第211回 大野道夫『秋意』

火のつかぬ松明のよう人は立ち亡き父と入りし立ち飲みは夜明け
                   大野道夫『秋意』
 大野の歌にはしばしば「父」が登場するが、それは常に回想としてであり、時代の象徴として扱われていることが多い。掲出歌においてもそれは言える。昔、父と入ったことのある庶民的な立ち飲み屋である。立ったまま酒を飲んでいる客たちは、まるで「火のつかぬ松明のよう」だという。松明は火がついてこそ松明で、燃えていなければただの木切れにすぎない。不全感と閉塞感とノスタルジーの漂う歌だ。
 『秋意』(2015年)は、『秋階段』(1995年)、『冬ビア・ドロローサ』(2000年)、『春吾秋蝉』(2005年)、『夏母』(2010年)に続く第5歌集である。律儀に5年ごとに歌集を上梓している。また歌集タイトルに季節名が入っているのも特徴だ。『秋意』は作者の造語で、「秋の意志ぐらいに思ってほしい」とのことである。
 『秋意』は3部構成になっており、第I部と第III部は所属する「心の花」や短歌総合誌に発表した歌を収録していて、間に挟まれた第II部はすべて題詠である。題詠は兼題を与えられて即興で詠む歌なので、歌集を編むときには捨てることが多い。しかし大野は捨てずに歌集に入れる。このあたりに歌人としての大野のスタンスを見ることもできるかもしれない。
 大野は1956年(昭和31年)生まれである。前年の1955年に自民党が結成され、いわゆる55年体制が築かれている。現代まで続く戦後の始まりである。大野は青年問題を専門とする社会学者で、卒業論文は東大闘争をテーマにしたという。20人くらいの元活動家にインタヴューし、その中には元全学連委員長の山本義隆も含まれていたそうだ。1960年代後半の学園紛争・新左翼運動を牽引したのは、主に戦後ヘビーブーマーの1945年から49年生まれの人たちである。大野から見れば一回り近く年長の世代である。大野たちの世代は、社会や政治に関心を持ちつつも、派手に暴れる上の世代を仰ぎ見て育った「遅れて来た世代」ということになる。「社会の中の個」という視座は社会学者という職業もさることながら、もともと持っていた社会・政治への関心に由来するものであり、また「過剰な陶酔の不在」は全共闘世代の短歌と大野の歌を隔てる大きな特徴だろう。
節電や七十七歳天皇(すめらぎ)の重ね着底の忍耐ぢから
ツインビル崩れるように死は忘れられてゆくのかその子らの死も
インクの香生徒会室雨音に問い返したりぜんきょうとう
敗戦後知識人の反戦の「反」押すように 反ゲンパツよ
(校長はフェチなんやろか?)(ボクタチの口見詰めとる?)「こけのむすまで」
 一首目は東日本大震災、東京電力福島第一原発事故による節電要請を受けて、皇居でも節電が行われたことを詠んだ歌である。天皇が暖房を止めて寒さを防ぐために重ね着をしている。二首目は2001年にアメリカで起きた同時多発テロを詠んだもの。三首目は大野の出身校である湘南高校の創立90周年を記念しての歌で、高校生時代を回想しているが、ここにも全共闘が顔を出す。四首目はF1事故後雪崩を打って反原発へ傾く知識人を皮肉る歌で、「『反』押す」は「判押す」を掛けている。五首目は学校の式典における国家斉唱問題を歌にしたもの。校長が生徒の口を見詰めているのは、ちゃんと歌っているかどうか監視するためである。
 大野の歌でやはり注目されるのは日常詠・身辺詠ではなく、上に引いた歌のように社会や政治に触れた歌だろう。どうやら大野にとって短歌形式は単なる「抒情の器」ではないらしい。ましてや短歌という楽器の特性を最大限発揮するため力を込めて打ち鳴らすということもしない。勢い韻律よりも意味が重視され、抒情よりは知に傾く歌になる。また陶酔の不在は、あらゆる問題は複雑であり多面的性格を持つことを、社会学者として知悉していることによるものと思われる。このため現代の若手歌人たちとは理由は異なれど、結果として低体温で熱量の低い歌が多くなる。
「廃」と言えぬ唇乾く冬の夜にビラは舞いたり季語「炉」を乗せて
全ての採り尽くせないかなしみの採血車は巡る列島の身を
