失った時間をチャージするためにサービスエリアがあるたび止まる
九螺ささら『ゆめのほとり鳥』
不思議な歌である。場面は高速道路。下句の「サービスエリアがあるたび止まる」はわかる。不思議なのは上句である。高速道路は早く目的地に着くために走るものだ。普通の道路を走ったら6時間かかるところを2時間で目的地に着いたら、4時間得をしたと考えるのがふつうだ。しかし作者は高速道路を走ると時間を失うと感じているのだ。
こういう風に考えてみるとわかるかもしれない。私たちの寿命が70年に決まっていると仮定してみよう。これは目的地までの距離に当たる。生き方に2コースあるとする。ふつうの時間で生きて課長まで昇進する生き方と、3倍のスピードで生きて取締役まで出世する生き方だ。後者は確かに到達する職階は上だが、速度を上げて生きたため実際には70年の3分の1、つまり23.33年しか生きていない。46.67年の時間を失っているのである。だから掲出歌ではサービスエリアがあるために止まって、そこで高速で移動したために失った時間を取り戻すと言っているのだ。逆転の発想でとてもおもしろい。
九螺ささらの名前は新聞の短歌投稿欄や穂村弘『短歌ください』などでたびたび目にしていた。ペンネームの名字を何と読むのか長い間謎だったが、このたび「くら」と読むことがわかり、積年のつかえが解消した感がある。プロフィールによれば、九螺は2009年頃から独学で短歌を作り始めたという。それからいくらも経たないうちに2010年に短歌研究新人賞の次席となっている。その年の新人賞受賞は「ロックン・エンド・ロール」の吉田竜宇と「死と放埒な君の目と」の山崎聡子。『ゆめのほとり鳥』は書肆侃侃房の新鋭短歌シリーズから刊行された第一歌集である。編集と表紙絵と解説は東直子。九螺は直前に『神様の住所』(朝日出版社)という歌文集も出版している。朝日新聞の書評欄で元東大教授の哲学者野矢茂樹がこの本を取り上げて書評していたので驚いた。ちなみに「神様の住所」は九螺が短歌研究新人賞次席を取った時に投稿した連作の題名である。
一読してすぐわかることだが九螺の短歌は誰の歌にも似ていない。きわめて独自な歌である。いくつか目についたものを引いてみよう。
(なんだろう、これは…)と呟きながら1号は自身の涙で錆びついていった
離陸したとたんはらぺこになったから空中にて鳥の肉を頼む
いまなにか消えた気がしたシューマイのグリーンピースのようななにかが
テロメアの長さがすなわち寿命らしお好み焼きにかつおぶし踊る
不要だと集められたる六千のピアノが奏でる〈乙女の祈り〉
一首目は「ロボット」の題詠に応募した作だという。その背景を知らなくても「1号」でロボットかサイボーグだとわかる。ロボットが流すはずのない涙で錆びてゆくという歌だ、涙には塩分が含まれているので確かに錆びやすいだろう。このロボットの躯体は鉄でできているようだから、ずいぶん旧式のロボットにちがいない。そんなレトロ感も漂う。
二首目、機内食の「Beef or chicken?」である。この歌のミソは「鶏肉」とせずに「鳥の肉」と書いた点。空を飛行中に同じく空を飛んでいる鳥の肉を食するところに、自身か猛禽類にでも化身したかのような不穏な感じがただよう。もっとも飛行機の巡航高度の1万メートル付近を実際に飛ぶ鳥はいないのだが。
三首目はとりわけおもしろい。「今何かが消えた気がする」ことは日常ままある。その些細な感覚をシューマイのグリーンピースに喩えたところが愉快だ。シューマイは好きだが上に乗っかっているグリーンピースが嫌いだという人は少なくない。そもそもなぜシューマイにグリーンピースが乗る必要があるのか理由がわからない。つまりこれは『ハムレット』におけるローゼンクランツとギルデンスターンのような存在の不条理を詠んだ歌なのだ。
四首目、現代生物学の教えるところによると、我々の寿命は細胞内の染色体の末端にあるテロメアによって決まるという。細胞分裂を繰り返すたびに、テロメアはバスの回数券のように1枚ずつ減ってゆくらしい。これが上句だが、下句は一転してお好み焼きにジャンプする。熱いお好み焼きに薄く削った鰹節をふると、鰹節は熱に煽られて踊り出す。それが生命の乱舞のようでもあり、またMemento Moriを忘れて踊る私たちのようでもある。
五首目、子供が幼い時にピアノを習わせようとピアノを買う親は多い。しかしたいていの子供は単調な練習を嫌って途中でやめてしまう。こめために大量の不要ピアノが生まれる。六千台ものピアノが一斉に「乙女の祈り」を奏でる光景は壮観だが、それは無理矢理好きでもないピアノを習わせられた少女の怨嗟の声のようにも、また不要品として回収されたピアノの嘆きのようにも聞こえる。
