第403回 丸地卓也『フイルム』

解決と死で厚みゆくクロニクル相談記録に日付を記す

丸地卓也『フイルム』

 作者は医療機関で医療相談員をしている。患者と家族に対して、介護・障害や経済的困窮の相談にのり、社会保障制度や福祉サービスについての助言をする職業だという。一日の業務の終わりに日誌をつける。相談を受けたなかには解決した課題もあれば、患者の死によって終止符が打たれた課題もある。作者はそのどちらも記録するので、日誌は日々厚みを増す。その厚みは過ぎて行く日々の嵩でもあり、その重みは肩にずっしりとのしかかる。最近、職業詠を読むことが少なくなった気がするが、自分の仕事を正面から見据えた職業詠である。

 作者の丸地卓也は1988年生まれ。歌林の会に所属している。『フイルム』は昨年 (2024年) 上梓された第一歌集で、坂井修一・北山あさひ・寺井龍哉が栞文を寄せている。歌集題名の「フイルム」を含む歌は、「戦争と感染症をお決まりに加えてフィルムはまだ回りいる」という歌しかないので、この歌から採られたものと思われる。歌の中では「フィルム」のように「ィ」は小さいが、歌集題名では他の字と同じ大きさである。歌集題名では旧仮名のつもりなのかなとも思うが、真相はわからない。

 一読してやはり目に止まるのは医療相談員という職業に関わる歌だろう。

名を抜かれ症例になる患者おり故郷の海はわれしか知らず

ご遺族はカルテでは〈遺族〉泣きながら挨拶されたことも書かざり

ホスピスに移る前の死キャンセルの電話をいれてカルテを閉じる

病窓の灯り灯りにいのちあり冬の夜ことに明るく見える

結核の男のカルテに書かれいる家族関係図に名はひとつ

 一首目、入院患者は「山田さん」という名前ではなく、「5号室の肺癌」のように症例で医者に呼ばれることがあるのだろう。人格と個性は背景に後退し、病がその人の顔となることに作者は一抹の悲しみを感じている。そこに私だけは故郷の海を知っているという思いに重ねている。二首目、会話では「ご遺族」と呼ぶが、カルテには「遺族」と書く。亡くなった患者の家族から、「お世話になりました」という涙の挨拶を受けるのだ。三首目、終末期の患者は苦痛軽減のためホスピスに入るが、それも間に合わず患者は死亡する。ホスピスには予約キャンセルの電話を入れるのも仕事のひとつである。夜に外から病院を見ると、病室の窓に灯るひとつの灯りの下にひとつの命があることを作者は噛みしめている。五首目、カルテには連絡のために血縁者の氏名を書くが、結核を患う男性のカルテには名がひとつしかない。その名は老母のものだろうか、それとも子供のものだろうか。いずれも命に関わる職業の実相を伝える歌である。

