第176回 山中もとひ『〈理想語辞典〉』

あるときは斜めに生きておもしろし御笠の川みず浅く流れる
             山中もとひ『〈理想語辞典〉』
 初めて接する歌人の歌集を読むときは、こちらの感受性のダイヤルをこまめに回して、作者の基本波長を捉えようと試みる。読み始めて間もなく波長が合うこともあれば、合うまでに時間がかかることもあり、どうしても合わないので途中で投げ出してしまうこともたまにある。それと平行して、その歌人の作品世界をよく表すキーワードを探す。本歌集の場合、それは「斜交いの視線」ではないかと思い始めたときに、掲出歌に出会った。「斜めに生きておもしろし」とは、最短距離を行く直線を敢えて外れる生き方をするということである。作者の姿勢をよく表す歌だと思う。
 作者の山中は、結社に所属したことがなく、詩歌探求社の歌誌「蓮」に作品を発表している人である。平成26年に現代短歌社賞次席に選ばれている。『〈理想語辞典〉』は第一歌集で、跋文は「蓮」の石川幸雄が寄せている。歌集題名は「〈理想語辞典〉連想語辞典をよみちがえしばし思えり理想の単語」という歌から採られたもの。
 さて「斜交いの視線」とは何かと言えば、それは敢えて普通とは異なる角度から物事を眺めるということだ。日常見慣れているものであっても、普段見ない角度から見ると思いもよらない姿が見えることがある。
春あさき朝間ひと無き畳屋の鋼鉄(はがね)の機械まだ働かず
わからないもののひとつに鶴亀算なにことさらに脚を数える
地と水と空気を汚すにんげんのひとりは食うぶこの卵飯
渡るかもしれない人のためにある歩道橋をひとり渡れり
かの街にほかにも人のあるものを赫犬ボビー浮かぶ面つき
鏡餅うら白譲り葉橙とプラスチックを重ねる歳旦
 一首目、早春の早朝、畳屋の前を通りかかる。畳作りに用いる機械が店内に見えるが、早朝とあってまだ動いていないという歌である。そりゃ朝早いので始業前だから、機械が動いていないのは当たり前である。タダゴト歌に類する歌だが、このように詠まれると、まるで機械に生命があり、「さあ、ひと仕事するか」とばかりに自律的に働くもののように見えてくる。二首目、鶴亀算は小学校で習う算術で、鶴と亀の合計数と脚の合計数から、鶴と亀それぞれの数を割り出すというものである。しかし考えてみれば、なぜ脚の数を数えなくてはならないのか理由がわからない。そういうものだと思えば気にならないのだが、ひとたび気にし始めると不可解なのである。三首目、「地と水と空気を汚す」までが一首の序詞として働いている。「にんげんのひとり」はもちろん作中の〈私〉である。卵かけご飯を食べるという些細な行為も、どこかで地球を汚染することにつながっているという歌。四首目、モータリゼーションの時代に多く作られた歩道橋は、昨今非常に評判が悪い。景観を破壊することと、老人や病人・障害者などの弱者に苦痛を強いる装置だからである。場所によってはほとんど渡る人がいないこともある。だから「渡るかもしれない人のためにある」なのだが、作中の〈私〉は歩道橋を渡っているので、〈私〉がその「渡るかもしれない人」だというわけである。いささか認識論的ねじれを感じる歌となっている。五首目は読んだままの意味で、他に思い浮かべる人もいるだろうに、赤犬の面構えがつい浮かんでしまう。六首目は、正月の鏡餅の飾り付けをする場面を詠んだもの。昔は松が取れる頃には、鏡餅には赤や黄色の黴が生えていたものだが、今では餅は衛生的にプラスチックで包装され、他の飾り物もすべてプラスチックでできているという歌。正月の鏡餅を詠むならば、ふつうは新春を迎える目出度さに目が行きそうなものだが、あえて裏街道を行く斜交いの視線なのである。
 このような視線で物事を詠むとどうなるか。プラスの効果としては、思いがけない発見の歌ができるということと、どこかユーモアを滲ませた歌になるという点を挙げることができる。逆にマイナスの効果としては、名歌になりにくいことがあるだろう。正攻法ではないサイドスロー、あるいはアンダースローの投手のようなもので、なかなか大リーグの名投手に名を連ねるのは難しい。もうひとつのマイナスは連作に向かないという点がある。山中の歌のほとんどには一首ごとに独自のの視線があるため、一首の独立性が非常に高い。いきおい連作のなかで意味を発揮したり、他の歌に対して地歌となるといった相互作用が生まれにくいのである。
