火をつけるときのかすかなためらひを共犯のやうに知るチャッカマン
千葉優作『あるはなく』
ふつうは歌集巻末に置かれているプロフィールがないのでよくわからないのだが、千葉は塔短歌会所属の歌人で、北海道の北部に住んでいるらしい。『あるはなく』
は昨年(2022年)の暮れに刊行された第一歌集。版元は青磁社で、江戸雪・大塚亜希・大森千里が栞文を寄せている。歌集題名は「あるはなくなきは数添ふ世の中にあはれいづれの日まで嘆かむ」という人の世の儚さを詠んだ小野小町の歌から取られている。各章の冒頭にも式子内親王や藤原良経の和歌が引用されており、古典和歌の世界に惹かれているようだ。そのせいもあってか文語(古語)・旧仮名遣いが基本で、ときどき口語短歌が混じるという文体である。
「用意」から「ドン!」のあひだの永遠を生まれなかつたいのちがはしる
章分けとは別立てで巻頭に一首だけ置かれている歌である。本歌集を象徴する一首と作者が見なしている歌だろう。運動会の徒競走の場面である。「位置に付いて」に続き「用意」のかけ声からひと呼吸置いて「ドン!」となる。そのわずかな間に着目する感性は掲出歌のチャッカマンと同質である。現実に運動場を走るのは生まれた命たちである。しかし作者はその陰に生まれなかった命があることを感じ、走らせてあげたいと希求する。かくして生まれなかった彼ら・彼女らが眼前に繰り広げるのは非在の運動会である。千葉はこのように、存在と非在とが織り成す綾の揺らめきとたゆたいに心惹かれているように思われる。それは次のような歌に特に感じられる。
みづたまりだつた窪みのあらはれて路上に消えてあるみづたまり
営業をやめてしまつたコンビニがさらすコンビニ風の外観
半円にすこし足りない虹かかりこの世にはない残りの円弧
靴紐を解けばそこにゐたはずのまぼろしの蝶二度とかへらず
失くしたと気付かなければえいゑんに失くしたものになれないはさみ
一首目、道路にできた水溜まりが乾いて水がなくなり、ただの窪みになっている。もう水溜まりとは呼べないのだが、それはかつて水溜まりだった記憶の中で水溜まりであり続ける。二首目、コンビニは閉店しても外観がそのままなので、まるでコンビニであるかのようなものとして残る。三首目、存在しているのは見えている半円の虹だ。しかし空を飛ぶ飛行機から見ればわかるが、虹は実は円形である。だから残りの半分もどこかにあるはずなのだが、それは非在の虹に留まる。四首目、靴紐を蝶々結びにするとそこに蝶が現れるが、靴紐を解くとそこにはもういない。さて蝶はほんとうにいたのかいなかったのか。まるで禅問答である。五首目、「あれ、はさみはどこにいった?」と気づいて初めてはさみは「なくしたもの」になれる。気づかなければはさみは永遠に「なくしたもの」になれない。ではそのときはさみは一体何なのだろうか。優れて存在論的な問いかけと言えよう。
このような存在と非在をめぐる作者の発想はとても個性的で、歌に他には見られない独自の色合いを与えている。さてその発想の由来はというと、「Trancendental Etudes — 超絶技巧練習曲集」と題された連作に文章が添えてあり、その中で千葉は24歳のときに塚本邦雄の短歌に出会い衝撃を受けたことを告白している。おそらく千葉は『非在の鴫』という著作もある塚本から、存在と非在の綾なす陰影の深さを学んだのだろう。塚本が「もともと短歌という定型短詩に幻を見る以外の何の使命があろう」と喝破したことはよく知られている。千葉の傾倒ぶりは次のような塚本短歌の本歌取りを作ってオマージュを捧げているほどだ。いくつか拾って本歌と並べて示す。
火夫、戦艦とともに沈んで水底に北を指しつづける羅針盤
(本歌 海底に夜ごとしづかに溶けゐつつあらむ。航空母艦も火夫も)
みづからのこゑを絶たれし青年が月夜にかき鳴らすエレキ・ギター
(本歌 電流を絶たれ、はじめてみづからの聲なき唄うたふ電氣ギター)
そのひとをピアノに変へてしまひたり霜月の夜のはるけき火事が
(本歌 ほほゑみに肖てはるかなれ霜月の火事のなかなるピアノ一臺)
ひつたりと冷奴あり、かつてかく陸に上がりしわれらの祖先
(本歌 突然に生卵割れ、かつてかく撃ちぬかれたる兵士の眼)
千葉の歌の個性を表すものに夕暮れへの偏愛がある。千葉が一日のうちで最も好むのは夕暮れであり、夕暮れを詠んだ歌が多くある。
ずつとゆうひをながめてゐたい ほんたうに行きたいところには行けないし
あなたの声がすつかり秋だ 言の葉のしづかに燃えるゆふぐれが来る
ゆふぐれを持つわたくしにゆふぐれは鏡のごとく待たれてゐたり
われに花、言葉に雪の降る五月かなしみは火のごときゆふぐれ
かく言う私も、コーヒーより紅茶を、犬より猫を、長調より短調を、朝日より夕日を愛好するメランコリー親和気質なのでこれはよくわかる。やがてはすべてを夜の闇に呑み込もうとする滅びの時刻には、どこか人の心を慰撫するものがある。
読んでいて特におもしろく感じたのは厨歌である。千葉は独身らしく自ら台所に立って料理をするようで、食材と飲食を詠んだ歌におもしろいものが多い。
たまねぎを二つに切れば今まさに芽吹かんとせし芽のみどり色
手遅れの傷をわたしに向けながらキャベツ半玉売られてゐたり
冷蔵庫のなかを覗けばああこれはをととひ歌にした絹豆腐
かなしみのこころに深く潮満ちてかすかに砂を吐く二枚貝
八月の朝、行平鍋に透きとほる白菜がとほき羽化を思へり
ただ食材を歌にしたのではなく、そこに自分の心持ちが投影されており、叙景と抒情とをこき混ぜたものとなっている。厨に立つ作者の心持ちの主旋律は、命のはかなさの哀しみである。
あやまちを犯す予感にひえびえと工具売り場のバールはねむる
鯖缶のぶつ切りの鯖 この鯖の身体が別の鯖缶にもある
雲はるか異界へつづくゆふぐれをかがやきながら鳥わたりゆく
あをぞらの深みへ落ちてかへらざる鳥のこゑのみゆうぞらに降る
夕焼けに奪はれしわが二つの眼この世のほかの世に燃えゐむ
またの世へかへりゆくべしにはたづみへと降りしずむやよひの雪も
歌集後半から特に心惹かれた歌を引いた。一首目のバールの歌は、まだ起きていない未生の犯罪を幻視した歌でとりわけおもしろく独自のものがある。しかしながら千葉の視点は存在と非在から少しずつこの世と他の世へと移りつつあるようにも感じられる。そのせいか歌に深みと凄みが増している。古典和歌の言葉遣いが随所に見られるのもこのような印象を与えることに預かっているのかもしれない。充実の第一歌集である。