自爆とはかく美しくきあきあと月の夜をゆく地雷除去機よ
南氷洋泳ぎし尻尾が渋谷の湯泳げり鯨しゃぶしゃぶとなり
スカイツリー見上げる都民の一厘が密かに祈るモスラの帰巣
 一首目は「廃炉」の文字を二つに分けて詠み、声高に「廃炉」を叫ぶことができない気持ちを季語に託している。このような煮え切らぬ態度を批判する向きもあろう。二首目は日本赤十字社のスローガン「献血は愛のアクション」を踏まえた歌。大野は不思議なオノマトペを操る歌人で、三首目の「きあきあ」は機械の軋む音を表している。四首目は典型的な機知の歌。詠まれているのは渋谷駅から東急本店へと続く道にある鯨料理店「くじら屋」だろう。五首目は東宝の怪獣映画「モスラ」で怪獣モスラが東京タワーを破壊したことを踏まえ、モスラが今度は東京スカイツリーに帰って来ないかと密かに願うという歌である。映画のモスラもまた水爆実験による放射能の産物だった。どの歌にも時代と社会の反映があり、渦巻く疑問と微かな悲しみと、押し込まれた破壊衝動が感じられる。
「綱」の名の男らんらん現れて埋められてゆく親族の席
蝋燃やし聴いているのかの部屋のパソコン浸す暗き泉を
溶けて降る花の粉の夜包むよう子を抱き西へ逃げしともはも
炎天の舗道を歩む妹は赤きスコップと金魚を握り
Jちゃんと舐めし膝の血「十円玉?」「五円玉の味?」舌ひからせて
 本歌集には題詠も多いが、何かの機会に作られた機会詠も多く収録されている。一首目は「心の花」主宰佐佐木由畿逝去の折りの歌である。大野は佐佐木信綱の曾孫に当たるのだ。葬儀には名に「綱」の時を持つ男がわらわらと現れるのである。二首目と三首目は東日本大震災の折の歌。「蝋燃やす」「暗き泉」というと、どうしても宗教的なものを連想してしまう。作者もこの歌を作ったときにはそのような心持ちだったのかもしれない。「母」に「とも」と読みと異なるルビを振るのも大野がよく用いる手である。戦後の55年体制とともに時代を生きた大野にとって、昭和には特別な思いがあるはずだ。四首目と五首目は昭和の時代を詠んだ歌である。妹がスコップと金魚を握っているのは、死んだ金魚をどこかに埋めるためだろう。大野に妹はいないはずなので、これは昭和という時代を感じさせる虚構である。血を舐めると鉄の味がするのは、酸素を取り込むため鉄分が含まれているからである。
 大丈夫、こういった歌に飽き足らない向きには、次のような抒情的な歌が用意されている。
夜の海鞘初めて食みしひとの舌見つつ燗を飲めば波立つ
丁寧語で母親と話す昼の雨ひかり乏しきホームの底に
ものくろーむ家族旅行の釣り堀の泥水の底ゆ跳ねし虹鱒
肌へ夏留めるように海月くらげ浮く九月の海を泳げり姉は
父へ、父へ食べさす西瓜へじうじうと降らさん死海の岸辺の塩を
片足の男と娼婦が凭りかかり液化してゆくホテルの硝子
夕に起く吾と擦れ違う黒光るランドセルの香よ雨の舗道に
コップ越しに青澄む世界亡き母の入れ歯洗浄剤を落とせば
 私はどちらかと言えば短歌を抒情詩として読んでいるので、大野が作るこのような歌が好きである。しかし歌人としての大野の真骨頂を示す歌ではないかもしれない。いずれにしても本歌集は、大きくくくれば近代短歌の王道を行く歌集と言うことができるものの、社会詠が多いという点において独自の道を歩むものである。
 最後に蛇足ながら、セレクション歌人「大野道夫集」巻末の本人による年譜を改めて見ていたら、1973年の項に「社会の中の自分について悩み、『心地死ぬべくおぼえければ』庄司薫『赤頭巾ちゃん気をつけて』を読む。学園紛争の高校生の一日を描いた作品に感動する」とあった。「心地死ぬべくおぼえければ」は伊勢物語である。ここでは青春の煩悶の日々を指している。おそらくこのあたりに大野の原点があるのだろう。私は大野より少し歳が上だが、私にとっても庄司薫の『赤頭巾ちゃん気をつけて』は学生時代に読んで忘れがたい作品である。昔も今も若者が生き方に悩むのは同じだが、『赤頭巾ちゃん気をつけて』には確実に昭和のある時代の若者の悩みが刻印されている。小説も時代の産物なので、今ではもう読む人もいないだろうが。

