第388回 堀静香『みじかい曲』

停車中の電車は少し傾いていまここにあるだけの奥行き

堀静香『みじかい曲』

 以前から不思議に思っているのだが、歌集を読んでいて、すっと心に入って来る時と、なかなか入って来ない時がある。どうやら読んでいるこちらの体調や気持ちの浮き沈みが微妙に影響しているらしい。体調がいい時にすっと入って来るかというと、どうもそういう訳でもないようだ。多少疲れてぼんやりしているときに短歌が心に沁みることもある。歌と心の距離の遠さ近さには一筋縄ではいかない複雑な面があるらしい。

 今回取り上げる堀の『みじかい曲』は、少し疲れている時に読んだのだが、その時に私を捉えた感覚を言葉にするならば、それは多幸感と呼ぶしかない。喩えるならば、寒い部屋で電気毛布にくるまっているような、暗い道で遠くに灯りを見つけたような、目覚めに暖かいチキンスープを一口飲んだような、とでも言えばいいだろうか。

 掲出歌で作中の〈私〉は電車に乗っている。電車は信号か駅で停車していて、地面に傾斜があるせいか、車体が少し傾いている。〈私〉は車内を見まわして、自分が乗っている車両の奥行きを確認している。それは「いまここにあるだけ」の奥行きだという。考えてみるまでもなく当たり前のことである。車両の奥行きが日によって変化することはないので、奥行はいつも一定だ。しかし〈私〉がそれを「いまここにあるだけ」と改めて確認することによって、歌に詠まれた情景に繰り返しのきかない「一回性」が生まれる。〈私〉はいまここに在る自分が一回きりの存在だと自覚する。すると見慣れたはずの風景もふだんとは違った色を帯びるのである。

 堀静香は1989年生まれで、「かばん」所属。第11回現代短歌社賞で佳作に選ばれており、本歌集で第50回現代歌人集会賞を受賞している。短歌の他にエッセーも手がけていて、『がっこうはじごく』『せいいっぱいの悪口』などの著書がある。『みじかい曲』

は2024年に刊行された著者の第一歌集で、服部真里子、堂園昌彦、大森静佳の三人が栞文を寄せている。装丁は花山周子で、表紙の絵はドーナツだろうか。版型やタイトルから、歌集と言うよりハヤカワ・ミステリの一冊のような趣がある。

どこに生きても雨には濡れるよろこびを言えば静かに頷いている

なんてことない一度きりの夕焼けの町にあなたを差し出している

その人を好きだったって横顔できみがきちんと包む春巻き

そこからは何も見えない踊り場でただとどまって色うつす空

あの日着ていたなんてことないTシャツがこの夕映えに照り返されて

 歌集の冒頭あたりからランダムに引いた。詠まれているのは日常のどうということのない出来事や情景で、大仰な言葉や表現やおどろおどろしい漢字は使われていない。そのためルビもほとんどない。特筆すべきなのは喩もほぼ皆無なことである。パラバラとめくると、「パラフィン紙みたいなうすい満月が高圧線の向こうに覗く」という歌に直喩があるくらいだ。喩は短歌にとって重要な修辞技法である。その喩をほぼ封印して短歌を作る作者は何をめざしているのか。

 一首目、どこで生きていても雨が降れば濡れる。それを喜びだという。静かに頷くのは恋人か伴侶だろう。二首目に詠まれているのは何ということのない夕焼けだ。その夕焼けは一度きりだという。ここにも強く生の一回性への想いが感じられる。三首目、相手が元カノの話をしているのだろうか。話しながらも春巻きをきちんと包んでいる。四首目に詠まれているのは何も見えない階段の踊り場だ。見えるのは切り取られた空しかない。五首目も何ということのないTシャツが、「いまここ」にある一度切りの夕映えに照らされている。

 堀がこれらの短歌で捉えようとしているのは、日々の日常のひとコマひとコマに刻印されている「生の一回性」の煌めきなのではないだろうか。もう二度と同じ情景に会うことはないと思えば、平凡なTシャツも踊り場も春巻きもいとおしい。それを描くのに大仰な言葉はいらない。

 文体的な特徴を探すと、まず初句の増音が多い。上に引いた歌でも一首目と二首目と五首目が初句七音である。また体言止めと結句に「ている」形が多く使われている。現代日本語は時制の貧弱な言語で、タ形(過去形)・ル形(非過去形)という時制以外に、テイル形とテイタ形というアスペクト形式を併用している。テイル形は現在の状態や現在進行している動作を表す。堀のように「いまここ」を捉えようとすると、勢いテイル形を使うことになるのだろう。

通りの名をはじめて知って少しずつあなたに馴染んでゆく信号機

きれぎれのこうふくだろうあなたからレーズンパンを受けとる夕べ

どこに向かってというのではなく風に向かって自転車を漕ぐ 朝の半月

小さめのを三つではなく大きめのを二つ握って包んで渡す

残り少ないグミを分け合う冷房が効きすぎた後部座席のすみで

 こういう歌を読んでいると、「小確幸」という言葉が頭に浮かぶ。「小確幸」というのは、「小さいけれど確かな幸せ」をつづめて略したもので、村上春樹のエッセー集『ランゲルハンス島の午後』に出て来る村上の造語である。余談だが田口トモロヲと池田エライザが出演している『名建築で昼食を』を見ていたら、その中で「小確幸」が使われていて驚いた。引越先で通りの名を初めて知る、相手からレーズンパンを受けとる、弁当に作ったおにぎりを渡すといった些細なことから日常はできている。そのひとつひとつに小さな幸せを感じている。そういう歌だろう。

 しかし堀が感じているのはもちろん小さな幸せだけではない。

たくさん生きて一回死ぬのだ僕たちも 夏この成層圏の明るさ

骨だけがこの世に残るおかしさの掃き出し窓をあふれくる風

ほんとうはきっとまぶしい死ぬことも 自動筆記のように狂えば

きみが死ぬこわさを言えばふと痛む右耳の端がまた切れている

死ぬまでの立ち往生に食べかけのケチャップライスがまとう粘り気

 生の裏側には死がぴったりと張りついている。生の一回性の果てには一回の死がある。その冷厳な事実をふと思うとき、私たちは歩みを停めてその場に立ち止まる。堀もまたそのことはよくわかっている。わかっているからこそ日常の何気ない出来事が輝くのだろう。

いき違う話の途中なめらかなカーテンレールに見ているひかり

自転車のかごにミモザはいまあふれ、何度か握り直すハンドル

ふいに綿毛が目の前にきて目で追えば乾いた朝の横断歩道

うれしくっても駆け出さない みな命ある限り生きればうつくしい皿

天国へゆくことだけをこの世のめあてのように鳩の首のきらめきは

 その他に心に残った歌を引いた。堀の新しいエッセー集の感想として、「かばん」の先輩の穂村弘は「永遠に初心者マークを付けているような」と言ったそうだ。初心者の気持ちを持ち続けているからこそ見えるものもある。そういうことだろう。