第259回 木ノ下葉子『陸離たる空』

「神の救ひ」見えぬ誰かに説く横で少年の送球宙繋ぎたり

木ノ下葉子『陸離たる空』

 掲出歌は不思議な歌である。「少年の送球」とあるので、公園か学校のグラウンドで野球かキャッチボールをしているのだろう。その場に神の救いを説く人がいる。布教は人の多い駅前などの街頭か、個別に家を訪問してすることが多い。公園で布教しているのか、あるいはミッション系の学校の一角で神父さんが生徒に話しているのか。いずれにせよ神の救いについて話している相手が視界の外にある。この場面の切り取り型が特異である。そして下句では一転して、少年がボールを投げる場面が描かれているが、「宙繋ぎたり」という措辞が秀逸だ。上句と下句は「横で」という場所句で接続されてはいるものの、両者が描く場面には同時にほぼ同じ場所で起きたという以外の関係性はない。にもかかわらず一首は緊密なまとまりを持って成り立っている。どういう発想から生まれたのか知りたくなるような歌だ。

 巻末のプロフィールによれば、作者は1980年生まれで「水甕」同人。『陸離たる空』は2018年に上梓された第一歌集である。版元は港の人。光森裕樹が歌集を出して以来、港の人は歌集出版に縁ができたようだ。今回も社の方針で帯はない。ちょっと変わっているのは栞文である。第一歌集を出すときには結社の主宰や重鎮メンバーに栞文を依頼することが多い。ところが本歌集の栞文を執筆しているのは岐阜女子大学教授の助川幸逸郎という人である。どうやら作者が助川教授の講義を受講したことが短歌の道に足を踏み入れるきっかけとなったようだ。

 まったく知らない人の歌集を読むときは、助走に少し時間がかかることが多い。なにしろ全然知らない人なので、どういうスタンスで作歌しているのかわからない。作者のスタンスにこちらの波長を合わせるチューニングの時間が必要となる。しかし『陸離たる空』は読み始めていきなり引き込まれてしまった。こちらの胸倉をぐいとつかむ力が木ノ下の歌にはある。巻頭から引いてみよう。

もう二度と逢へない人の貌をして或る日するりと降りてくる蜘蛛

空の底ぞつとするほど露出して逆上がりさへ無理せずできる

現在を過去へ押し遣るやうにして定まらぬ夜のアクセルを踏む

葉のあひに透けて見えゐる青いろを疑ひてみきそらと言ふもの

我がおもて体内よりも赤からむ完膚なきまで朝日を浴びて

 一首目、軒先から蜘蛛が糸を垂らして降りて来ることはよくある。しかしその蜘蛛が二度と会えない人のような顔をしているという見立は特異である。二首目は「ぞつとするほど露出して」という措辞が荒々しく迫力に満ちている。雲一つなく晴れ渡って天頂が深く見える様を描いているのだろうが、「ぞつとするほど」という形容によって禍々しいことにも見える。三首目、現在を過去へと押し遣るのは何か忘れたいことがあるからだろう。「今」を逃れたい。しかし〈私〉が踏むアクセルは踏み込みが定まらない。「定まらぬ夜の」の字余りが魅力的だ。四首目も不思議な歌だ。木の葉の間に見える青空を見て、これが本当に空というものだろうかと疑っている。どうやら作者には自己と周囲の事物への存在論的不安があるようだ。五首目は朝日を正面から浴びている場面である。体内をめぐる血潮よりも朝日に照らされている顔の方が赤かろうと詠んでいながら、実は作者の意識は体内の血潮の方に向かっているのではないか。いずれも発想のおもしろさ、措辞の大胆さ、視点の独自性が感じられる歌である。木ノ下の詩魂はまぎれもない。