 

112:2005年7月 第2週 大野道夫
または、平たい日常のなかでボクタチは時代に脚から汚されて

この道のゆるやかな勾配気づく夜は
    花屋で一人 COSMOS を買う

          大野道夫『秋階段』
 この歌のポイントは言うまでもなく「ゆるやかな」という形容動詞にある。ふだん歩いている道だが、いつもは平らな道だと思って通っている。ところがある晩にふと勾配があることに気づく。心に翳りがあるからである。心の翳りが足取りの重さとなって現われているからである。だから柄にもなく花屋に入ってコスモスを買う。COSMOSとはギリシア語で「宇宙」の意味であり、その含意はわざわざローマ字書きされていることからも明らかだ。日々の塵埃にまみれて生きる卑小な私に大宇宙は遠く手の届かないものだが、せめて心屈する今夜はその名を冠したコスモスを買おう。そのような歌意だろう。この歌意を浮上させるのに、「ゆるやかな」という修飾語は効果的である。このように一首中にあって歌意に効果的に働く部分を、穂村弘は「短歌のくびれ」と呼んだことがある(『短歌があるじゃないか』)。「ゆるやかな」はこの「短歌のくびれ」の一例と言ってよい。ところが大野の短歌において、このようなくびれの例は実はあまり多くない。それは短歌的修辞の拒否というよりは、短歌を取り巻く状況に対する大野の現状認識に由来すると思われる。

 大野道夫は1956年(昭和31年)生まれで、「心の花」会員。佐佐木信綱は曾祖父、佐佐木幸綱は母の従兄弟にあたるという血筋である。晩年の信綱に何度か会ったことがあり、それをきっかけに自分も文学を志したと略歴にある。大学では社会学を学び、現在は大正大学で教鞭を取っている。専門は青年文化・社会運動・文化社会学だそうだ。第一歌集『秋階段』(1995年)、第二歌集『冬ビア・ドロローサ』(2000年)の他、『短歌の社会学』(1999年)という評論集があり、「思想兵・岡井隆の軌跡 短歌と現代・社会との接点」という評論で第7回現代短歌評論賞を受賞している。

 セレクション歌人『大野道夫集』の巻末に谷岡亜紀がていねいな解説を書いているが、谷岡もまさにそうしたように、大野の短歌を語るときにはどうしても時代と社会背景に触れないわけにはいかない。大野の短歌がそのような文脈での読みへと読者を導いているからである。大野は「もはや戦後ではない」と言われて高度成長が始まった年に生を受け、60年安保闘争のかすかな記憶を持って育つ。自筆による略歴には、東大安田講堂事件・ケネディ大統領暗殺事件・ビートルズ来日など、当時の社会を彩った出来事が淡く点描のように綴られている。1975年に大学に入学。卒業論文のテーマに東大闘争を選び、元全共闘議長山本義隆に会いに行ったとあるから、社会と政治への関心は殊の外強かったと推察される。それと平行して、芥川賞を受賞した庄司薫の『赤頭巾ちゃん気をつけて』を読んで感動したとも書かれている。

 要約すると大野は「遅れて来た世代」なのである。東大安田講堂事件の時には13歳で、ベトナム戦争がアメリカの敗北という形で終結した1975年に大学に入学している。自分より上の世代が入れ込んだ政治運動・大学闘争に強い共感を抱きつつも、もはやその波には完全に乗り遅れている。『赤頭巾ちゃん気をつけて』が描いたのは、東京山の手の中流よりやや上の階級 (お手伝いさんがいる) に属し、都内屈指の進学校 (学校群制度以前の日比谷高校) に通う主人公のサエナイ日常であるが、そこに描かれた心情はまぎれもなく政治の季節の次にやって来た「やさしさの世代」のものである。大野の精神形成はこのような社会的背景と心情的傾向のもとに行なわれたのである。

