第264回 安井高志『サトゥルヌス菓子店』

秋はひとりまぶたをとじて耳を澄ます 雨のなかに隠した音楽

安井高志『サトゥルヌス菓子店』

 

 中部短歌会の『短歌』8月号をばらばらと読んでいたら、雲嶋聆の「ゆらぎの抒情」という文章が目に止まった。その文章の中で雲嶋は、安井高志という人の『サトゥルヌス菓子店』という歌集に触れている。破調のもたらす欠落感が生み出す「ゆらぎ」をキーワードとして、浜田到の短歌と比較して論じた文章である。浜田到との比較はひとまず措くとして、そこに引用されていた安井高志という歌人の歌にちょっと引かれるものがあった。

白い白いハチドリたちが降りつもる海底にまるで雪みたいに

彼岸花せめてくるしく裂けてゆけみのうちがわに秋を重ねて

砂浜に打ち捨てられた貝殻のほらいのちってこんなに軽い

 安井高志というのは聞いたことのない歌人だが、私はこういう偶然の出逢いを大事にしているので、さっそく版元のコールサック社から取り寄せて読んだ。奥付を見ると2018年6月に刊行されている。どうやら安井高志はすでに亡くなっていて遺歌集であることが、編集の労を取った友人たちの解説と、おそらく御母堂と思われる方のあとがきから読み取れる。また巻末に本人の略歴が付されている。ほんとうならば人生から入らず、まず歌を読むべきだというのは正論である。しかし、ひとたび読んでしまうと、どうしても頭から離れなくなり、それを通してしか歌を読むことができなくなる、そのような略歴というものがある、安井の略歴はまさにそのようなものなのだ。

 安井は1985年生まれ。幼い頃から合唱団に入り、中学の時にハンガリーのコダーイ国際合唱コンクールで金賞を受賞している。大学の薬学部に入学するも、分析心理学に引かれて進路を変更。印刷会社に勤務するかたわら、短歌や詩を中心とする文学活動を展開する。結社などには所属せず、活動の場は主に現代短歌舟の会、「無責任」という二人誌と、「午前二時のライナス」というbotだったという。短歌は独学だったかもしれないが、御母堂も歌人だということなのでその影響もあろう。2017年に事故により他界。享年31歳なので、安井は笹井宏之や中澤系らと同じく夭折歌人ということになる。私は特に略歴の中の「ハンガリーでボーイソプラノを失う」というくだりに目が釘付けになった。この喪失感が安井の文学活動の原点にちがいない。文芸批評家モリース・ブランショが喝破したように、「欠落 (manque)が文学を生む」のである。

終電はいってしまったかみそりはお風呂場の水のなかでねむる

マシュマロの蛍光灯のなかに消え失せた花嫁アンナの喪失

飛び降りた少女はわたしをおいていくその脳漿の熟れる八月

うしなわれた水平線に夜は果て桃は剥かれたソーダ水のアリア

バスタブに糸をたらした女の子 音楽はまだきこえてこない

 歌集の冒頭部分から引いた。口語定型を基本とするも、かなり自由な句割れ・句跨がり・字余りが見られる。現代の若い歌人たちは「ゆるい定型意識」を共通項として把持しているので、安井も同じ意識を共有しているのだろう。さて、一首ごとに意味を解説せよと言われると途方に暮れてしまう。たとえば一首目、二句目までの「終電はいってしまった」はわかる。よくある日常の出来事である。三句目以降の「かみそりはお風呂場の水のなかでねむる」も、「ねむる」を擬人化だと見なせばわかる。わからないのは両者の意味的関連性である。二首目は普通の意味ではもっとわからない。「マシュマロの蛍光灯」などというものは存在しないし、蛍光灯の中に花嫁が消えることもありえない。どう読めばよいのだろう。

 さて、ここから安井の短歌を読む方法はいくつかに分かれる。一つは、「マシュマロの蛍光灯」や「蛍光灯の中に花嫁が消える」といった日常的にあり得ないことは、現実の出来事ではなく心象風景を描いたものであり、字義どおりに解釈せず「そのような気分」を表す喩と取る方法である。このように考えた場合、安井の短歌は「ある気分」を表現しようとしたものであり、歌に登場するアイテムはその気分を醸成するために配されたものだということになる。

 二つ目は、安井の短歌を作っている言葉は、最初から指示機能を失っているとする読み方である。指示機能は言語の最も基本的な機能であり、事物や概念を指す働きである。例えば「うちの隣の犬はよく吠える」と述べるとき、「うちの隣の犬」はその犬を指示する。「ペガサス」のように現実には存在しない想像上のものでもよく、その場合は想像上で作られた事物を指しているのである。安井の短歌の言葉は指示機能を失っていると仮定すると、「マシュマロの蛍光灯」はそのような物を指しているのではないことになる。ではそれらの言葉は何のためにそこに置かれているのか。言葉と言葉の衝突と軋みによって生じる観念の火花を生み出すためだ。あるいは普段は隣り合わせることのない言葉を組み合わせることで、今まで人が見たことのない新しいイメージを脳裏に現出せしめるためである。シュルレアリスムはこれを目標とする芸術運動である。このような読み方をするときには、一つ一つ歌の意味を解釈しようとせずに、読むにつれて自分の脳の中に明滅するイメージをただ享受すればよい。

