第247回 惟任将彦『灰色の図書館』

ああここにも叫び続けるものがゐるほどけつつある靴紐たち

惟任将彦『灰色の図書館』

 間投詞「ああ」で始まる初句六音で「ああここにも」と言っているのだから、靴紐の他にも叫び続けているものがいるのだ。それが何かは歌の中では明かされていない。しかし近現代の短歌は最終的に〈私〉へと収斂するものとされているので、その伝で行けば叫んでいるのは〈私〉だろう。〈私〉は叫びたいような境遇に置かれているのである。そんな〈私〉が下を見ると靴紐がほどけかけている。靴紐が叫んでいるように感じるのは、ひとえに〈私〉の感情転移によるものだ。靴紐という地味なアイテムに注目して歌中には表れない〈私〉を詠むのは、ある意味で近現代短歌の王道である。

 惟任これとう将彦は1975年生まれ。「玲瓏」所属の歌人で、2018年度の玲瓏賞を受賞している。『灰色の図書館』は今年 (2018年)の8月に書肆侃侃房の新鋭短歌シリーズとして刊行された第一歌集である。監修と跋文は林和清。林の跋文によれば、惟任は塚本邦雄が教授を務めていた近畿大学の学生だった時に、塚本の知遇を得て大学内の歌会に出るようになり短歌を作り始めたという。

 本歌集の全体を通して流れているのは、「書物への愛」と「孤独」である。

窓に星座の映る真夜中を読むわれもいつしか本と変はりて

仕事帰りの人々集ひ帰るまで束の間過ごすコルシア書店

待ち切れず河川敷にて本を読む少年のランドセルのみどり

灰色の図書館訪ふ白髪のホルヘ・ルイス・ボルヘスたちが

本抜けば向かう側には目がありてわれの背後を覗き込みをり

 一首目、おそらくは昼間の仕事を終えて夜中に読書しているのだろう。読んでいるうちに本と一体化して自分も本になってしまう。二首目は須賀敦子の出世作『コルシア書店の仲間たち』を踏まえた歌。三首目は新しい本を図書館から借りて家に帰るまで待ちきれず、河川敷に腰をおろして読み始める子供。「少年のラン/ドセルのみどり」と句跨がりになっている。四首目は歌集題名が採られた歌。もちろん幻想だろう。ボルヘスには『バベルの図書館』という短編がある。五首目は現実の図書館で、開架図書を一冊抜き出すと空間でできて、その隙間から向こう側の人がこちらを覗いているという光景である。書物と図書館に思い入れのある人は「うん、うん」と頷くだろう。岡崎武志の『蔵書の苦しみ』や草森紳一の『本が崩れる』にも描かれているように、書物好きも高じると大変なことになるのだが。

 一方、「孤独」は本歌集の多くの歌の底に静かに流れているが、たとえば次のような歌に明らかである。

ファミリーレストランにて一人友人と言ふべき本と語らふ時間

沸騰を知らせる湯気が上がるまで俺は薬缶に語り続けた

かなしみをはらみ海文堂書店ブックカバーの帆船進む

 海文堂書店は神戸市の元町商店街にあった実在の書店である。神戸は港町なので、海事関係の本を揃えていた。だからブックカバーも帆船なのである。書店ごとに独自のデザインのブックカバーを掛けてくれた時代が懐かしい。

 著者は野球が好きで自らマラソンにも出場するようだ。野球の歌から引いてみよう。

愛ゆえに女房役と呼ばるるかホームにて待ち構へる捕手は

三つのベースに人満ち風が砂が舞ひ打者、野手、客は投手ピッチャーを待つ

三塁線切り裂いてゆく白球を追ふアルプスの二人のゆくへ

 正岡子規が野球を好んだことはよく知られていて、「久方のアメリカひとのはじめにしベースボールは見れど飽かぬかも」という歌がある。しかし『岩波現代短歌辞典』にも『現代短歌大事典』(三省堂)にも立項されていない。『現代短歌分類集成』を見ると項目があり、子規の他にも野球を詠んだ歌があることがわかる。

すはとばかり総立ちとなればライト線僅かにそれて惜しやまたファウル  大悟法利雄

たてつづけに痛打浴びたる少年投手汗拭うさまは人生思わす  橋本喜典

 とはいえ野球を詠んだ歌はそれほど多くはなかろう。ラガーマンだった佐佐木幸綱のような例外はいるが、短歌を作る人は文弱の徒が多いためか、スポーツはあまり短歌の素材になっていない。惟任はスポーツを好む人のようなので、スポーツを素材とした歌をもっと作ってもよかろう。村野四郎の『体操詩集』のような傑作もあることなのだから。