 実際の作歌において斜交いの視線を支えているものは、日常感じるごく些細な違和感だと思われる。山中においてはこの違和感が歌を生み出す原動力になっているようだ。
親なくて生まれたるものはかつて無しエッグクラフト専用卵
きりきりと捲く庭ホース縒れやすき「問題ケース」と呼ばるる老人
つづまりは好きと嫌いでわけて行く獣の命夏服の柄
何にせよスマホに相談する作法けしてふたりになれない二人
囲炉裏とか日溜まりだとか温き名の車輌に回収されゆく老い人
コールセンター語と名づけてみんか過剰なる敬語あやつる電話の女
 一首目、エッグクラフトとは卵を使った工芸で、たとえば復活祭の彩色卵などを作るものだろう。そのための専用卵があるとは知らなかった。本来は命を生み出すための卵がクラフト専用になっているという違和が感じられる。二首目、庭に水撒きするためのホースは、確かに捩れやすく扱いにくいことがある。それを介護施設かどこかで「問題ケース」と呼ばれている老人になぞらえた歌。三首目、関西の婦人は豹柄の服好きで知られているが、服の柄にどんな動物を選ぶかは好みであり、つまるところ人間のエゴである。私はこの夏、四条大橋で、ムーミンに登場する不思議な生物ニョロニョロと毒蜘蛛柄の着物を着た上品なご婦人とすれ違って目が点になったが、それもまた好みというものだ。四首目、近頃はスマホで検索するときに、文字を打ち込むかわりに音声で入力するソフトが登場したようだ。何でもスマホに相談するので、決して二人きりになれない恋人たちである。私たちはもう電化製品とネットなしには生活できない生物になり下がった感がある。自己家畜化(self-domestication)も行き着くところまで来たか。五首目、老人介護のためのデイケアセンターの車が老人を拾って行く光景だが、確かにそういうセンターは「日溜まり」とか「ひまわり」とか「たんぽぽ」などといった施設名が多い。作者はそれに違和を感じているのである。六首目、購入した製品に対する苦情や質問のためにコールセンターに電話することがあるが、そのとき電話に出た人の過剰敬語に反応した歌。いずれも些細な違和感が核になっているため、社会や文明を批判的に見る歌となっている。
購入(かいもの)廃棄(ごみすて)の較差(こうさ)生活の嵩であるかな 微かな私
捨てられたペットボトルの浄水に混じることなく夜の雨降る
都市バスの後部席から見るときに人みな持つは後頭部なり
親の死は二回までが普通にて初めてのことお終いのこと
 これらの歌では違和感というよりは、着眼点のユニークさが光る。一首目、私たちは毎日たくさんの物を買い、たくさんゴミを出す。その差し引きが生活の嵩だと言われると、なるほどと得心する。両者の差分がエネルギーとして吸収されるか、もしくは備蓄されるのである。二首目、飲みかけのペットボトルが捨てられている。中に入っているのは無菌に近い天然水だが、降りかかる雨には黄砂やら煤煙や窒素酸化物やらが混じっていることだろう。その2種類の水が混じり合うことなく併存している様が実に奇妙に感じられてくる。三首目は奥村晃作ばりのタダゴト歌で、このように当たり前のことをそのまま詠われるとそれなりの衝撃力を持つ。四首目も読んでハッとする。一人目の親が死んだときは初めての経験であり、もう一人が死んだときは最後の経験だと言われると、なるほどそういうものかと深く納得するのである。
 スルメのように噛むほどに味わいの出る歌を作る、なかなかの歌人だと言えよう。あと漢字へのこだわりとか、ユニークなオノマトペとか、取り上げて論じるべき点はまだあるのだが、長くなりすぎるので、付箋の付いた歌を紹介して論を閉じるとしよう。
巷間を歩みて悲しどの窓もひとつひとつの空間を持つ
頭より尾の先までが尺四寸晩夏の猫は一文字に寝る
寝て醒める数は畢竟等しけれ始めに起きつ終いには眠る
病む人の去りたる後は濯ぎもの少なくなりて干し場明るむ
どの家も鬼一匹を棲まわせて夕べのあかりの色のなつかし