第139回 川崎あんな『あんなろいど』

はゞたける空あるやうにひらきをる貝殻骨の ゆふかたまけて
              川崎あんな『あんなろいど』
 貝殻骨は肩胛骨の異称で、左右に広く開いているのが見えているのだから、誰かの後ろ姿を見ているか、さもなくば自分の背中を鏡に映しているのだろう。前者の方が想像を誘う。貝殻は海のものだが、それが空を羽ばたいていると見立てるところに、対立物の衝突から生まれる詩的感興がある。おまけに時刻は夕暮れ時である。空は茜色に染まっていることだろう。貝殻の帯びる薄いピンク色と夕焼け空の色は、今度は位相を同じくするものとして響きあう。上句に連続するア音によって、のびやかな空間の広がりをも感じさせる美しい歌である。
 掲出歌を選ぶとき、どうしてもこのような美しい歌を選んでしまいがちなのだが、このような歌が本歌集を代表する歌というわけではない。むしろ逆で、このような歌のほうが少数派である。では本歌集の基調をなす歌はどのようなものかといえば、次のような歌だと思われる。
花の向き直し遣りてもふたたをみたびを傾ぐはなの向きの
今しがた手向けられにしことと ぴんとひらけるゆりのはなに
 両親の墓参りに行った時の歌である。すぐに分かることだが統辞が異様である。一首目の「花の向き直し遣りてもふたたをみたびを傾ぐ」までは順当な接続だが、結句の「はなの向きの」が宙に浮く。助詞「の」は、「花の色」のように属格を表す用法と、「鐘の鳴る丘」のように「が」に代わって主語を表す用法があるので、結句は「はなの向きが」と取れば「傾ぐ」の主語と取れなくはない。しかしそれよりも「の」の解釈は属格と主語との間を限りなく揺曳するかのごとくである。二首目の「今しがた手向けられにしことと」も中途で切断されている。本来なら「ことと気づく / 思う」と続くはずである。このように多くの歌で倒置法が用いられていることに加えて、「の」終わりの歌が異様に多く、かつ述語が欠落している歌も少なくない。この特徴的な統辞が意味の決定を時に阻害もしくは遅延するため、一首は茫漠とした虚空を散る桜の花びらのように漂う印象がある。しかしそれが瑕疵かと言えばそのようなことはなく、これこそが本歌集の最大の魅力なのである。
 本歌集は『あのにむ』(2007年)、『さらしなふみ』(2010年)、『エーテル』(2012年)に続く川崎の第四歌集である。題名の『あんなろいど』は作者の名「あんな」と、「類似したもの」「まがいもの」を表すギリシア語源の接尾辞 -oid を合成したもの。android, humaoid, celluroid のように用いる。つまりは作者そのものではなく、作者の類似品ということである。本歌集もあとがきなし、作者のプロフィールなしの徹底した〈私〉の消去が貫かれている。
   『エーテル』について2012年に批評を書いたところ、ややあってご本人から簡潔なお礼の電子メールが届き、前後して美術本が送られてきた。彫刻の写真集である。これにより川崎あんなは彫刻家であることを知った。ただしこの写真集も解説なし、プロフィールなし。開いてみると石膏の塑像が多い。中にはポンペイの遺跡で見た人体像のような塑像あり、聖母マリアを思わせる像もあり、ジャコメッティのような細長い像もある。そのすべてが永遠に未完成の雰囲気を漂わせ、紺碧のエーゲ海の底から引き揚げられたかのような風情である。
 前回『エーテル』について書いたとき、「評価に迷う一冊である」という吉川宏志の書評に言及し、独特の言い差し感は平井弘に学んだものだろうと書いたが、浅薄な見方だったと思う。ここまで来ると誰かに学んだものではなく、川崎独自の生理に基づく語法なのだろう。そう思えるほど類例のない統辞である。いくつか引いてみよう。原文は旧仮名遣いで本字なのだが、パソコンの制約で新字にせざるをえず、大いに興趣を損ねるのだがご容赦いただきたい。
線香のけぶりながるるそのさまの 見るともなしに見てゐるものの
うつせみのひとは冠れる夏帽子、鍔はさえぎるふづきのひかり
ダイヴするひとは見えゐつ八月の昼をう゛いんせんととおます橋を
不思議といへばふしぎにて口にするやなぎはらみよこさんちのぷらむ
塩まみれとなりし超瓜しろうりの仕立てられむとしつゝ其のとき
昏睡のひとのかたはらをゐるのも二三分のこと。それよりはむしろ
 歌の意味内容が希薄であればあるほど表現部(シニフィアン)が前景化し、意味の錘から解き放たれた音と文字が定型の空間を漂うかのごとき印象がある。かと思えば現実と対応する歌もあり、三首目のヴィンセント・トーマス橋は2012年に映画監督のトニー・スコットが投身自殺した場所である。
