第77回 古東哲明『瞬間を生きる哲学』

森(現実)は見えない。見えているのは木々である。落葉であり、小道であり、木漏れ日である。つまり存在者(もの)である。小道を辿って森の奥へわけ入ったとしても、事情はかわらない。視界が、また別の木々にとって代わるだけのことだ。つまり、森(現実)はつねに逃げていく。
              古東哲明『瞬間を生きる哲学 〈今ここ〉に佇む技法』 
 このコラムは現代短歌のコラムのはずなのに、最近は短歌に関係のない本ばかり取り上げるとお叱りを受けそうだが、今回は短歌に深く関わる話題なのでご勘弁いただきたい。古東哲明の『瞬間を生きる哲学 〈今ここ〉に佇む技法』(筑摩選書)である。
 古東は1950年生まれの哲学者で、広島大学総合科学研究科教授。京都大学文学部の哲学科出身なので、私と同じ時代に同じ所で学んでいたことになる。ひょっとしたらキャンパスですれ違っていたかもしれない。生年から計算すると、大学受験が1969年になる。この年は大学紛争がピークを迎えて、東大の入試が中止された年だ。そういう時代の空気を肺一杯に呼吸した人であることが、本書に濃厚に反映されている。
 古東が本書で企てたのは哲学の永遠の課題である時間論で、その核心は〈瞬間〉を巡る考察である。なかんずくなぜ〈瞬間〉は私たちの手から逃げ去るのかという問題である。私たちは過去・現在・未来という時間の3分法に慣らされており、過去から未来に向かって一直線に流れる線的な時間概念を装填されている。しかし、この線的時間は主題化され概念化された時間イメージにすぎず、ほんとうに生きられた時間ではない。トルストイも言うように、あるのはただ「無限に小さい現在だけ」である。私たちが過去と呼ぶものは(現在の)記憶にすぎず、未来は獏たる(現在の)予測にすぎない。親密さとざらざらとした手触りをその属性とする私たちの生において、私たちに与えられているのは今この〈瞬間〉(=全き現在) だけである。手を伸ばしてリアルに触れることができるのはこの〈瞬間〉しかない。森を歩いていて風が頬をかすめる瞬間、街で美しい女性とすれ違った瞬間、アイデアが閃いて問題が解けた瞬間である。そのとき私たちは濃厚な生のリアリティーを実感し、現実と融即状態になる。生にじかに手を触れた感覚のことである。
 だが私たちは〈瞬間〉を生きていない。その理由は3つある。まず社会化された存在としての私たちは、今のためではなく明日のために生きているからだ。たとえば私は今何をしているか。この原稿を愛用のMacBookで書いている。それは週明けに橄欖追放を更新しなくてはならないからである。私は二日後のために現在を生きている。これは現在の忘失に他ならない。遊んでいる子供に「宿題をしなさい」と叱る親は、今ではなく未来のために生きることを強いているのだ。
 次に〈瞬間〉はその属性からして不断に過去化され、生きられたとたんにセピア色の過去の色彩を帯びる。〈瞬間〉とは未然が既然へと変貌するポイントである。水道の蛇口から水が出るところをイメージしてみよう。スローモーションで撮影すると、蛇口から出る水流の尖端が見えるはずだ。尖端は水と空気の境界を成している。さて、この境界は水に属するか、それとも空気に属するか。境界は水と空気が接している面だから、いずれにも属さない。同様に現在の〈瞬間〉は過去にも未来にも属さない時間軸上の特異点だ。つまり現在とは、未来が過去へと流れ込む滝の落ち口のようなものであって、本来幅を持たないのである。これが現在の捉え難さの第2の理由である。
 古東が最も力を入れて論じているのは、私たちに〈瞬間〉を捉えることを困難にしている第3の理由、現在の存在論的忘失構造である。これを理解するためには、逆に現在の瞬間を生々しく生きている状態を考えてみるのがよい。時間を忘れて遊びに没頭している子供は現在を生きている。終電に乗り遅れるほどに恋人との逢瀬に夢中になっている時もそうだ。上質のミステリー小説を頁をめくるのももどかしく読んでいる時もまた、現在を生きていると言えるだろう。いずれも無我夢中、忘我の境地である。
 このとき何が起きているか考えてみよう。目の前の遊び、顔を触れ合わせている恋人、ミステリーの筋だけが私の意識を占め、世界 (=現実)はすっぽりと抜け落ちている。焦点化された存在 (=遊び、恋人、ミステリー)だけが私の意識を塗り上げ、残余は意識の外へと外部化される。では焦点化された存在、例えば恋人が私の意識によって対象化されているかというと、そうではない。恋人は私と顔を触れ合わせているのであり、対象化に必要な距離というものが存在しない。私と恋人は混然合一の忘我の至福に酔い痴れているのである。生きていることも(=私という意識)、生きられていることも(世界=現実)、すっぽりと抜け落ちてしまっている。古東は次のように言う。
現実の脱去(隠蔽)こそ、現実の生起(現出)の積極的な前提をなすというべきだろう。つまり、見失われることを代償にしてはじめて、現実は生き生きと起動できる。あるいは、対象像となることを拒絶され、けっして顕現的な視界には登場できない〈現出の失策〉こそが唯一、現実が〈現出する〉仕方だということになる。現実生起(現出・了解)と現実脱去(隠蔽・忘失)とは、たがいに切断不可能な同時錯合現象。その現われが同時に闇である夜のように。
