死にたいとそっと吐き出すため息の軽さで少し進む笹舟
岡本真帆『水上バス浅草行き』
昨年話題になった「短歌が流行っている」現象の台風の目のひとつとなった歌集である。初版一刷は2022年3月21日で、私が購入したのが5刷で6月10日の日付になっている。『短歌研究』8月号に掲載された版元のナナロク社社長村井光男のインタビューによれば、その時点までで五刷、合計13,000部出ているという。発売から三ヶ月で五刷はすごい数である。なんでも村井社長は木下龍也と岡野大嗣とLINEグループを作り、歌集を一万部売ることを目標にしたという。それを見事に達成しているのが何ともすごいことだ。
『水上バス浅草行き』の造本にも戦略が感じられる。大きさは新書より少し大きいくらいで、女性のバッグにすっぽりと入る。ハードカバーだからバッグの中の他の物とこすれてぐちゃぐちゃになることがない。それにおそろしく軽い。計ってみたら200グラムしかない。紙質も上質紙ではなく、わざとやや質の落ちる紙を使っていて、全体としてカジュアル感を出している。たとえばバスを待っている時などに取り出してちょい読みできるようにするのがねらいだろう。
歌集巻末のプロフィールには、岡本は1989年高知県生まれで、未来短歌会「陸から海へ」出身とだけ書かれている。「陸から海へ」は「未来」の中の黒瀬珂瀾の選歌欄である。ネット上には岡本のインタビュー記事がいくつかある。それによれば会社員として勤務しながら作歌を始め、最初は雑誌『ダ・ヴィンチ』の穂村弘の短歌コーナーに投稿していたらしい。しかし雑誌は次の号が出るまでひと月かかるのでそれが待ちきれず、ネット上の短歌サイトに投稿するようになったという。そこで評判になった (いわゆるSNSでバズった)のが、本歌集にも収録されている次の歌である。ある日、自宅の傘立てにビニール傘がたくさん入っているのを見て思いついた歌だという。確かに急な雨に降られてコンビニでビニール傘を買うことが続くと溜まっていまう。誰しも思い当たる経験だろう。
ほんとうにあたしでいいの?ずぼらだし、傘がこんなにたくさんあるし。
このような歌がネットで評判を呼び、岡本はナナロク社に歌集刊行を打診したらしい。こうして第一歌集『水上バス浅草行き』が世に出ることになった。
卵かけごはんの世界から人が消えれば卵かけられごはん
にぎやかな四人が乗車して限りなく透明になる運転手
パチパチするアイス食べよういつか死ぬことも忘れてしまう夕暮れ
だいたいの30cm示すとき手と手にまぼろしの竹定規
さわれないたとえのひとつ反対の車線を走り去るターャジス
岡本の短歌の特徴は「リーダビリティの高さ」と「あるある感」だろう。「リーダビリティの高さ」とは、一読して意味を理解できる表現の透明度で、「あるある感」は、「そう、そんなことってあるよね」という共感指数の高さである。それに加えて、誰もがうすうす気づいていたかもしれないことを指摘する「ハッと感」もある。「リーダビリティの高さ」と「あるある感」と「ハッと感」をほど良いバランスで兼ね備えているのはそうそうあることではない。岡本の短歌の人気の秘密はそのあたりにありそうだ。
一首目、「卵かけごはん」は食べる人が卵をかけるからそう言う。しかし食べる人が消えれば卵をかける動作主体が消失するので、ごはんの側から見れば「卵かけられ」となる。主体の消失によって能動態が受動態に転換される。言われてみれば確かにそうだ。二首目は乗客の数と様子に応じて、タクシーの運転手が存在感を消すことに気づいて作った歌だという。乗り込んで来た乗客の話が盛り上がっているので、運転手はまるでそこにいないような人になる。これは「あるある」だろう。三首目はちょっと趣のちがう叙情的な歌で、このようなテイストの歌がところどころに挟まれているのも魅力だ。四首目、「だいたいこれくらいね」と30cmの長さを両手を広げて示すときに、そこに小学校で使った竹製の定規が見えるという歌。五首目は声に出して読めない歌だ。コーヒーフレッシュなどを製造販売しているスジャータめいらくが製品を運ぶ緑色の車の胴体に書かれているロゴは、車の左側には「スジャータ」、右側には「ターャジス」と書かれている。右側のロゴは右から読むのだ。五首目の歌の車は反対車線を走っているので右側のロゴが見えているのだ。この書き方は変だと思いつつもそれはもう変えられないと詠んでいる。ちなみにスジャータめいらくでは、2018年から新しい車では右側のロゴが「スジャータ」に順次変更されているそうだ。万物は流転するのである。
