第110回 徳高博子『ローリエの樹下に』

ゆふぐれの庭に佇つ犬尾を振れりわれに見えざるものに向ひて
               徳高博子『ローリエの樹下に』
 著者は1951年生まれで、2000年の短歌研究新人賞に「革命暦」30首で応募して候補作に選ばれる。その後、「中部短歌」に入会して本格的に短歌の道に進む。師春日井建の死とともに「中部短歌」を離れ、現在は「未来」に所属。2001年刊行の『革命暦』に続く第二歌集である。跋文は著者がその選歌欄に拠る黒瀬珂瀾が書いている。
 歌集題名のローリエ(月桂樹)は、現在の住居に引っ越した折に狭庭に植えたものとあとがきにある。だから掲出歌の「ゆふぐれの庭」はローリエの茂る自宅の庭だろう。日常見慣れた光景である。しかし作者の眼差しは犬を通じて日常の風景を突き抜け「見えざるもの」へと向かう。これが作者徳高の身に深く根ざした逃れられぬ資質であり、その資質が歌集全編に色濃く揺曳している。
きまぐれな雲のひとひら日を閉ざし脆きわが界影を失なふ
また鬼になる番が来るたそかれは前を行くひと振り向くなゆめ
けふ君はわれを想はざりしか 肌冷えて 神あらぬ空は錆朱に染まる
あらたなる逢ひをおそれず海境に消えゆく船影見つめてゐたり
花の季は悲傷の形見 地に空に滅びしものの祈りは充ちて
 一首目、日が差すと地上に自分の影ができるが、雲が日光を遮ると自分の影は消える。当たり前のことである。しかし作者は雲に「きまぐれ」を見る。私たちの生は根源的な偶然性に投げ出されているからである。また自分の立ち位置を「脆きわが界」と表現する。偶然性に支配された生は急流を流れる木の葉のようなものだからだ。この歌だけでも、徳高の短歌が写実を踏まえながら、写実を突き抜けた見えない世界を指向していることが知れよう。二首目、夕暮れの町を歩いている光景である。しかし、たそがれは逢魔が刻。振り向いた人は鬼になっているかもしれない。三首目の「神あらぬ」は徳高の歌にしばしば登場する語句である。「神去りし世」と表現されることもある。見えざる手による救済を断ち切られ、実存へと投げ出された私たちの生の有り様を言い表す言葉だろう。美しいはずの夕焼けが滅びを暗示する「錆朱」と表現されている点にも目が行く。四首目、「あらたなる逢ひをおそれず」にはっとさせられる。ふつうは海の旅は新たな出会いに希望を膨らませて出立するものだ。それをこのように表現するというのは、作者が「あらたなる逢ひをおそれて」いることを意味する。その理由はおそらく出会いは別れ・喪失へとつながるからだろう。五首目、咲き誇る桜を見ても、作者の耳には滅びたものたちの祈りが聞こえるのである。
 このような作者の資質はすでに第一歌集『革命暦』に明らかに表れている。
あめつちのあはひは銀に昏みゆき係恋のごと風花の舞ふ
刻刻と死にゆくわれら愉しげに花舗にあふるる花束として
かの岸の空に茜に染まりしかフラミンゴ憩ふこの世の汀
 端正な言葉と語法でまとめられた歌で、第一歌集とは思えないほどの完成度の高さである。短歌研究新人賞に応募したときに、当時審査員だった塚本邦雄が一位に推したというのもうなづける。感情の基調は悲しみにありながら、それを表現する方法と語彙に華麗さがある。塚本ほどには幻視と修辞に傾かず、その一歩手前で留まってはいるが、どこかふと幽体離脱のようにこの世の縁を踏み越えるような眼差しが感じられ、それが歌に奥行きと深みを与えている。
 『ローリエの樹下に』には三つの重い別れが描かれている。母の死、父の死と、師春日井建との永訣である。
逝きてのちはじめて夢に逢ひし母サングラスをかけ微笑みてゐつ
起き伏しに死を語る人の傍にゐてはや死の後の見ゆるが如し
もののふの父逝きたれば斎場にしかばね衛兵として友立てり
ちちははが気となりて棲むこの部屋は吾に遺されし小さき隠れ家
葬送の皐月の空は美貌なり今生後生とほる光に
鉄線のむらさきはつか揺らす風いづこにもいます君と想はめ
 母親はすでに他界しているので、正確に言えば別れの記憶である。父親はかつて戦地に赴き、終戦後は画家として暮らしていたようだ。徳高の歌に物の色がきめ細やかに詠まれているのはそのせいかもしれない。最後の二首は春日井建への挽歌である。鉄線は春日井が好んだ花だという。
 私はかねてより短歌の本質は挽歌によく表れると考えている。それは挽歌には他者への呼びかけがあり、また挽歌の場合、それは失われたものへの呼びかけだからである。「見えないもの」への眼差しを持つ徳高にとって、いわばすべてが挽歌と言ってもよいかもしれないが、特に肉親や師への挽歌に想いが籠もるのは当然である。
悲しみを狩る神ありて黒き九月銀翼ふたつ空に放てり
夏空に光のこゑを放ちつつ亡びつづけよ噴水のみづ
神在らぬ花降る朝かそかなる泉はありて耳そばだてる
群れてゐては生きてはゆけぬ鷺一羽いつしんに佇つ朝の汽水に
 特に印象に残った歌を並べてみたが、こうして見ると同じ基調を持つ歌であることがわかる。〈神〉 〈孤〉 〈悲〉という三つのキーワードで通分できる。〈神〉はキリスト教の神ではなく、〈私〉を超える超越的存在である。悲しみを狩る神、亡び続ける噴水、異界に耳をそばだてる泉、汽水に立つ鷺。作者はこれらを通してこの世に生きるべく定められたわれらの実存を見つめているのである。