 ここで『秋階段』から歌を引いてみよう。 

 ニッキあめ平和憲法民主主義シュートを打てばあおあおと空

 リキドウ! と叫べば画面駆け抜けてヤンキーを討つ第三国人

 「新宿へ終結ヲセヨ!」僕らはただ校庭遊び合言葉にて

 「勝利する」ことなくすぎし睦月の夜ML全集売りに出かける

 学生が踏む銀杏にむせ返る青春期(アドレッセンス)をやや過ぎたれど

 夕映えるALTAの画面老人(おいびと)の手術のニュース厳かに流る

 大野の短歌には「平和憲法」「民主主義」「社会主義」などの硬い思想語が頻出するが、それを字義通り受け取ってはならないだろう。一首目にあるように、平和憲法も民主主義もニッキあめや広場での草野球と同列に置かれているのであり、手に持って振ればカラカラと音がするほど中身は軽い。リキドウは日本国民が熱狂したプロレスの力道山だが、大野はリアルタイムで見てはいないのではないか。戦後の日本を代表するキャラクターの一人である。三首目、「新宿へ終結ヲセヨ!」は全共闘運動かもしくは新宿フォークゲリラの反戦運動だろう。「僕らはただ校庭遊び合言葉にて」の部分に、時代が自分の横を通り過ぎて行ってしまったという感覚がある。四首目、MLはもちろんマルクス・レーニンのこと。大野は大学院に進学して研究生活に入るのだが、大学院とオーバー・ドクターの期間は、長く引き延ばされた青年期であり、文字通りモラトリアム期間である。五首目は踏みつけられた銀杏の臭いに仮託して、引き延ばされた青春の憂鬱が詠われている。六首目は「天皇下血」と題された連作の冒頭の歌。昭和という時代の終焉を意味する天皇の病気も、新宿アルタの大型画面に報じられるどこか遠いニュースとしてしか意識されない。

 このように大野の短歌は、高度資本主義社会とモラトリアム社会を背景とするのっぺらぼうの平たい日常の描写の中に、「平和憲法」「民主主義」「社会主義」「戦争」「テロリズム」などのかつて「大きな物語」に属していた語彙を、不調和を知りつつ溶かし込むことで、平たい日常に浮遊する不定形な〈私〉を描き出すと同時に、MLに代表される「大きな物語」が今日完全に失効していることを、いささかの愛惜と自虐の念を込めて淡々と述べている。それは次のような歌にも明らかである。

 漱石を読めば細き雨降りて精神(ガイスト)もなく暮れてゆく昭和

 ゆらゆらとゆれるわたくし 私(わたくし)を確認(アイデンティファイ)するパスポートの紙

 北京(ペイチン)に血の雨が降る日曜に 意味不明瞭なる日本人われ

 生き恥を輝かせ着く光沢の友の賀状は家族に満ちて

 ユニットバス膝を抱えて君は言う「もうボクたちにシソウは来ない」

 昭和に精神(ガイスト)なしとすれば、来たる平成の世にそんなものがさらにないことは言を待たない。二首目は海外詠だが、「ゆらゆらとゆれるわたくし」に大野が感じる〈私〉の不定形さが滲み出ている。三首目は天安門広場事件を詠んだものである。戦車の前に立ちはだかった中国の学生と、TVの前の何とも形容できないぐにゃぐにゃの自分とが対比されている。四首目は近年増えつつある家族写真をプリントした年賀状を詠んだものだが、家族を「生き恥」と表現しているところに大野の屈折が感じられる。五首目は読解は必要ないほどそのまんまである。

 第二歌集は『冬ビア・ドロローサ』と題されている。「ビア・ドロローサ」とは「苦しみの道」の意で、キリストが磔刑のために歩いたゴルゴタの丘への道をさす。エルサレムへ旅した旅行詠から採られたものである。

