第327回 嶋稟太郎『羽と風鈴』

シンクへと注ぐ流れのみなもとの傾きながら重なるうつわ

嶋稟太郎『羽と風鈴』

 場面は台所の流し台で時刻は夕食後だろうか。シンクに細い水の流れができているという描写から始まる。読者は「えっ、何が流れているの」と疑問を持つ。ふつうその水はきちんと閉まっていない水道の蛇口から出ていると思うだろう。しかし、水の流れの源を辿って行くと、食事に使った食器がまだ洗われずに重ねられている場所へと到る。それはたいして意外なことではない。食事が済んだ後、食器が流しに重ねて置かれているのはよくあることだ。この歌の巧みさは読者の視線の誘導にある。シンクに注ぐ水の流れから始まり、その源を辿る視線を誘導し、最終的に重なる食器で終わるその行程である。人気TV番組「プレバト」の俳句コーナーの毒舌先生、こと夏井いつきは俳句を添削するときに、語順の大切さを口を酸っぱくして説いている。語順は読者が言葉を読む順番である。それは映画のカット割りによく似ている。映画を見る人が監督のカット割りに従って物語を組み立てるように、俳句や短歌の読者も、作者が並べた順序に従って脳の中で映像を作る。作者の嶋は短歌における語順の重要さを熟知しているのだろう。

 嶋稟太郎は1988年に宮城県の石巻市で生まれている。2014年に短歌を作り始め、未来短歌会に入会。桜井登世子、大辻隆弘に師事する。2016年に未来年間賞を受賞。2020年に第3回笹井宏之賞の染野太朗賞を「羽と風鈴」50首で受賞。2021年に第64回短歌研究新人賞において「大きな窓のある部屋に」で次席に選ばれている。未来短歌会を辞めて現在は無所属。職業はブロダクト・マネージャーということだ。『羽と風鈴』は今年 (2022年)の1月に上梓された第一歌集である。栞はないが、帯文を大辻隆弘、小島なお、染野太朗が寄せている。

 あとがきには子供時代を過ごした石巻市の思い出の色は水色だということが書かれているだけで、本歌集の構成と成り立ちについての記述が一切ない。あまり自分を語りたくない人なのかもしれない。

 短歌研究新人賞の次席になった「大きな窓のある部屋に」は、本歌集ではそのまま巻頭に置かれている。しかし笹井宏之賞の染野太朗賞を受賞した「羽と風鈴」50首は、本歌集ではばらばらされてあちこちに収録されていて、「羽と風鈴」は歌集タイトルに格上げされている。その一方、「重なったポテトチップの一枚を舌で剥がしている日曜日」など3首が削られているようだ。「大きな窓のある部屋に」が巻頭に配されていることから、どうやら逆編年体を基本にして連作を構成し直しているらしい。

 さて、では嶋の作風はというと、それは次のようなものである。

開かれて窓の格子に吊り下がるビニール傘が通路に光る

蕗の葉がテニスコートの北側のフェンスの下に押し寄せている

建てかけのタワーの上にクレーンが動かずにある三月の朝

夕ぐれをさえぎるために紐をひく昼のキャベツを消化しながら

ハンドルをつつくリズムの軽やかに雨ふる朝の消防士たち

 一首目はよく見かける光景だが、マンションの通路に面した窓の格子に濡れた傘が吊り下げられている。もちろん傘を干すためだ。それをマンションともアパートとも言わずに、「窓の格子」「通路」という最低限の言葉で的確に描写している。二首目のポイントは「北側」だ。テニスコートの金網のフェンスの外側に蕗が繁茂していて、フェンスを越えんばかりの勢いだというから季節は夏だろう。これも珍しい光景ではないが、「北側」が歌にリアリティを与えている。三首目は少し説明が必要だろう。短歌研究新人賞の選考座談会で嶋を推した斉藤斎藤が解説しているように、この歌の背景には東日本大震災がある。作者はその時にはもう故郷を離れて東京で暮らしているのだが、地震と津波が起きた時、とっさに故郷の石巻を思ったにちがいない。斉藤の解説では建てかけのタワーは東京スカイツリーだとされている。地震のために工事が中断したのである。だからこれも一首の震災詠なのだ。四首目、紐を引いたのはブラインドかカーテンを閉めるためだが、それを「夕ぐれをさえぎるために」と表現している。まるで夕ぐれが好ましくないもので、外から部屋の中に侵入してくるかのようだ。下句の「昼のキャベツを消化しながら」もよい。五首目は交差点で信号待ちをしている消防車だろうか。緊急出動ではないので、消防士ものんびりと鼻歌を歌いながら、ハンドルに置いた手の指でリズムをとっている。下句の「雨ふる朝の消防士たち」がとりわけ詩的に感じられる。