まつぷたつにせかいはれて〈おやき〉からあふれた油炒め野沢菜の
せしうむのすとろんちうむのおびただしくふるなかをする湖畔のさんぽ
感覚にそらはめくられ 清浄の夜をふりしきる千の星々
 これは福島第一原発事故を詠んだ歌で、一首目の「おやき」は爆発した原子炉の喩だろう。集中で特に美しいのは次のような歌である。
パラソルはやゝかたぶけて立ちをりぬ復たあゆみ出でるまでのあはひ
サングラスしづかに措かれ いちはやく夕暗は来む黒いレンズに
渉りつゝ目にうつりをるぎんいろを川の小波とおもふまぼろし
樫の木と樫の木のあひだ翔びながら夕空にするそらのぶらんこ
絡まりてフェンスに咲ける昼顔の昼を見えないひかりのやうに
透明もて此のせろふぁんは隔てをる花束のうちと花束のそと
 これらの歌に共通するのは「非在に注ぐ眼差し」である。三首目の小波のまぼろし、四首目の空のぶらんこ、五首目の不可視の光のように咲く昼顔、六首目の透明セロファンなどはいずれも非存在の存在であり、このようなものが作者の心を捉えて離さないのである。自在な古語の使用もあいまって、古典和歌の世界にも通じるものがあると言えるだろう。

第106回 川崎あんな『エーテル』

思ひきり苦いやさうは刻み込むどれつしんぐのはるさらだなる
                 川崎あんな『エーテル』
 何事に出会うにも予備知識なしの出会いに及くものはない。この歌集を知ったのは、砂子屋書房のいつも元気なタカハシさんから送られてくるメールマガジンだった。歌集の紹介とともに歌が二首引かれていて、おやっとすぐに目を引かれた。その歌人の個性を見抜くには二首もあれば十分だ。さっそく版元から取り寄せたところ、期待を裏切らないすばらしい歌集だった。
 オフホワイトの無地の表紙に銀箔押しで歌集題名と作者名が記されている他は、一切装飾がない。あとがきも著者紹介もない。ないない尽くしでこれほど徹底して簡素な歌集も珍しい。寡聞にして作者の名にも聞き覚えがないのでGoogle検索してみたが、吉川宏志の書評がひとつあるだけで他にてがかりはない。歌歴も結社に所属しているかどうかもわからない。唯一知り得たのは、著者には『あのにむ』(2007年)と『さらしなふみ』(2010年)という歌集がすでにあるということのみ。しかしそれは作品の鑑賞に不便であるどころか、予備知識なしに純粋に作品と対峙することを可能にする理想的状態である。歌集外形からの〈私〉の徹底した消去は作者自身が望んだものだろう。
 さて、作者の作風だが、それは掲出歌によく表れている。基本の文体はゆるやかな定型意識に基づく文語・旧仮名文体で平仮名を多用している。上句はほぼ定型を遵守するも、下句に至って坂道を転がり落ちるように定型が崩れ字余りとなって、結句は動詞の連体形か連用形で止める歌が多い。掲出歌は字余りにはなっていないが、意味より音が勝っていることは感じられよう。新仮名で漢字に直すと「思い切り苦い野草」とは料理に用いるハーブのこと。下句は「ドレッシングの春サラダなる」だろう。最後の「なる」は「出来上がる」という意味の動詞「なる」の終止形ではなく、断定の助動詞「なり」の連体形と取りたい。「はるさらだなる」は解釈の多義性をたゆたうことで音の側面を浮上させる。カルタヘナ、サンタンデル、アルヘシラスなどに混じったらまるでスペインの地名のようにも響く。歌集から歌を引くが、パソコンの制約で旧漢字(本字)にならないのはご容赦願う。
すううつとエボナイトいろの線條痕のこして空は鳥の渡りに
ぷはぷはの王女まるがりいたのスカートをめくりてを弾くら・かんばねらは
やすみなくする波音にうたふやうにかんたあびれにうたふやうにかんたあびれに
こんなにもしづかでたれも居ないならとゞめをさしに来るものの夕は
かめりあとあめりかはする戦争のオイルせんさうかるいのりの
匙にすくふ紅茶のりやうの些細なるそんなことにまよひしときの
 一読して抱くのは「女手のかな文字言葉」という印象だ。前にも書いたことだが、仮名は漢字よりも読字時間が長い。漢字はパターン認識で音の層を経ずに一挙に意味に到達するが、仮名は「子音+母音」から成る音節文字であるため、日本語モーラの等拍性の原則に従って、飛び石を伝うように均等に進む。このため読者はより長く一首の中に留まることになる。加えて平仮名の連続により文節の区切り目がわからなくなり、切れ目を探して行きつ戻りつするため、さらに長く滞留する。上に引いた三首目がそのよい見本だ。作り手の側からすれば、これは一首の中に流れる時間を自在に操作することになる。