このように九螺の短歌は、時にSF的であり時にファンタジー/メルヘン的でもある。短歌というよりショート・ショートを読んでいる気分になる。その特徴は「奇想」と徹底した〈私〉の不在であると言ってよい。上に引いたシューマイのグリーンピースの歌に見られるように、九螺の短歌は哲学的で、なかんずく存在論的である。九螺自身も短歌は哲学や理性と相性が良いといい、また『神様の住所』のあとがきでは自身に形而上的世界を愛する「宇宙酔い」の持病があったと述べている。
大江戸線のエスカレーター上がってくこの世の時間を巻き戻しなかがら
右手用ミトンだけが三つもありこの部屋はバランスがいびつ
鳥避けのCD揺れる銀河色 四億年前の記憶のごとく
時空からしたたった泡我というかりんとう好きの有機体である
一首目、一番最近に作られた大江戸線は他の路線を避けるために東京の最深部を通っている。このためホームまで行くエスカレーターがとても長い。この歌にも掲出歌と同じく空間的移動から時間への経過の転写がある。地下深いホームから地上に上がるのはまるで時間を巻き戻しているかのようだというのである。
二首目、ミトンは鍋つかみのこと。確かにミトンはどこかに行きやすい。片方失くして新しいのを買ううちに、右手用が3つもある。この事態を「世界の歪み」と捉えているのだ。
三首目、民家の軒先や畑に鳥よけのCDが吊られている光景はよく目にする。キラキラと光るのが鳥よけに効果があると考えられているのだろう。ふつうそのきらめきは「虹色」と表現するが、ここでは「銀河色」と表現されることで、一気に宇宙的スケールへと広がる。
四首目は自分を「時空からしたたった泡」と観じる存在論的な歌である。動的平衡を提唱する青山学院大学教授の生物学者福岡伸一は、私たち有機生命体はつまるところ「タンパク質の一時的な淀み」でしかないと喝破した。それを思わせる歌だ。
誰でも子供の頃に、「地球は46億年前に生まれた」とか、「宇宙は無限で果てがない」とか、「ビッグバンで宇宙が誕生する前は無であった」などという途方もない話を聞かされると、一瞬頭がぼうっとなって思考が中止する体験があるにちがいない。太陽系は銀河系という島宇宙の片隅にあり、銀河系と同じような島宇宙が無数にあって、さらに…と考えるだけで子供心に恐怖を覚えた人もいるだろう。しかし人は大人になるにつれて感性を日常的スケールに刈り込んで行き、宇宙のことは頭から閉め出してしまう。九螺はおそらく誰もが子供時代に経験したことのある存在論的懐疑を失わずに持ち続けている人なのだろう。
あえて短歌の世界に先蹤を求めるとすれば、香川ヒサの名が頭に浮かぶ。香川の短歌もしばしば哲学的でまたときに宇宙論的である。
角砂糖ガラスの壜に詰めゆくにいかに詰めても隙間が残る
もう一人そこにはをりき永遠に記念写真に見えぬ写真屋
棒切れをくはへて戻り尾を振りて犬として犬を在る犬がある
ビッグバンの残光およぶ地上にて小麦畑に播かれゐる種
しかし香川の歌がどちらかと言えば知性と機知による世界の再構成という趣きがあるのに対して、九螺の短歌は存在論的懐疑が体質として体の奥にまで染み込んでいる感じがある。
「世界観が世界を造っているのです、世界が世界観を、ではなくて」
神経の集合が脳であるように存在は時空間の貯水池
「この現実」は実験室の水槽の一つの脳が見つづけている夢
上に引いた歌ようなは短歌的昇華が不十分で、あまりに生な表現になっているように思う。「世界が世界観を作っているのではなく、世界観が世界を作っている」というのは実にその通りなのだが、そのまんまを歌にするとストレートすぎる。また中国にもこの世界は「クワン」という巨大な魚が見ている夢だという伝承があったり、有名な荘子の胡蝶の夢の逸話もあるので、私たちが現実だと信じているものは実は誰かの夢だというのはそう目新しいものではない。照屋真理子の短歌や俳句でも現実と夢の位相の逆転はずっと大きなテーマとなっている。
公園は散歩のためにある幻公園を出ると散歩が消える
横書きの樅の木を縦書きにすると樅の木はやがて縦の木になる
どれもおもしろい歌で、特に二首目のように漢字を部首に分解する歌は九螺の好みのようだ。『神様の住所』にも「目と耳と口失ひし王様が『聖』といふ字になった物語」という歌がある。しかし惜しむらくは九螺の歌のように奇想を中心に据えると、どうしても意味中心の歌になり、短歌に必要な調べが犠牲になる。そこにいささかの不満が残る。
しかし奇想と調べがバランスよく配合されると、次のような美しい歌となる。結句をもう少し工夫すれば定型に収まるだろう。
ひとすじに飛び込み台から落ちてゆく人の形をした午後の時間
『神様の住所』を読むとこのような発想がどういう経路で出て来るのかがよくわかる。まだまだ暑さの去らない短夜の読書としてお奨めしておこう。
【追記】
九螺ささらさんの『神様の住所』がこのたび第28回BUNKAMURAドゥマゴ文学賞を受賞されました。選考委員は写真家・文筆家の大竹昭子氏。受賞おめでとうございます。(2018年9月4日追記)