 適切な言葉の選択と配列によって、静謐な水彩画を思わせる鮮やかな映像を描くところに嶋の作風の特徴があるように思う。言葉を五・七・五・七・七の定型に落とし込む技術は抜群で、言葉の連接に無理がなく、読んだときに抵抗や落差を感じることがない。斉藤斎藤は選考座談会で「写生がちゃんとうまい」、「瞬間を永遠にするというのは短歌の写生や、あるいは芸術の機能の一つですが、それを丁寧にやっている感じがします」と述べている。また笹井宏之賞の選考座談会で嶋を推した染野は、「対象への安定した眼差しが感じられる」、「地味なんだけど場面の描写やものの描写に安定感があって、最後までその安定感が続くんですよね」と述べ、野口あや子も、「絶妙な技術が効いた連作」で、「立ち止まるポイントが本当に綺麗に細かく」あると感想を述べている。この「安定感」というのは嶋の作風のポイントだろう。しかし見方によっては冒険心がないという評価もあるかもしれない。

 本歌集に収められている歌の多くは上に引いたような写生の歌で叙景歌が多いのだが、歌中の〈私〉を含めて人物が登場する歌もある。

母宛の手紙を君と分けて書く夏の初めの長い休みに

この国を選んだわけを聞きながら進む面談 浅くうなずく

われの名の付箋を剥がし借り物の椅子と机がわがものとなる

ネクタイは要らぬ会議と告げられて島つなぐ橋なかばを過ぎぬ

火の文字のように両手を上げたままわが子は眠るわたしの前に

 一首目の「君」はたぶん奥さんだろう。故郷の母親に二人で手紙を書いている。二首目は就職の採用面接の風景ではないだろうか。「この国」とあるので面接しているのは外国人だろう。三首目も職場の場面だが、作者は転職して新しい職場で働くようになったのだ。四首目は出張の歌。島を橋が結んでいるので、九州か沖縄かもしれない。五首目は珍しく家族を詠んだ歌。幼児は確かに両手をバンザイするように上げたままで眠るものだ。このように人物を詠んだ歌も水彩画のように淡く描かれていて、強い感情や心の迷いといったものは歌には登場しないのである。

 嶋の言葉遣いは現代の多くの歌人と同じく、文語ベースに口語を交えた文体である。私の癖でどうしても目が行ってしまうのは結句の文末処理と動詞の時制である。なかには次のように過去や完了の助動詞を用いた歌もなくはない。

さまざまに色をたがうるコンテナが一つの船に積み上がりたり

阿弖流爲アテルイの髭と名付けし一塊の炭を割りけり夏の宴に

氷山の深さを告ぐる頁にてオリエンテーション半ばとなりぬ

 しかし体言止めを除けば、やはり多いのは動詞の終止形の歌である。これは現代の若手歌人一般の傾向なのかもしれない。

 

桂の木いっぽんいっぽん立っている胸の奥にも夕ぐれの来る

欠伸して耳にたまった圧を抜くエレベーターが地下階に着く

赤い花かたちのままに水に浮く林試の森の公園をゆく

 

 岡井隆が「どうして助動詞を使わないのかね」と座談会で若手歌人にたずねたことが印象に残っている。助動詞を使った方が時間的に奥行きのある歌を作ることができるのは確かだ。

 

杉の葉を雨の滴が打つようにエンターキーは浅く沈んで

歩道橋を降りてまっすぐ歩いてる日陰まであと三歩の遠さ

踏切のへこみを越える自転車は一度沈んでそうして弾む

途中からツツジの色が白くなるセブンイレブン前の歩道は

たっぷりと蜜を満たして横たわる硝子の壜は照らされてあり

鉄柵の黒き柱を登り来て自然薯の葉は影を広げぬ

くるぶしの近くに白い花が咲く靴紐を結い直す時間に

水底の銀のひかりに沈みたるみずより重き実は傾きて

 

 特に印象に残った歌を引いた。こうして見てもやはり嶋の作る歌は低体温で描写が細やかだと強く感じる。未来短歌会で大辻隆弘に師事しているだけあって、ニューウェーヴ短歌からは遠く、ゼロ年代の若手歌人の作るフラット短歌とも一線を画していて、近代短歌を現代を生きる人に合わせてヴァージョンアップした歌と言えそうな気がする。