 現代言語学の父ソシュールが明確に述べたように、言語記号はその表現部(シニフィアン)と意味部(シニフィエ)という2面を貼り合わせたメダルのようなものである。表現部は書き言葉では文字、話し言葉では音だが、短歌の場合、たとえ紙面に印刷されて書き言葉の観を呈していても、その受容時に音に変換される。吉川宏志によれば、私たちが短歌を黙読しているときにも、声帯や咽頭などの発語器官はかすかに動くという。
 明治以来の近代短歌の方向性をざっくり言えば、短歌を構成する記号の意味部を重視し表現部をできるだけ透明にする試みだと考えられる。短歌は「いきのあらはれ」として感動の直接性を求めた。このため枕詞・掛詞・縁語・言葉遊びなどは、感動の直接性を損なう表現部の余剰として排除されたのである。
 ところが川崎の歌を見ていると、まるで脱近代をめざして歌の記号の表現部の復権を試みているようにも見える。表現部がぶ厚くなれば、相対的に意味部は薄くなる。だから詠われているのは激情ではなく、日常のごく些細な心の揺らぎをていねいに掬い上げるという作風になる。たとえば上に引いた最後の歌は、紅茶を淹れようとして茶葉をスプーンで掬ったときに、茶葉の分量に迷ったという日常の些事を詠っており、意味部にそれほどの重みはない。
 このような川崎の作風が、前衛短歌と80年代のニューウェーブ短歌による修辞の復権の影響下にあることはまちがいない。なかでも私が影響を感じるのは平井弘である。平井の歌の魅力は下句の何とも言えない「言いさし感」にある。
倒れ込んでくる者のため残しておく戸口 いつから閉ざして村は
                      平井弘『前線』
手をとられなくてもできて鳩それももう瞠きっぱなしの鳩を
草原にくさむすもののなきことのそれにしても兎たちのほかにも
 結句を言い納めずに言いさしにおくことで、歌の終結感が希薄になり余情を後に残す。「言われなかったこと」が後に漂い続ける。川崎は平井から多くを吸収したものと思われる。
うすいうすいみどりにけぶるフェンネルのやうにさえぎるま夏の御簾は
巾廣のぬばたまの黒ぐろぐらんりぼんは巻かれ 夏の中折れ
こんな夜は******アスタリスクが墜ちてきて朝は見つかるだろう地面に
みなしたふネオンテトラの満水のテレビのなかをいましおよげる
せうぢよらは木陰に憩ふ埋め込みしICチップを見せあひながら
めぐすりをさしてうるほふしらうめの 目のなかいまし映るしらうめ
  一首目の「御簾みす」や二首目の「中折なかおれ」は若い人にとっては死語だが、古典の世界とノスタルジーへつながるアイテムである。二首目には「黒ぐろ」から「ぐろぐらん」に続く言葉遊びがある。三首目の*の連続には「アスタリスク」とルビが振られていて記号短歌風なのもニューウェーブ短歌を思わせる。五首目は近未来SF風だが、近未来と古風な旧仮名の対比がおもしろい。かとおもうと「ぬばたまの」「みなしたふ」などの枕詞も登場し、なにやら平安朝の歌人が現代に甦ったような観もある。
 六首目に注目したい。この歌の前には「めぐすりをゆふべはさしぬ少しまへ見ししらうめの映れるこの目」という歌が置かれている。どこかに観梅に行った後、帰宅して疲れた目に目薬を差しているのである。これを受けての六首目だが、潤った目に今まさに映る白梅とは美しい残像であり、そこに時間の経過を感じさせると同時に、もう目の前には存在しない白梅を現前させる非在の美は古典に通じるものがある。
 吉川宏志は青磁社の時評で『あのにむ』を取り上げて、「評価に迷う一冊である」と書いている。その理由は川崎の短歌における〈私〉の消去にあり、「〈私〉を消していくと、『なぜ歌うのか』という問いを抱え込むことによって生まれてくる迫力を失うことになる」からだとしている。吉川は近代短歌の本流に位置しているので、そのように思えるのだろう。しかしながら、「フェンネルのやうにさえぎるま夏の御簾」の影にちらちらと揺曳する〈私〉が川崎の短歌にないわけではない。抑制され淡いながらも、日々の小さな心の揺れを薄浮き彫りのように表現する。そんな短歌があってもよいのではないだろうか。
 最後になったが造本と活字に触れておきたい。いつもながらの砂子屋書房の美しい造本で、今では珍しくなった活版印刷も好ましいが、特に活字がよい。この活字は紀野恵の『架空荘園』『午後の音楽』など一連の歌集でも用いられていた趣のある活字だ。砂子屋書房のタカハシさんに何という活字かおたずねしたところ、「イワタ明朝です」という答を得た。作者の美意識は活字にまで及んでいるようだ。