいるところにポエジーがある。このように中畑の歌には至る所に光と明るさが満ちており、基調となる色を選ぶとすれば上の五首目にもある淡青(ライトブルー)だろうか。
 とはいえ中畑の歌に悲しみがないわけではない。この世は涙の谷であり、生きている以上、悲しみを負うことを何人も避けることができない。
幸せと言わねばならぬ虚しさに心はゆっくり折りたたまれる
君が呼ぶ旧きわが名はほうたるが向こうの岸に運びてゆきぬ
たまさかとさだめのあわい君おりて許し色なり冬のゆうぐれ
吾に九九を教えし父の唇にとぎれとぎれの九九がこぼるる
みどり子のわれを洗いし百合さんの手のひら今はひかりを抱く
 一首目と二首目は結婚生活に対する不満の歌である。集中でははっきりと詠まれてはいないのだが、三首目の歌やその直前の「合わさりて二つが一つになることも欠けて一つになることもあり」という歌を見ると、離婚を経験したのではないかと推察される。四首目は父親が脳梗塞で入院した折りの歌で、五首目は作者が慕っていた叔母が逝去したときの歌である。しかしこのような瞬間においても、作者は悲嘆に溺れることがなく、また前を向いて歩くのである。
 中畑のこの陽性の感覚は、わが子である少年を詠むときさらに輝くようだ。
湯上がりの少年 初夏の帆の音をさせて大判バスタオル使う
眼の中に巣を持つ少年はたはたと羽音のごとき泪こぼせり
あしたまた遊べばいいと片付けた玩具は今日と同じで違う
その影の濃くて短き七月にゆんと伸びたる少年の丈
流さるるそうめんほどに儚くて子はこの永き夏を疲るる
 わが子を詠むときも作者は母親としての愛情に溺れずに、冷静に観察している。その点において凡百のわが子可愛い歌とは一線を画しているのである。
海色を包みて揺れる寒天の奥には別の夏景色あり
星ひとつ消ゆる朝にも牛乳はいつもの時間いつもの場所に
橋はただ橋を続ける 夕ぐれの深度を計る物差しとして
紅鱒のまなこに地上の秋映えてすぐに閉じたる紅鱒の秋
まだ青きトマトの皮をむくような衣替えする初夏の雨ふり
向日葵のつづく坂道あの夏は昭和の消しゴムでしか消せない
しんしんとゆめがうつつを越ゆるころしずかな叫びとして銀河あり
 付箋の付いた歌を拾ってみた。これらに中畑の修辞の特徴がよく出ているように思う。 一首目、「海を包みて」ではなく「海色を包みて」とした瞬間にもうこの歌は成立している。ここにも色彩と実体の乖離があるが、これは古くから用いられて来た修辞技法のひとつである。「夏景色」という言葉もよい。稲垣潤一に「大人の夏景色」という名曲があるが、どこかノスタルジーを感じさせる言葉である。
 二首目の眼目は、毎朝の牛乳配達という日常の時間と、星が白色矮星と化して一生を終えるという天文学的な時間の対比にある。下句の「いつもの時間いつもの場所に」はもちろん日常の肯定である。
 三首目はなかなかおもしろい歌である。橋が橋であり続けるのは当たり前のことであり、橋がある日突然怪獣になったりはしない。しかし作者はこの「自己同一性の永続原理」にふと感じるものがあったのだろう。また橋は日暮れてゆくにしたがって、その輪郭を失い暗闇の中に溶解するため、それが夕暮れを計る物差しとなると言っているのだが、橋の喩としてはとてもユニークである。
 四首目はなかなか技巧的な造りの歌である。秋に産卵のために川を遡上して死を迎えるベニマスを詠んだ歌で、「すぐに閉じたる」はベニマスの死を暗示している。生命のはかなさが主題だが、結句の「紅鱒の秋」にかかる連体修飾句の中にもうひとつ「紅鱒」が含まれているため、メビウスの帯のように同じ所にまた立ち戻ってくるような循環的な印象を与える。
 五首目はひとえに喩の新鮮さにかかっている歌で、まだ梅雨寒の残る初夏に衣替えする様を「まだ青きトマトの皮をむくような」という巧みな喩で示している。
 六首目、「向日葵のつづく坂道」は追憶の中に残る子供時代の風景で、そのリアルさは昭和の消しゴムでしか消せない、つまり、もう一度あの夏にタイムスリップして、あの時代を生き直さないかぎり消すことができないという意味だろう。
 七首目は意味の取りにくい歌だが、「しんしんと」はふつう雪の降る様を表す擬音だから雪の夜。「ゆめがうつつを越ゆるころ」は寝入って夢の世界にいる時だろう。眠って銀河の夢を見ているのか。「しずかな叫びとして」も暗示的で意味が定かではないが、比較的意味の明確な歌が多いなかで、不思議に印象に残る歌である。
 巻末近くに中畑は「わが歌は今どの町をゆくらむか鳥の切手を付けて発ちしが」という歌を配している。歌人としての覚悟の表明であろう。今後ますますの活躍が期待できる歌人である。