 とはいえ作者は医療相談員という職業にのみ自分という存在を感じているわけではない。職業に還元されえない〈余剰〉が作者の〈私〉を支えているようだ。

一方の鞄の奥に潜ませる江戸川乱歩の怪人たちを

ふところに明りの苦手な歌の精しのばせ医療相談員われ

 そんな作者が日常の風景を眺める視線は、時にほろ苦く、時に文明批評の色彩を帯びる。その視線がなかなかおもしろい。

永遠に上がりつづける階段のだまし絵のなかの勤め人たち

なれ鮨にしてやりたいと獄卒は通勤電車に男を詰める

スキナーの鳩の幸福感が満ちメダルゲームに興じるおとこ

所得格差はジェンガのごとくして一番下のピースを抜くか

からだ中ひかる警備の男いて闇に溶けないこともかなしい

 一首目の騙し絵はエッシャーだろう。朝の駅で急ぎ足で階段を上る勤め人がまるで騙し絵の中の人のように見える。このように丸地の作歌法の基本は「見立て」である。見立てとは、ある物を何かになぞらえることを言う。これは江戸時代の浮世絵でも駆使された技法で、役者の顔を茄子になぞらえたり、幕府のお偉方を動物になぞらえたりする日本の伝統的表現法である。鍾乳洞の鍾乳石が地蔵菩薩や屏風に見立てられているように、日本は見立ての王国と言ってもよい。二首目では満員電車に乗客を押し込む駅員が獄卒に見立てられている。びっしりと詰め込まれた通勤客はまるで樽に詰められたなれ鮨のようだという。これもひとつの見立てである。三首目のスキナーはアメリカの行動主義の心理学者。スキナーの鳩の実験とは、ゲージに入れた鳩がどのような行動を取っても一定の時間に餌が出て来るようにしておく。するとやがて鳩はある特定の行動を取るようになるという実験である。鳩はその行動をすると餌がもらえると信じ込むらしい。かくのごとく私たちは根拠もなく、風が吹けば桶屋がもうかる式の因果関係を信じているというわけだ。四首目は社会に拡がる格差の歌。いつも犠牲になるのはジェンガの一番下にいる社会的弱者だ。五首目、夜間工事の警備員は安全のために光る電飾を付けた服を着ている。ふつうならば人間は闇に溶け込んで目立たなくなることができるのに、闇に輝く警備員はそれすらもできないことを作者は悲しんでいる。

人生に迷ったようなカナブンをよけて向えり早朝の駅

糸のなき凧が青さに飲まれゆくかくなる終わりにあこがれており

七割が再現部分の土器ありきその三割を縄文と呼ぶ

キャスター付回転椅子は上座にも下座にも動くいもたやすく

未開通のまま遺跡になるのだろ深草しげるバイパス道路

 一首目、カナブンが人生に迷っているように見えるのは、作者自身が人生に迷いを感じているからだ。二首目はストレートに脱出と消滅への憧れを詠んでいる。三首目、博物館に展示されている縄文土器の七割は再現された部分で、元の土器は三割しかないのにこれを縄文土器と呼ぶのかという歌。一滴でも源泉が混じっていれば、「源泉掛け流し」と称することができるのと似ている。四首目も皮肉が効いている。字面ではキャスター付きの椅子が移動しやいすことを詠みながら、その裏では会議で上座に座っている人にも下座に座っている人にもいい顔をするご都合主義を皮肉っているのだろう。五首目も見立ての歌で、用地買収が難行しているのか、何十年も塩漬けになっているバイパス工事はそのまま遺跡になるだろうという歌。

 ここで「見立て」の効用について考えてみよう。その一つは未知のものに既知のものを当てはめて理解するという認知的効果である。パンダの家族がいるとする。観客はお父さんパンダ、お母さんパンダ、子供パンダと呼ぶだろう。しかし、パンダの家族関係と人間の家族関係が同じである保証はない。人間の家族関係をパンダに投影することで、パンダの世界を理解しようとしているのだ。

 「見立て」にはもう一つ別の効用がある。それは対象と〈私〉を切り離す効果である。上に引いた「なれ鮨にしてやりたいと獄卒は通勤電車に男を詰める」という歌では、満員の通勤電車の乗客がなれ鮨に、乗客を詰め込む駅員が獄卒に見立てられている。見立てとは、〈私〉もそこに属している世界の一部を、突然別の世界にワープさせる知的操作である(この「世界」をフォコニエのメンタル・スペース理論では「スペース」と呼ぶ)。満員の通勤電車は、獄卒となれ鮨の世界へと転轍されることによって無害化される。本来は〈私〉も通勤電車の乗客の一人なのだが、見立ての効果によって満員電車の光景は〈私〉から切り離されるのである。丸地が見立てを多用するのにはこのような動機もあるのではないだろうか。

手のひらに蟻を歩かせ生命線途切れるあたりで吹き飛ばしたり

母に似た祖母が施設にはいる日よ菜の花ゆれてわれ少し老ゆ

流木の椅子に座りし君のいて話せばわれに届く波紋が

子の無くば地の果てに立つ心地せり背後に人類史を感じつつ

磨りガラス越しに過ぎゆく人の見ゆ気配と声をそれぞれこぼし

遠景の団地の灯りはまぼろしの家族のたましい手を伸ばしたり

うつし世の夢の蠟梅木製のベンチに微睡む老い人たちは

 特に心に残った歌を引いた。とてもよい歌だと思う。かと思えば「医療費の日割増額えぐられた地層を拡大鏡でみるわれ」のような現実そのままの歌もある。このような歌では言葉が詩の言葉になっていないと感じる。言葉を蒼穹の高みへと飛翔させるのは難しいとしても、地上から数ミリでも浮揚させないと詩の言葉にならない。現実を指示するという実用性からどのくらい離脱することができるかで詩の純度が決まる。そういう歌を読みたいと思うのである。