定型意識が緩いこともまた岡本の短歌の特徴のひとつだろう。たとえば音節数が一首目では5・9・7・10、二首目では5・9・5・7・5となっていて、どちらも合計すると31音になるのだが、定型には収まっていない。これは岡本の短歌の敷居を下げる方向に働いていると思う。短歌を作り慣れた人や読み慣れた人にはもはや想像しにくいかもしれないが、一行に書かれている文を5・7・5・7・7の定型に区切って読むのは決して自然な読み方ではなく、とんでもなく人工的な読み方である。それは読み手の中に定型意識があって初めて可能なことだ。しかし岡本の短歌はそのような内的韻律の意識なしで読み下すことができる。それは広告のコピーの感覚に近い。岡本は実際広告のコピーを考えたり、アーティストのプロデュースをする仕事をしていたようなので得意技なのだ。
君の名を呼ぼうとすれば薄氷の上で春へと瓦解してゆく
花かんむり一輪ぬけばたちまちにこぼれてしまう時計のように
金木犀わからないまま生きていく星のかたちに出るマヨネーズ
五分後は他人に変わる三叉路で一番好きな歌の話を
半身が足りないままで生きていく心はレモンサワーのくし切り
短歌なので岡本の作品にも言語の詩的浮揚を実現するべく修辞が用いられている。一首目では「春へと瓦解してゆく」に軽い詩的圧縮がある。表現されているのは縮めることができない好きな人との距離感だろう。二首目では「時計のように」が直喩だが不思議な喩だ。ふつう時計はこぼれたりしないからである。この違和感がミソだろう。三首目は上句と下句の意味的連関が切れていることにより、書かれている以上の意味が発生する。四首目のポイントは「三叉路」で、こういう言葉の選び方は実にうまい。私と君はこれからは別の道を行くのである。五首目の「半身」はbetter halfの恋人を指すので失恋の歌である。恋に破れた心を居酒屋のレモンサワーのグラスに添えられているくし切りのレモンに喩えている。レモンの残りはどこかに行ってしまったのだ。瀬戸夏子は『はつなつみずうみ分光器』の中で、口語短歌の文体に対する東直子の影響力の大きさを力説しているが、上に引いたような歌の文体にも東の遠い影響が感じられる。
口語短歌の弱点は文末表現の貧弱さなのだが、ここに引いた歌ではいろいろな工夫がされていて単調さを免れている。一首目は終止形の「ゆく」だが、二首目は倒置法を用いて連用形の「ように」で終わり、三首目は体言止め、四首目は言いさしの不完全文で格助詞「を」で終わり、五首目も体言止めとなっている。
回送の電車の中でねむるときだけ行き着けるみずうみがある
締めていたはずのキャップを炭酸は抜けて潮風いつか忘れる
揺れながら一人のバスで目を閉じる波打ち際の君のサンダル
火にかけて殺めることをためらえばゆっくりと死ぬ真水のあさり
立ち止まる季節と思う青になるまでの時間に降り注ぐ秋
何度でもめぐる真夏のいちにちよまたカルピスの比率教えて
戸を開けて出て行く人のそれぞれの額にそれぞれ注ぐ陽光
特に心に残った歌を引いた。書き写していて気づいたのだが、一首目に句跨りがあるものの、ほぼ定型に収まっている歌ばかりだ。やはり私も定型感覚にすっかり染まってしまっているのだろう。本歌集を手に取った人の多くが立ち止まる歌はこのような歌ではないような気がする。
かつて穂村弘は現代短歌の方向性として、「驚異」(ワンダー)と「共感」(シンパシー)のふたつを挙げた。穂村自身は塚本邦雄の短歌に衝撃を受けて短歌の世界に誘われたのだから本来は「驚異」派である。しかし評論においては「棒立ちのポエジー」「短歌の武装解除」「一周回った修辞のリアリティ」といった用語を用いて「共感」派の短歌に応援を送り続けた。そのためもあってか、非結社系・ネット系を含む現在の広い短歌シーンでは「共感」派が圧倒的に優勢である。岡本の短歌もその主成分は「共感」であり、そこに多くの読者が引かれるのだろう。
歌集に挟まれた読者カードがちょっとおもしろい。質問に「お住まいはどのあたりでしょうか。町の名前はお好きですか」というのがある。もちろん購入者の地理的分布を知るのが出版社の目的なのだが、町の名前が好きかというのは本来必要のない質問だ。京都市上京区勘解由小路町に住んでいる人ならば「好き」と答えるかもしれない。「本を手にとってくださったあなたはどのような方ですか」という質問には「映画好きの会社員で2匹の猫の飼い主です」という解答例が付されている。購入者の属性を知るための質問項目だが、このような解答例を付しているところから、ナナロク社がどのような読者をターゲットとしているかがわかる気がする。