 さらにもっと作ればよいと感じるのは、外国人が学ぶ日本語教室の歌である。惟任は日本語教師を生業としているのだ。

日本語学校入学式後の喫煙所HOPEを胸いつぱい吸ひ込んで

書き取りの最中同時に消しゴムを手に取りたるは劉氏と孫氏

ドミニクのキムを励ます日本語がこの教室の主題歌となる

アジア系、欧米系、アフリカ系の人々と擦れ違ふたまゆら

 日本語教室はさまざまな異文化がぶつかる場であり、同時にさまざまな言語が交錯する場でもある。外国人に日本語を教えてみればわかるが、「壁に地図がかかっています」と「壁に地図がかけてあります」のちがいを説明するのはそうかんたんなことではない。教室での葛藤や逡巡や軋轢を日々感じているだろうから、もっと歌にしてもよいのではないか。また上に引いた歌では「本と語らふ」とか「白球を追ふ」とか「胸いつぱい吸ひ込んで」のような既成の措辞が目立つのも気になる点だ。

 よいと思うのは次のような歌である。

青野にて首絞めし友鉄槌(かなづち)の木殺し面をわれに向けをり

走る吾のからだは海へ溶けゐつつあらむ播州加古の川沿ひ

遠街おんがいの火事にも火災報知器が鳴り響きたる飲食おんじきのとき

だしぬけに動き出したる電動の剃刀父の帰宅知らせに

顔面の皺がワイシャツ、背広へとつながる男吊革持てり

青き闇の砂丘歩めり燃え上がる二瘤駱駝の十四、五頭が

 一首目は夢か幻視の歌だろう。「木殺し面」という言葉を初めて見た。辞書には載っていないが、建築現場で使われているらしい。「殺し」という言葉が歌に迫力を与えている。二首目、兵庫県の加古川は作者が暮らしている場所だろう。体が溶けるようだという体感と具体的な地名の取り合わせが歌を支えている。三首目の「遠街」も辞書にはない単語だ。調べてみると葛原妙子の歌が出て来るが、もともと中国語のようだ。「遠街」と「飲食」という文語が並び、しかも「オン」の音で韻まで踏んでいる。四首目、「父の帰宅」が不穏に感じられるのは、電動シェーバーがひとりでに作動したからである。もちろん作者は生活派ではなくコトバ派の歌人だから、この「父」も現実の父親ではない。五首目は通勤風景の歌で、背広に皺が寄っているのだから、朝の通勤電車ではなく夜だろう。皺が顔からシャツや背広にまで続いているというのがおもしろい。六首目も幻想の歌。ラクダが14、5頭いるといえば、ただちに正岡子規の「鶏頭の十四五本もありぬべし」という句が思い浮かぶ。ひょっとして子規へのオマージュか。しかしこちらは鶏頭ではなく燃え上がるラクダである。

 本好きだけに固有名詞が登場する歌も多い。

ある時はホームズのごと謎を追ひダートムーアへと向かはん心

砂漠の町に巨体の男ギルバート・キース・チェスタートン辿り着く

「いらないわ。ほしくないのよ」日本語で話すビデオのスカーレットは

殺し屋のアントニオ・ダス・モルテスがライフル構へ火を噴くまでに

エルキュール・ポワロ瞳に物語紡ぎたる目礼のたびに

 とはいえ固有名詞の使用にあまりひねりがなく、それほど効果を発揮していないのが残念だ。固有名詞の歌と言えば藤原龍一郎に止めを刺すが、藤原の場合は固有名詞が時代や世相のシンボルとして使われているのが特徴である。今少し工夫が欲しいところだ。

 最後におもしろいと思った歌を挙げておこう。

ミサイルの飛び交ふ下を鯉幟あぎとふそれを目守まもるみどりご

回収車に投げ込まるるゴミ死は至る所に生きて口開きをり

炭酸水蓋まはすとき音がする人ひとり死ぬほどの音が

旋風に木の葉舞ひたるその内を透明なもの回り続けて

歩道橋やうやく下りたる先に蜻蛉(あきつ)飛び交ふクリシュナ書店