第386回 古志香『バンクシア』

ほどかれたき一対と見る洗ふたび片はう水に沈みゆく箸

古志香『バンクシア』

 これは厨歌と呼ばれる歌の一種である。食事が終わり、皿やお椀や箸を洗い桶に漬けて洗う。すると水に漬けた一膳の箸の片方だけが底に沈む。箸の微妙な重さのちがいか、塗りのむらによるものか。しかも洗う度毎に同じことが起きる。描かれた現象はここまでであり、それ自体は何ということもない日常の些事である。しかし作者はそこから一歩踏み込んで、現象に意味を読み取る。一対の箸はお互いに別れたいと思っているというのだ。だから片方だけ水に沈むのである。これはもはや意味を読み取っているのではなく、意味を読み込んでいると言うべきだろう。なぜそんなことをするのか。それは作者の心内に押さえがたい感情が鬱積しているからだ。だからこれは万葉集にまでさかのぼる寄物陳思の歌であり、単なる叙景歌ではないのである。

 古志香は1957年生まれの歌人。歌林の会に所属し、第一歌集『光へ靡く』(2014年)がある。『バンクシア』は2024年刊行の第二歌集である。島田修三、小島ゆかり、奥田亡羊が栞文を寄せている。歌集題名のバンクシアとは、オーストラリア原産の植物の名だという。養分の少ない荒れ地にも生え、硬い殻に包まれた種子は主に山火事によって爆ぜて散種するという。集中の「バンクシアの花言葉『心地よい孤独』やせこけた地によく育つとふ」から採られた題名だが、ここにも作者の自己が投影されていることは言うまでもない。自らの生きる環境を「やせこけた土地」と認識しており、自分は心地よい孤独を愛しているのである。

 まったく未知の歌人である古志の歌集に注目したのは、短歌定型を操る並々ならぬ手練れの業に瞠目したからである。

抵抗がふはりと緩む瞬間にわれに返りぬ葛あん練れば

風に荒れ青きはまれる空のした硝子板積むトラックに遭ふ

ひとの願ひかくつつましくありし世を思ひ出させて「魔法瓶」あり

さざなみは仰向けの蟬揺らしをりエアコンホーズの生む水たまり

 一首目、火にかけた葛あんを力を込めて練っている場面である。しばらく練らなくてはならないので、途中で意識が散漫になり何か別のことを考えている。すると突然葛あんの抵抗が緩んではっと我に返る。その瞬間を捉えている。二首目、風の強い冬空だろう。一点の曇りもない青空の下、荷台にガラス板を積んだトラックが走っている。おそらくガラス板にも青空が映っているだろう。ボオドレエルは「巴里の憂愁」に板硝子を運ぶ職人を描いたが、この歌は憂愁の影もなく明るい。三首目は昭和レトロを思わせる魔法瓶である。その昔、どの家庭にも花柄の魔法瓶があった。初めの頃は持ち上げて注ぎ口から熱湯を注いだが、そのうち上部の大きなボタンのようなものを押すとポンプで汲み上げる仕組みに変わった。「わざわざ沸かさずともいつでも熱い湯があればなあ」という人の願いが結実したものだということに作者は思いを馳せている。四首目、夏の終わりに仰向けになって死んでいる蟬を詠んだ歌はたくさんある。この歌ではエアコンのホースから出た水が作る水溜まりの漣を配しているところに工夫がある。

 いずれも短歌定型の骨法を知悉した隙のない造りの歌で、よく言う「動く」語句がない。それに加えて古志の歌風の特徴は、最後まで全部を述べていて、何かをわざと省いたりぼかしたりして余韻を残すということがない点にある。これは美点であると同時に弱点にもなりうることでもあるだろう。

 なぜ美点なのかは説明するまでもなかろうが、全部を述べることによって、歌の意味の曖昧さや複数の解釈の可能性を排除することになり、作者が意図した形で歌を読者に手渡すことができるからである。歌の解釈が分かれる有名な例は寺山修司の次の歌だろう。

海を知らぬ少女の前に麦藁帽のわれは両手をひろげていたり

 解釈が分かれるのは、歌中の「われ」がなぜ両手を広げているかである。ひとつの解釈は「海はこんなに大きいんだよ」と海の広さを両手で表現しているというもので、もうひとつの解釈は少女が自分から離れて海へ行こうとしているのを通せんぼして阻止しようとしているというものである。この歌には両手を広げた目的が書かれていないため、このように複数の解釈が生じる。5W1HのうちのWhy?がないのである。

 逆に一首の中で全部を述べることが弱点になりうる理由はいくつか考えられる。まず、あまりにきっちりと全部を述べると、読み手から読みの自由を奪うということがある。読み手は一首の中に残された空白に想像の触手を伸ばしてあれこれ考えるのだが、全部述べられているとその余地がなくなってしまう。

猫に降る雪がやんだら帰ろうか 肌色うすい手を握りあう 笹井宏之

 笹井の歌では誰が誰に向かって「帰ろうか」と言っているのかわからない。また肌色の薄い手を握り合うのも誰なのか不明である。読み手に手渡された材料が少ないと、読み手は言葉の向こう側にいろいろなものを見ようとする。