特急のパンタグラフの削りゆく西つ空より血汐したたる

水無月の雨はあまねし電柱に後から濡れる面のありたり

阿弥陀籤辿りてゆけば枯れ枝はこたへ空へと投げ出だしたり

四枚の影を蜻蛉の翅のやうに羽ばたかせ蹴るナイトゲームよ

迫り上がるガラスの窓は運転席の君を消しつつ夕映えてゆく

繰り返し互ひの軌跡を消し合ふもひとつところへ帰るワイパー

 一首目のパンタグラフが空を削るという発想が独特だ。血汐がしたたる西の空はまるでムンクの絵のようである。二首目は発見の歌。吹き降りの時は雨が垂直ではなく斜め方向から降るので、電柱の雨が当たる面は濡れるが、反対側は濡れない。しかし風向きが変わるとその面もいずれは濡れる。「後から濡れる面」に発見があり時間が内包されている。三首目は枯れた木の枝を下から上に辿る阿弥陀くじに見立てている。木の枝の阿弥陀くじを辿ってゆけば、あるいは探している答が見つかるかという期待は裏切られる。結句の「投げ出だしたり」が絶妙の選択だ。作者の心の中には答の見つからない問があるのである。四首目はサッカーのナイトゲームの場面である。四方向から照明を浴びた選手の足元には自分の影が4つできる。それを蜻蛉の四枚の羽根に見立てている。「蹴る」の一語でサッカーの場面であることがわかるようにできているのも秀逸だ。五首目は視点の独自性が光る。開いている車の運転席の窓がゆっくりと閉じてゆく。すると窓のガラスに夕陽が当たり、ガラスは夕映えの赤に染まる。ここにも時間が閉じ込められており、また〈私〉が車の外にいる別れの場面であることもわかる仕掛けになっている。六首目も車の歌だが、今度はワイパーである。ワイパーが作動すると、フロントグラスに扇形の跡が残る。しかしその跡は反対側のワイパーが拭うことで消えてしまう。左右のワイパーはお互いの跡を消し合うのだ。しかしそのワイパーもスイッチを切ると定位置に収まる。おもしろい所に目を付けた着想の歌である。

 その一方で、次のように危ういバランスを感じさせる歌がある。

真つ直ぐなものの基準としてあをき水平線を心に持ちつ

海面をのたうつ光のくるしみを凪ぎゐるなどとゆめのたまふな

意志・希望の助動詞運用するきはに脳裏を過ぎる自動詞あるも

三本目の触角として我を刺す蝶標本の胸の虫ピン

蜘蛛の糸とは斯くも頼りなきものか白衣の袖より糸屑の垂る

 三首目の意志・希望の助動詞とは「む」で、脳裏を過ぎる自動詞とは「死ぬ」だろう。いずれも心のバランスの危うさを匂わせる歌である。あとがきによれば、作者は幼少期から胸の中に溜まるエネルギーのやり場に苦しんでいたということである。栞文を書いた助川も木ノ下の病に触れており、ここには引かないが入院加療の歌も収録されている。行き場のないエネルギーを短歌に振り向けることで、短歌は作者にとって「苦しみ方を変える変圧器」の役割を果たしているという。

 本歌集のあとがきを読んで改めて考えるところがあった。ひとつは短歌に選ばれた人がいるということである。木ノ下は心のバランスに苦しむ過程で短歌に出会った。その出会いは運命的なものであったにちがいない。木ノ下が短歌を選んだというよりも、短歌が木ノ下を選んだのかもしれない。もうひとつは短歌によって救われる人がいるということである。セーラー服歌人の鳥居の歌集を読んだときにも強く感じたことだが、短歌や俳句は家庭の主婦の習い事や退職老人の暇つぶしなどではない。文学には迷える魂を救済する力があるのだ。詩人の荒川洋治が『文学の空気のあるところ』で述べているように、文学は物の役に立たない虚学ではなく立派な実学なのである。『陸離たる空』を読むと改めてそのことに得心がゆく。

 最後に印象に残った歌を挙げておこう。

われが我に飽きくる心地ややありて夕べのバスに小銭を探る

ゴムバンド締まりてをらむ十字路の電信柱に供花のなき夜

ただなかを読点打たず走り抜け振り返るとき夏は句点だ

はららかぬやうに電線に搦めたし今年仕舞の秋虹ならば

水面に浮くもの何れも静もりてその影のみが揺らぎて止まず

銀色の差し出し口に手の甲を滑らせ放つ夏への手紙

世界地図挟みし塩ビの下敷きの端に肘つくボリビアの上

きみの名に忌と続ければ唐突に君は死にたり陸離たる空

校正の部屋の窓辺の百日紅ああイキてゐるそのママである

入口はこの白きドアのみなればいつの日か此処を出口となさむ

 九首目は言葉遊びの歌で、印刷原稿の校正作業をしたことのある人ならばわかるだろう。「イキ」とは、一度修正した箇所の修正を取り消して原文どおりに戻すこと、「ママ」とは「原文のまま」の意で、編集者から修正の提案があった時などに、「そのままにしてください」と指示するために使う。十首目は否が応でも喩としての読みを誘う歌だが、「この白きドア」とは何だろうか。病室のドアともまた短歌とも取れる。多様な読みを誘うのもまたよい歌である。