 また古東の引用するブロッホは次のように言う。
生きて在るという事実は、まさに生きている事実ゆえに感じられない。(…)直接的に存在するものとして、〈いま〉は瞬間の闇のなかにある。存在の事実性と〈いま〉ぼくたちがそのなかにある瞬間とは、知覚されない。
  つまり〈今ここ〉という現実は、露顕しないことがその唯一の現れ方だという逆説的な存在論的構造を有しているのである。〈今ここ〉は知覚されず、それを十全に味わいたければ我を忘れてそれを生きるしかない。
 では私たちは、主題化され対象化された〈今ここ〉に出会うことは決してできないのだろうか。古東はそんなことはないと言う。対象化された〈今ここ〉の現出こそが芸術の目的であり、私たちが芸術に喜びを感じる理由もまたそこにあるというのだ。本書の後半はプルーストの『失われた時間を求めて』や詩歌文芸を縦横に渉猟してそのことを論じているのだが、ここで古東の本を離れて短歌のことを考えてみよう。
 極めてリアルに対象を描写した絵画を見て、私たちはよく「まるで本物みたい」という。18世紀フランドル画派の静物画には、まるで本物のように瑞々しいブドウやレモンが描かれている。ではそのような絵画を見て私たちはどうして美しいと感じるのだろうか。「本物みたい」ならば、本物の現実を見ればよいではないか。なぜ現実にではなく、現実をリアルに描いた絵画に美を見いだすのだろう。
 それはリアルな写実絵画が、現実には決して捉えることのできない〈今ここ〉を画布に定着しているからである。私たちは美術館で絵画の前に立つとき、画布の隅々まで時間をかけて舐めるように味わうことができる。その間、画布の絵はどこにも行かずに留まっていてくれる。私は不可能なはずの対象化された瞬間の現出に立ち会っているのである。
 いや、それはおかしいと思う人がいるかもしれない。動く対象ならいざ知らず、ブドウやレモンのように動かない静物ならば、現実においても私たちは時間をかけてそれを見ることができるではないかという反論が予想される。しかしそれはまちがっている。
 アイカメラを使って実験すればすぐわかるが、私たちは視線をごく短時間しか固定しておくことができず、視線は絶えず視野の中を移動している。目を支える頭も常にぐらぐらしている。また時間とともに周囲の明るさも変化し、私たちの集中力も低下する。だから私たちは静止した現実のあらゆる細部を均等に時間をかけて見ることができない。
 写実絵画の画布に定着されているのは、単に静止した現実ではない。それは画家の〈視線込み〉の現実である。画家の〈今ここ〉という瞬間に見えている現実の姿を、画家の視線を塗り込めた形で描いているのである。私たちが現実をリアルに描いた絵画に美を感じるのは、決して露顕しないはずの〈今ここ〉が、画家の手によって対象化され主題化された姿で顕現していることに感動するからである。だから描かれているのはほんとうはブドウやレモンではない。〈今ここ〉である。その美しさと豊饒さに触れて私たちは感動するのだ。
 同じことが短歌や俳句のような短詩型文学にも言える。
曼珠沙華一むら燃えて秋陽つよしそこ過ぎてゐるしづかなる径
                        木下利玄
水の音つねにきこゆる小卓に恍惚として乾酪チーズ黴びたり
                        葛原妙子
夜と昼のあはひ杳かに照らしつつひるがほの上に月はありたり
                        河野裕子
家ひとつ取り毀されて夕べにはちひさき土地に春雨くだる
                        小池光
ゆるやかに死にゆくものと卵もつものありて明るき朝の水槽
                        横山未来子
 例えば木下の短歌はほぼ100%写実である。曼珠沙華が咲く秋の田園風景のなかに道が一本通っている様を描写したもので、どこにでもある風景にすぎない。しかしその風景が適切な措辞によって短歌定型の中に定着されたとき、作者の〈今ここ〉が生々しく現出する。この短歌を読む読者の私は、現実の生においては決して手を触れることのない、対象化された〈今ここ〉の露顕に立ち会うのである。
 本来ならば瞬間の闇に沈んでいる〈今ここ〉に直接手を触れることは、〈永遠〉に手を触れるのと同じである。なぜならば〈今ここ〉は、露顕されることなき開示という存在様式で一瞬一瞬の内部に存在しており、その存在様式は今も、100年後も、1万年後も同様である。写真や絵画について、「一瞬の光景を永遠に定着した」と言うことがあるが、より正確には、一瞬を定着したからこそ永遠に触れたと言うべきである。これは有限な生とともにこの世に放り出された私たちにとって、死に対する部分的勝利である。
 古東の本書は、短歌を読んでなぜ大きな喜びを感じるのかという私が前々から抱いていた疑問に、このような形で間接的に答を与えてくれるようだ。