夏さびて知らぬふりする月の頃ピアスをもとな揺らす間夜
廣庭由利子『ぬるく匂へる』
廣庭由利子は歌誌『玲瓏』と『未来』に所属する歌人で、『ぬるく匂へる』(2016)は『黒耶悉茗』(2014)に続く第二歌集。塚本青史の帯文によると、廣庭はわずか入会2年で玲瓏賞を受賞したという。才人であることはまちがいない。
改めて掲歌を見ると、相当に凝った造りであることがわかる。「夏さびて」は晩夏となり夏の勢いが衰えたさまを言う。「知らぬふりする月の頃」はいささか解釈に悩む。「知らぬふりする」の主語を「月」と取ることもできなくはないが、ここでは表現されない〈私〉とする。〈私〉が知らぬふりする、つまりわざと素っ気なくするのである。「もとな」の原義は「根元から」で、転じて「大いに」の意。ピアスが大いに揺れるのだから心が乱れているのだ。もとより〈私〉は恋する女性である。「間夜」は逢い引きの間を隔てる時間、つまり恋しいあなたと会えない夜のこと。読み下すと、「夏に燃え上がった私の恋は、夏の終わりとともに勢いが衰えて、私は素っ気ない態度を取っているが、熾火のように燻る恋心はまだ消えず、あなたと会えない時間に心は乱れる」とでもなろうか。まるで一編の短編小説のように31文字から物語が立ち上がる様に驚かされる。動詞を「さぶ」「知る」「振りする」「揺らす」と4つも使っているにもかかわらず詰め込んだ感がないのは、よほど統辞の技術が巧みだからである。技巧派と呼んで差し支えなかろう。
歌集を一読して脳裏に浮かぶキーワードは、「美」「古典」「自然」「物語」「韻律」となろうか。「美」を追求するのは塚本邦雄譲りの芸術至上主義を掲げる『玲瓏』の伝統で、「古典」に親炙することもまた塚本の遺産。自然との交感は文学に限らず日本の芸術の大きな特徴であるが、本歌集でも一首ごとに自然が詠み込まれている。著者は歌の素材と感興を求めて吟行するのが好みのようで、湯布院、知多、東北、伊勢、六甲山、京都と足を運んでいるが、視線が向けられるのは決まって自然、とりわけ草花である。
改めて掲歌を見ると、相当に凝った造りであることがわかる。「夏さびて」は晩夏となり夏の勢いが衰えたさまを言う。「知らぬふりする月の頃」はいささか解釈に悩む。「知らぬふりする」の主語を「月」と取ることもできなくはないが、ここでは表現されない〈私〉とする。〈私〉が知らぬふりする、つまりわざと素っ気なくするのである。「もとな」の原義は「根元から」で、転じて「大いに」の意。ピアスが大いに揺れるのだから心が乱れているのだ。もとより〈私〉は恋する女性である。「間夜」は逢い引きの間を隔てる時間、つまり恋しいあなたと会えない夜のこと。読み下すと、「夏に燃え上がった私の恋は、夏の終わりとともに勢いが衰えて、私は素っ気ない態度を取っているが、熾火のように燻る恋心はまだ消えず、あなたと会えない時間に心は乱れる」とでもなろうか。まるで一編の短編小説のように31文字から物語が立ち上がる様に驚かされる。動詞を「さぶ」「知る」「振りする」「揺らす」と4つも使っているにもかかわらず詰め込んだ感がないのは、よほど統辞の技術が巧みだからである。技巧派と呼んで差し支えなかろう。
歌集を一読して脳裏に浮かぶキーワードは、「美」「古典」「自然」「物語」「韻律」となろうか。「美」を追求するのは塚本邦雄譲りの芸術至上主義を掲げる『玲瓏』の伝統で、「古典」に親炙することもまた塚本の遺産。自然との交感は文学に限らず日本の芸術の大きな特徴であるが、本歌集でも一首ごとに自然が詠み込まれている。著者は歌の素材と感興を求めて吟行するのが好みのようで、湯布院、知多、東北、伊勢、六甲山、京都と足を運んでいるが、視線が向けられるのは決まって自然、とりわけ草花である。