 いずれも可能な読み方ではあるのだが、私は安井の短歌の読み方はもう一つあると思う。安井が分析心理学、なかでもユング心理学に傾倒していたことがヒントになる。精神分析ではフロイトもユングも夢の解釈を重要視していた。夢には普段表に出ない深層心理、または無意識が顔を出すとされているからである。しかし目が覚めている人は夢を見ることができない。そこで使われるのが自動筆記や連想法である。思いのままに筆を走らせると思いがけない言葉が出て来ることがある。また一つの単語から連想を行うことで、その人の深層心理を垣間見ることができるとされたからである。

 安井は短歌を作るときに、このような方法を実践していたとは考えられないだろうか。もしそうだとするならば、覚醒状態で得られる論理的意味を安井の歌の中に探すのは正しい読み方ではなく、言葉の組み合わせが示唆する連想に身を委ねて、作者の深層心理へと降りてゆくという読み方が妥当だということになるだろう。一つ目の読み方と似ていると思われるかもしれないが、一つ目の読み方では歌に読まれた事象がある気分を表す喩であるのに対して、この読み方では安井の深層心理を表すシンボルというちがいがある。

カーテンは飛べないさかなすがるようにオキシドールとつぶやいた朝

みずうみの底にはしろい馬がいた鱗のはえた子をころす妹

とおくまで透きとおる音 廃線のかなたに光る人工衛星

気がつけばパジャマのままで立っている歯車だらけの灰色の街

透明なガラスのボウルあしたには魚が死んでひかる星空

先生には翅がなかった銀いろの音叉はふるえる蝋燭だった

 この読み方に身を委ねるときには、歌に頻繁に登場する語彙とイメージに注目するとよい。文学研究におけるテーマ批評と同じである。何度も登場するのは「水」と「魚」、それから「透明」と「光る」だ。水は母親の胎内回帰の願望を表すのかもしれない。「透明」と「光る」は作者が希求する世界の象徴だろう。しかしそれは何という悲しく淋しい世界だろうか。「飛べない魚」「子を殺す妹」「灰色の街」「死んだ魚」「翅のない先生」など、そこには喪失感と不全感が充満している。

 また全巻を通じて「沈む」というイメージも頻出する。

(もう二度と泣かないように)(つらいですか)夜、海底に沈めるピアノ

留守のまま帰らないひと 知ってる? 懐中時計の沈むみずうみ

永遠におちつづけてく王さま、ハチミツの底に沈めたげるね

海底に沈んだ図書館たくさんの栞がわりの白い鳥たち

ぼくは夜に水にしずんだ町ばかりおもう眠りはダムに落ちてく

真夜中の川にススキを沈める手いつかは僕もわたる鉄橋

 上昇が明るさと栄光へと進むプラスのイメージであるのに対して、「沈む」という下降のイメージは闇と敗北へと向かうマイナスのイメージである。一方、沈むものを受け止めるのが水であることから、生まれる前の無明の世界もしくは母胎への回帰を表すと取ることもできるかもしれない。

 略歴で「ハンガリーでボーイソプラノを失う」と書かれた出来事が安井の人生にとってどれほど決定的だったかは、次のような歌が雄弁に示している。

困ったら「かなしい肺魚」という名をアドレス帳からさがしてください

三月のキャベツ畑に霧ふかく眠れ失声症のアンドロイド

歌声が法律である星に立つ死刑のためのボーイソプラノ

声の出ない熱帯魚たちかなしみはどんなときでもパナナオレから

ある朝に電池のきれたロボットのかすれてしまったボーイソプラノ

 歌声が法律である場所では、声を失った者は生きてゆくことができない。まさに歌を忘れたカナリアだ。声を失った者はもはやその星では人間ではなく、ロボットかアンドロイドとなる。天使が羽をもがれて地上に失墜するのだ。自分は自由に飛ぶための羽を失った堕天使であるという思いは安井を離れることはなかったにちがいない。全巻透明な哀しみが充満する歌集を読むのはつらいことである。

 とはいえ短歌としての評価はまた別のことだ。安井の短歌は笹井宏之の歌と似ており、安井は笹井から多くを学んだにちがいないとする論考もある。確かに表面的には二人の歌は似ている所もある。しかし、笹井が短歌的喩に訴えることなく、ひたすら言葉を精錬し詩的に昇華することによって、独自の透明な天使的世界を作り出したのとは違って、安井は言葉の連想関係とシンボルを配することで自らの深層心理の世界を現出させているというちがいがある。歌と作者の距離という点では、笹井に較べ安井の方がはるかに近く、安井の歌は自身の心の内実を表していると言える。

 さらにいくつか歌を挙げておこう。

だれもいない教室の夢は椅子たちが一斉に羽化をはじめる夜

こんなにもやさしい影だぼくたちがいずれはかえる病めるシーツは

少年の五月はうれしい母を見てひばりを殺したはずの中庭

おだやかに氷はとけて檸檬水の影もとけてく七月、風よ

ぼくが言おうぼくの言葉は放たれた切り傷である八月の窓

地底湖のねむり歌声ながれつつ培養槽に沈む子供ら

内臓のくらさを知ればはちみつはクラリモンドに捧ぐソネット

 安井の短歌は空に放たれた切り傷である。傷を負ったのはもちろん安井自身だ。安井の詩心が友人たちの手によって、こうして言葉として私たちのところまで届けられたことは、かなしみのなかにあるひとつの幸いである。

 最後に収録された短歌の数の多さに触れておきたい。1ページに3首配して240ページ。単純計算で720首ある。遺歌集は作者の手によって編纂されたものではないので、とにかく発表された歌はすべて収録するという方針になりやすい。佐々木実之の『日想』もそうだった。あちこちの発表媒体から作者の歌を探し出して編集するのはたいへんな労力である。本歌集はその労を厭わなかった友人たちの努力の結晶だろう。