 また5W1Hのいくつかを欠落させることによって、日常の言語を詩の言語へと浮揚させることもある。

落としたら一度洗って陽に干して もとのかたちにもどれなくても  東直子

 東の歌では、落としたら陽に干すように言われているのが何なのかが明かされていない。意味を限定しない言葉はいろいろなものに適用できる。意味の限定と適用範囲は反比例の関係にあるからである。陽に干すのはTシャツかもしれないが、ひょっとしたら人生の目標かもしれない。意味解釈に必要なパラメータを隠すことによって言葉が実用性の束縛を解かれて詩として羽ばたくこともあるのだ。

 栞文を寄せた歌人たちは一様に、古志の歌には静かな悲哀や孤独の影があると指摘している。一方、『ノートルダムの椅子』の歌人にして近代日本文学の研究者である日置俊次は、古志の短歌を特徴づけるのは「怒り」であるブログに書いている。確かにそのようなことを思わせる歌はある。

「女にはロレンスはわからない」上書きのできぬ記憶に柳瀬尚紀は

麻婆豆腐の痺れのうちにわが見たる潰れきれない花椒ホアジァオの粒

とうめいな纏足われに施した母の無自覚 われは苦しむ

弟はためらはずまた疑わずわが看し母の喪主となること

弟は「さん」づけわれは呼び捨ての母の日記に動悸はじまる

われに沁む枕詞の「いゆししの」、「むらぎもの」より「玉かぎる」より

 一首目には「大学一年、必修英語の若き教師は柳瀬尚紀だった」という詞書きがある。柳瀬はジョイスの『ユリシーズ』の翻訳で知られる英文学者である。その柳瀬にしての暴言は、作者の心の深くにずっとわだかまっている。二首目の麻婆豆腐に残る花椒の粒はもちろん周囲に違和感を感じている自分の自画像だ。日置の言う怒りが見えるのはとりわけ歌集後半の母親の死をめぐる歌群においてである。三首目は母親が目に見えない拘束を作者に課したこと、またそれに無自覚だったことを詠んでいる。四首目や五首目にあるように、母親は作者の弟を可愛がったのだ。作者は母親と同居して最後を看取ったにもかかわらず、弟は自分が喪主となることを疑わない。そんな作者が好む枕詞は「いゆししの」だという。「いゆししの」は矢で射られた獣の意味から、「心を痛み」「行き死ぬ」にかかる。心が痛んでいるのである。

 とはいえ本歌集を象徴するのが「怒り」であるとまでは言えないだろう。むしろ古志の真骨頂は次のような歌にあると思われる。

しづかにしづかにパトカーは来てアパートの孤独死が処理された秋の日

分かされにうち捨てられし花の束朽ち果てる前つよく香れる

春の雪はるかにひるを流れゆきひんやり光る避雷針見ゆ

主役の花捨てられしのち残りたる白きかすみ草瓶をあふれて

サフラン色のゆふぐれは来て思ふかな土耳古の中のしづかなる耳

パンタグラフの影地を走るその迅さ追ひたり電車の窓にもたれて

映すこと課されドローンは飛び上がりまづ捉ふおのが地に落ちし影

 一首目は巻頭歌である。この歌を巻頭に置くからには、作者には意図があるにちがいない。マンションではなくアパートである。二階建てで外階段があるアパートだろう。独居老人の孤独死は事件にもならずそっと処理されるという現実を冷静に見ている。二首目、道端に捨てられた花束は後は朽ち果てるしかないのだが、最後に強く香るというところに作者の思いがある。三首目は逆に思いのない叙景歌である。春の雪が流れるというから風花だろう。ポイントは「ひんやり」だ。四首目も二首目と同工の歌。かすみ草は主役になれない脇役の花だが、脇役に注ぐ目が温かく、少しは自己を投影しているのだろう。五首目は機知の歌。トルコを漢字で書くと土耳古となり、三文字のまん中に「耳」という漢字がある。五首目、電車の車窓からパンタグラフの影を見ているが、その走る速さは電車の速度と同じはずだ。六首目もおもしろい。ドローンで何かを撮影すべく飛び立たせるのだが、ドローンがまず映したのは自分の影だという歌。実体ではなくその影に着目するところにもまた作者の心の傾きが見てとれる。

 とりわけ印象に残ったのは次の歌である。

枯れつくす野に現はれし蛇口ありわが意味づけを拒みて光る

 いかに写実に徹した叙景といえども、その景を選んだところに何らかの心情は投影される。短歌を作る際に重要なのは景と情のバランスと、情から景への距離感である。ある時は情に傾き、またある時は景に傾く。情から景への距離感も近くなったり遠くなったりする。それは自然なことであり、それが多様な歌を生む。古志の歌の中にも自己が投影され、事物に意味を読み込んだものが多くあるが、上に引いた歌では枯れ野に突如出現した蛇口が一切の意味づけを拒んで鈍く光っているところがおもしろい。