春うつつ紫羅欄花の花園をとびかふ蝶はひらかなに似て
咲き盛る牡丹の花の傍らをぬき足に過ぐけふのまひるま
あぢさゐは過去世の花ときめしよりあの日の深き藍を畏るる
さみどりの梅雨は晴れ間の蔓草のさやぎに萌すおもひのけぶり
千の接吻投げて散りゆく合歓の花蘂にのこる昨夜の夢解き
一首目の「あらせいとう」、二首目の「牡丹」、三首目の「あじさい」、四首目の「蔓草」、五首目の「合歓」とほとんど一首ごとに草花が詠み込まれていて、さながら花園のごとき観を呈する。また「物語」は著者が古典に親炙しているためで、至る所に万葉や新古今の影が揺曳する。
しかし特筆したいのは「韻律」である。五・七・五・七・七の中で歌の要となるのは三句目の五音である。三句は上句と下句を繋ぐ蝶番の役割を持ち、上句の五・七の内容を受け止め、それを下句の七・七へと受け渡す。韻律的には五・七で生じた急のリズムを五で緩めて、再び七・七の急へと振り向ける。例えば集中の次の歌を見てみよう。
しかし特筆したいのは「韻律」である。五・七・五・七・七の中で歌の要となるのは三句目の五音である。三句は上句と下句を繋ぐ蝶番の役割を持ち、上句の五・七の内容を受け止め、それを下句の七・七へと受け渡す。韻律的には五・七で生じた急のリズムを五で緩めて、再び七・七の急へと振り向ける。例えば集中の次の歌を見てみよう。
土の上の花の蘂踏みやはらかくけぶる暮春の月を見てゐる
土の上に降り積もっているのは桜の花の蘂である。三句の「やはらかく」は統辞的には次の「けぶる」に掛かる連用修飾語だが、意味の上では上句の踏んだ蘂の感触をも表している。「やはらかく」が五・七を受け止め軽い淀みを作って、次の七・七へと繋げるところに短歌の内的韻律が生まれる。作者はこの点において実に巧みである。
帰りゆくひとの背中に夕まぐれ花咲く頃の色うばひつつ
くれなゐの夕日に黄色き罅ありてわが頬を焼く春のとまりは
蕚にも胸にもしづくする雨に蒼き影おく春のぬけがら
九輪草べにむらさきに咲き群れて花のいきれに野面かぎろふ 注)
やはらかく灯ともる車輌に花首の折れたる薔薇を持つ男あり
印象に残った歌を挙げた。廣庭の歌のもう一つの特質は、歌に詠まれた情景、特に時間と場所の指定が明確なことにある。例えば一首目、季節は桜の花の頃、時間は夕暮れ、場所は自宅だろう。日が暮れてあたりが薄暗くなり、桜の花の色がモノクロに推移する様が詠まれている。二首目の舞台はどこかの港である。季節は春で時刻はこれまた夕暮れだ。三首目も春だが時間は不明。四首目、九輪草が咲くのは初夏で、野面がかぎろうのだから、時間は昼間である。五首目の季節は分からないが、時刻は夜、場所は電車の中である。この歌は特に物語性が強く感じられる。花首が折れた薔薇の花束を持つ男にいったい何があったのだろうと想像力をかき立てられる。
最後に一番印象に残った歌を挙げる。
最後に一番印象に残った歌を挙げる。
けいとうげ冠はこぶしのほどをして剪ればいつとき虚の明るさ
鶏頭の花は鶏のトサカのような形状をしていて、確かに花としては大きい。庭に咲いた鶏頭の花を花鋏で切る。すると鶏頭の花の分だけ下から見る空が広くなり、空が明るく見える。人為と自然のつながりを感じさせると同時に、静謐な時間が描かれている佳品である。
注)「いきれ」は旧字で表示できないのでご容赦いただきたい。
注)「いきれ」は旧字で表示できないのでご容赦いただきたい。