ドアノブの磨れてとほくに春の潮
小川楓子『ことり』
小川楓子は1983年生まれ。「海程」に入会して金子兜太に師事する。後に山西雅子の「舞」に入会。『ことり』は2022年5月に刊行された第一句集である。版元は港の人。ハトロン紙でくるんであるが、版元の方針で帯はない。小川の俳句はすでに『超新撰』(邑書林、2010)、佐藤文香編著『天の川銀河発電所』(左右社、2017)で読んでいるが、まとまった句集として改めて読むとまた印象が少しちがう。
通読して気づくのは季語に植物が多いことである。おそらく作者は植物が好きなのだろう。
沖まで来よスイートピーにむせながら
クロッカスになつてしまふよあなたから
あぢさゐの開きはじめの海光り
桔梗と切りつぱなしの風を待ち
皇帝ダリア雨降りさうで降らなさう
一句目のスイートピーは晩春の季語。文久年間にすでに日本に渡来していたという。松田聖子の「赤いスイートピー」が有名だが、実はスイートピーに赤いものはないらしい。春らしい浮き浮きした気分の句で、この明るさが小川の身上だ。二句目のクロッカスも春の季語。ナルキッソスが水仙になるのはギリシア神話だが、この句ではクロッカスになるというのがおもしろい。近藤芳美に「クロッカス咲かむとしつつ黄のつぼみ光を包む如きこの夜半」という歌があるように、清新な印象を与える花である。三句目の紫陽花は夏の季語。紫陽花ほど短歌や俳句に詠まれた花はなかろう。山口優夢の「あじさゐはすべて残像ではないか」という句はよく知られている。四句目の桔梗は「きちこう」と読み秋の季語。この句には意味の転位がある。切りっぱなしなのは実は桔梗なのだが、それを風の方に付け換えたのがおもしろい。五句目のダリアは夏の季語。昔、ダリアはよく家の庭に植えられていたが、近ごろはあまり見かけない。ダリアと言えば「南浦和のダリアを仮のあはれとす」という攝津幸彦の句が頭に浮かぶ。この五句目のように会話体の話し言葉を交えるのも小川の得意技のようだ。会話体を使うと句の背後に人物と体温を感じさせる効果がある。
季語は俳句の世界に入る回転ドアのようなもので、季語をくぐってこのように自由に連想を広げることができる。かつてフランスの文芸批評家ジュリア・クリステヴァは、テクスト同士が結び合う関係性を「間テクスト性」(intertextualité) と呼び一世を風靡したが、何のことはない、日本の韻文ではそれこそ古今集の昔から和歌は他の和歌との関係性に基づいて作られていて、読み手もそれを心得ていた。「間テクスト性」は日本の文芸の際だった特性なのである。
小川の俳句の特徴のひとつに、まるで作者の息に合わせるかのように句が伸び縮みすることが挙げられる。集中のほとんどの句は五・七・五の定型なのだが、ときどき次のような句が混じる。
たれも想はず茶摘籠いつぱいに
胸のなかより雉を灯して来りけり
夏霧の馬車はかなしみを乗せない
わらへつて言ふから泣いちやへががんぼ
永日のきみが電車で泣くからきみが
一句目は意味で区切ると七・五・五となる。二句目は七・七・五、三句目は句跨がりになっていて、意味で切ると五・八・四となる。四句目は五・八・四、五句目は五・七・七である。ずっと五・七・五の定型句が並んでいると、まるで自動運転の電車に乗って運ばれているような錯覚を覚えることがある。塚本邦雄が言った「オリーブ油にマカロニを流したような」状態である。しか途中に上のような句が混じっていると、読む人の定常的リズムが崩れて、舗道の敷石につまずいたようになる。そのリズムの崩れの中に、作者の息遣いと個の体温がふと感じられることがある。歌舞伎役者がよく言うように「型があっての型破り」であり、俳句でも定型あっての破調である。着物を着慣れた人は着崩すのがうまい。
人気TV番組「プレバト」の俳句コーナーの師匠、毒舌先生こと夏井いつきがいつも言っているように、俳句には「詩の欠片」が必要である。俳人はどうやって詩の欠片を見つけ出すのだろうか。これに悩む人は多かろう。この問には三つの答が考えられる。一つ目は「詩の欠片は日常の暮らしの中にある」という答である。アスファルトの車道と歩道の間に在来種のタンポポが一輪花をつけている。朝まだき軒下に蜘蛛が掛けた巣の糸に朝露が光っている。日常の暮らしを見つめればそこに詩の欠片があるというわけだ。しかしものを見ても心が動かなければそこに詩の欠片はない。だから二つ目の答は「詩の欠片は私たちの心の中にある」というものだ。タンポポは外界という現実の世界にあるが、私たちが「あっ、タンポポが咲いている」と認識しなければタンポポというものはない。そこにあるのは単なる黄色のかたまりである。さらに進んで三つ目の答も考えられる。車道と歩道の隙間にけなげに咲いているタンポポを詩の欠片に昇華するためには、それを言葉にしなくてはならない。それも単なる言葉ではなく五・七・五の韻文に落とし込むのである。そのとき私たちが頼るのは、今までに覚えた言葉と、読んできた俳句という言葉の宇宙である。その広大無辺の言葉の宇宙の中を渉猟し、ぴたりと収まる言葉を探す。言葉と言葉が共鳴しあうことも、ぶつかって火花を散らすこともある。だから第三の答は「詩の欠片は言葉の中にある」ということになる。
言い換えれば、一つ目の答は「現実」、二つ目の答は「現実の認知(認識)」、三つ目の答は「言語化」となる。この三つのプロセスのどれに重点を置くかで、句に向き合う姿勢に違いが生まれる。一つ目と二つ目は不要で、三つ目だけで十分だという向きもあろう。しかしいずれにしても詩の欠片が生まれるには、このプロセスを通ることが多いだろう。
開けられぬ雨の包みを木犀を
銀紙にみなふれてゆく冬帽子
わが産みし鯨と思ふまで青む
たふれたる樹は水のなか夏至近し
ありつたけの夏野菜はてしなくわたし
雨はまだゼラニウム散る駐車場
渡り鳥シーツに椅子の影落ちて
特に気になった句を集めた。比較的わかりやすいのは五句目の「ありつたけの」や七句目の「渡り鳥」だろう。情景が想像しやすく、詩的飛躍が抑えられているので、日常的な意味との接続がまだできる。一方、一句目「開けられぬ」は言葉同士の距離が相当離れている。欠けているものを補って読むこともできるかもしれない。それは外からの物語の補填である。しかしこのまま読んで、語が喚起するイメージを摺り合わせるようにして読んでも十分に美しい。
若葉風の時候の今、雨上がりの静かな庭で日曜日の昼下がりに読みたくなる句集である。