針先は蟻酸したたり濡れながら
くまん蜂ひとつ空よりくだる
恩田英明『白銀乞食』
一見すると徹底した写実の歌で、〈私〉の感情が入る余地はない。一首から〈私〉は消去されており、外界の〈現実〉だけが詠まれているように見える。しかしそれはまちがった印象である。結句の「空よりくだる」は方向性を持つ述語であり、地面に位置し上を見上げて情景を眺めている観察者の存在を前提とする。認知言語学者ラネカーの云う言語表現における〈主観化〉subjectification の好例だが、ここで言いたいのはそのことではない。蜂の針先から滴る蟻酸の一滴が、そんな距離から肉眼で見えるはずがないということである。離れた所から見えるはずのない細部が克明に描かれることによって、一首が立ち上げる視覚的イメージはハイヴィジョン並みの解像度を獲得する。同じ一枚の絵のなかに、部分的にクローズアップされた拡大映像が嵌め込まれているかのような印象と言ってもよい。ふつう肉眼で観察しているときには、焦点の当たっている近くの物は鮮明に見え、焦点から外れている遠くの物はぼやけて見える。これが通常の視覚である。しかるに掲出歌はあたかも視野のすべてに焦点が当たっているかのような鮮明度である。現実にはこのようなことは起こり得ない。だからこの方法でリアリズムを追求すると、逆説的ながら現実には有り得ない魔術的なマジック・リアリズムを生みだしてしまうのだ。だから恩田の作る歌のリアリズムは素朴な写実ではなく、技巧と想像力が生みだしたものである。
恩田英明は1948年 (昭和23年)生まれ。「コスモス」で宮柊二に師事したのち、「うた」に移っている。『白銀乞食』は1981年刊行の第一歌集。他に『人馬藻』『壁中花弁』の二歌集がある。ちなみに『白銀乞食』は「しろがね・かたい」と読む。選歌を依頼された宮の命名だという。白銀は雪のイメージではなく、桜花にちなむものだそうだ。「コスモス」は北原白秋の「多摩」の衣鉢を継ぐ歌誌だから、恩田のリアリズムがアララギ系の写実と位相を異にするのもうなずける。
1971年に「コスモス」に入会して10年後に上梓された第一歌集だが、収録された歌の完成度は高い。高すぎるほどである。
緑金の胸夕風にたちむかひ孔雀は冬の園を歩める
産卵に河遡り海潮の香を残す鮭雨に打たるる
蒲の葉の茂りのあはひ日の辻を間なくひそかに漣匂ふ
馬上盃を掲げ立ちつつ干さむとぞして火明りに照らし出さるる
古典的な歌語を駆使する措辞の確かさもさることながら、恩田の歌が描き出す光景は常にピントがぴしっと決まっていて過不足がなく、場面設定が明確で茫洋・難解であることがない。一首目は巻頭歌で自信作と思われるが、映像鮮明で描写にかすかな矜持を含む。これらの歌で視覚の優位は揺るがないが、聴覚・嗅覚にも訴えるため、時間・空間に加えて音・光・匂いがフルセットで動員されている。これが歌の中に深い奥行きを与えている。また二首目の潮の香りや三首目の漣の匂いのように、感覚にかすかにしか届かないものを掬い上げるところがマジック・リアリズムの面目躍如である。また四首目では歌の中に光源を配置することにより、レンブラントのような陰影の効果を上げていることも注目される。
時間・空間と音・光・匂いがフルセットで動員されて、歌の中に広大な空間を作り出すことに成功している歌がよい。次のような歌である。
寒々と月照りわたる空なかばひとひらの雲消えて跡なし
パナマ帽くるくるまはりかがやけり昼更(ひるふけ)にして蒼穹のもと
海の辺は遠くに人語 鯵刺の一羽浮けたる空ふかきかな
とのぐもる沖つ辺暗き鳰の湖いづべともなく鳥が音きこゆ
塩焼の潮汲み海人ぞ遠く見ゆ鄙の浜辺の「須磨明石の図」
なめらかにすりつつ墨の「鉄斎」の香はたちわたる秋夜(しうや)すがらに
例えば一首目では一度登場させた雲片を最後に消すことでかえって空の広さを感じさせる。二首目のかすかなノスタルジーを感じさせるパナマ帽と蒼穹の対比も鮮やかである。三首目では「遠くに人語」と音を導入することで距離感を生みだしている。五首目は展覧会の出品作品を詠んだ歌だが、ここにも絵の中に巧みに遠近感が演出されていることに注目しよう。六首目では墨の香りに「たちわたる」という移動を感じさせる古典的な動詞を用いることで、秋の夜の空間的拡がりと静けさを作り出すことに成功している。しかし次のような歌はどうだろうか。
空なかば富士の嶺より雪煙(せつえん)の片なびきつつ日の輝りわたる
ふつふつともの沸く泥にあたらしき蓮の葉浮かぶ露の珠置きて
一首目では「片なびきつつ」という的確な措辞が冴えているが、あまりに完成されすぎた一幅の絵のように見える。また二首目では泥田に浮かぶ蓮の若葉に最後に露の珠を配することで絵として完成するが、ここまで破綻がないと逆に嘘くさい感がすることも事実であり瑕疵と見る向きもあるだろう。
このように恩田の歌はマジック・リアリズムによる抑制の効いた叙景歌が中心だが、抒情に傾いた歌もないわけではない。
握りたる蝉鳴かせつつ水際ゆく少年ひとり昼のふかきを
青年のとき過ぎにつつ春昼を落花限りなししばらく酔はむ
夜の卓に桃剥きてをりしくしくと青春晩期の痛む指もて
口付けてなにか危ふし笑み割るる柘榴(せきりう)は種子こぼれむとして
わが愛(を)しき背(せな)を晒してゐたりけり汝碧色(あをいろ)の蜥蜴のやうに
最初の三首は青年期特有の憂愁がテーマであり、残りの二首は性愛を含む相聞だが、ここでも恩田は抑制の効いた描写を外れることがない。恩田は人事を詠むこと少なく、その眼差しは主として世界のなかでの自らの生の確認へと注がれているようである。
藤原龍一郎は『短歌の引力』のなかで、「自分はなぜ短歌に魅かれるのか」と自問し、それは短歌を読んで興奮と慰藉を得られるからであり、作者が挑発と感傷を一首のなかに仕掛けた時に得られることが多いと述べている。例えば「せつなしとミスター・スリム喫ふ真昼夫は働き子は学びをり」(栗木京子)では、表面上は上句が挑発で下句が感傷だが、意味を読み込むと逆転して上句が感傷、下句が挑発になるとしている。現代短歌の前線を疾駆する藤原には、短歌の刺激としての挑発が不可欠の要素で、それは都市詠を主軸とする藤原独自の抒情観に立脚している。
このような短歌観に照らせば、恩田の歌には挑発に該当する要素がほとんど見られないので食い足りないと感じられるかもしれない。それでは短歌を読むときに求める興奮と慰藉が得られないかというと、そんなことはない。恩田の短歌のようにぴしっとピントの合った的確な描写によって時空間が立ち上がるとき、私たちはそれまでのぼやけた目では見たことのない世界の現出を目の当たりにする。私たちがどのような世界に生きているのかを改めて実感することができる。歌に導かれて私たちが新たな眼差しを獲得するとき、世界の豊かさと私たちの生の有り様に思いを致すことになる。これもまた短歌を読む静かな喜びだろう。