 結晶はグラスにしめり地の塩とならんと思(も)いき若き日もすぎ

 うすきうすき毒ガスの朝歯止めなき人生を欲り飲む生卵

 親不知削られる午後その底の底の私の白は輝く

 雪合戦のなかの石粒みぞれ降る世界に脚から汚されしボクら

 散骨は静の海へ 地球(テラ)浮かぶ大空へ降るわれという粉

 一首目は青春の夢を振り返る歌。二首目は地下鉄サリン事件に題材を採った歌。事件で大勢の人命を奪った毒ガスと同じようなガスが、気がつかないほど薄く日常世界を被っているという。三首目は歯の治療を詠んだものだが、削られた底の底にまだ〈私〉の白すなわち無垢がわずかに残っているという認識は、希望と言うにはあまりに苦い。四首目は雪合戦だと思っていたら実は石粒が降っていたというところに、世界に絡め取られてしまったという感覚がある。五首目は死後の〈私〉が粉末となって大空に舞う様子を想像している歌で、美しくもまた哀しい。

 『冬ビア・ドロローサ』で特に注目されるのは、曾祖父佐佐木信綱の『思草』への返歌として構成されている連作「戦争と革命の世紀の縁で」である。

 亜細亜の地図色いかならむ百年(ももとせ)の後をし思(も)へば肌へいよだつ
  核弾頭は赤丸小さき手が電子手帳に描(か)く世界地図

 破れたる傘(からかさ)さして子らがゆく時雨そぼふる古き駅路
  ビニール傘もなくしていたのかボクタチは口語のお天気雨の真下で

 世人皆我をうとめる世なれどもわれに友あり酒といへる友
  電話待つ時間はすぎて掌(て)のなかで人肌をこえ冷めてゆく酒

 『思草』は1903年、日露戦争開戦の前年に出版されている。だから一首目の信綱の歌にある「亜細亜の地図」は明治日本の富国強兵による膨張政策を背景としている。「百年後の日本はどのように雄飛しているだろうか」と未来への期待を込めた歌である。それから100年後の世界を生きる大野が返す歌は、東西冷戦は終結したにもかかわらず核兵器がむしろ拡散する危険な世界を詠んでいる。100年の時を隔てた信綱の歌を背景に置くことで、現代の世界の危なさや不安定さを影絵のように浮き上がらせるという大野の意図が見える。二首目の信綱の歌はどこか懐かしい古い日本ののどかな風景である。これに対して大野の歌は徹底的に現代的であり、傘(からかさ) vs. ビニール傘、時雨 vs. お天気雨、文語 vs. 口語の対比を通して、現代の「ボクタチ」の置かれている孤児のような状況を詠っている。三首目の信綱の歌は孤立のなかにも酒を愛する矜持と自足の歌である。一方、大野が返すのは、あてどもなく誰れかからの電話を待つ間に、燗酒が冷えてしまったという歌で、『ゴドーを待ちながら』的状況を念頭に置いたものであろう。曾祖父がちょうど一世紀前に詠んだ歌に返歌を返すという構成を考案することで、大野は「時間の流れ」を、そしてそれよりも「時代の流れ」を短歌のなかに取り込んで表現することに成功している。

 そして大野はこのような返歌を信綱の本歌に対置させてゆくという作業を通じて、明治以来の近代短歌が詠み込んできた自然と社会はもはやなく、それに支えられてきた〈私〉の形もまた現代に生きる「ボクタチ」からは遙か遠いものになったことを示しているのである。「ボクタチ」はこのように、日常性という希薄な毒ガスがたちこめている平べったい時代を生きなくてはならない。それこそが現代の私たちに課せられた「ビア・ドロローサ」である。大野はこのように言いたいのではなかろうか。

 しかし、とここで私は考え込んでしまう。果してこれでいいのだろうか。100年前の近代短歌を代表する信綱がいささかの気楽さと明治的おおらかさを含むとはいえ、ボジティブに力強く提示しているある〈価値〉に対して、それとは異なる別の〈価値〉を同じように力強く提示することなく、過去の価値の陰画をネガティブに弱々しく差し出すことしかできないのは、不幸なことではないのだろうか。こんなことを言うと、「いや、だから不幸だと言っているんですよ」と大野から言い返されるかもしれない。「時代にまみれる」というのはこういうことなのだ。大野の歌のひとつひとつに〈時代〉が貼り付いている以上、それは避けがたいことなのかもしれない。