第340回 木下のりみ『真鍮色のロミオ』

軽やかに蝶白くいく灼熱の土にその影ひきずるように

 木下のりみ『真鍮色のロミオ』

 作者は1952年生まれ。「水甕」に所属し、『たゆた』(1999年)、『まんねんろう』(2010年)の二冊の歌集がある。『真鍮色のロミオ』は2022年刊行の第三歌集。栞文は小黒世茂と島田幸典が書いている。このコラムでは意識して若い人の歌集を取り上げているが、久々にベテラン歌人の歌集である。若い人の歌集を読んだ後でベテラン歌人の歌集を読むと思うところが多くある。それは後ほど書く。

 ちょっと不思議な歌集題名は「真夜中のガラスをたたくかなぶんぶん真鍮色の小さなロミオ」という歌から採られている。シェークスピアの戯曲ではロミオがジュリエットの家の窓に小石をぶつけるのだが、この歌ではガラスをたたくのはカナブンである。虫の来訪が日常的なくらい自然が豊かなことが知れる。歌集題名を見たとき反射的に思い出したのは塚元邦雄の次の歌だが、これとは関係がなかった。

ロミオ洋品店春服の青年像下半身なし***さらば青春

                  『日本人霊歌』

 さて、木下の作風だが、きっちりとした定型に端正な口語(現代文章語)に少し文語(古文)が混じるという現代の歌人の多くが採用している文体である。身めぐりのさまざまな出来事を定型に収める手腕はさすがベテラン歌人で、安心して歌に身を委ねて読み進めることができる。読んでいて感服するのは、日常のさまざまな事柄に注ぐ眼差しの確かさだ。

目の端のセンニチコウにそっと触れ揺するものあり盆の夕南風はえ

試着する春服はみどりやがて来る季節のすみにたたみ皺あり

いさなとり浜の小さなスーパーに四角く切られし鯨が凍る

オオカマキリはふと現れてとみこうみ見尽くししのち思いに沈む

野火目守る男らは面ほてりつつ影となりゆく煙の中に

 一首目、庭先か野原にセンニチコウが咲いている。ややあって花と茎がわずかに揺れる。夕方になって南風が立ったのだ。季節は八月である。二首目、春を迎える準備をしていて、緑色の春服を試着していると、服に畳み皺がある。その皺が季節の隅にあるように感じられる。三首目は捕鯨が盛んな和歌山県の港に近いスーパーだろう。冷凍ケースに鯨肉が売られている。あの巨体の鯨が小さな四角形になっているところにおかしみと哀れがある。四首目は庭先に現れたカマキリか。じっと観察していると辺りを睥睨した後に動きを止める。それがまるで哲学者のように沈思にふけっているように見える。五首目は春先の野焼きの風景。野焼きを見守る人たちが、顔を炎に照らされながら煙に隠されてシルエットと化す。これらの歌には移ろう時が閉じ込められていることにも注意したい。一首目の気付かぬうちに訪れる夕刻、二首目の春の到来、四首目のカマキリの動きと静止、五首目のやがて影となる男らが、歌の中に移ろい行く時間を表している。花や動物などの自然が多く詠まれているのは作者が和歌山県白浜の地に暮らしているからである。

 生きている時間が長くなると人との別れが増えるのは避けることのできない定めだ。本歌集にも夫の父母と愛犬との別れが詠まれた歌がある。

脳幹に血は広がりて術は無し舅の眠りはふかき水底

もう舅の世話をせずともよくなれどむなしき涙流れて止まず

つぎつぎと花屋は箱を運び込み菊の香満ちる喪の家となす

死者となりてゆらぐことなき存在は十年ベッドに動かざりし姑

治療止めし和顔の患者は医師なりき知の苦しみを持ちてありけむ

ひと日ひと日の命を抱いて過ごしたりわたしの犬の最後の十日

 一首目と二首目は舅との別れ、三首目と四首目は姑が身罷った折の歌である。五首目は死を間近にした友人の歌。友人は医師であるがゆえに自分の病状と死期が分かっていて、これ以上の治療を拒んだのだ。知ることの苦しみがそこにある。六首目は愛犬の最後を看取った折の歌。改めて挽歌は短歌の生理によく馴染むと感じる。

 作者の個性はなかんずく次のような歌によく現れているように思われる。

前歯なき子供かわゆし前歯なき大人おそろし何故ならむ

眉剃りし野球青年負けて泣くくちびる噛むとき眉毛は大事

金正恩の傲慢そうなこめかみに果敢に食い込む眼鏡のつるは

この世にて天の差配の罰ゲームもやしのひげ根ひとつずつ

かちにては遠き熊野へなめらかな道路すっとばして何しようぞ

水面より足逆立てる不可思議の美ありて人はこれを競り合う

 一首目、乳歯が永久歯に生え替わるとき、一時幼児の歯がないことがある。これは可愛らしい。にもかかわらず大人の歯が欠けているのが恐ろしいのは何故かという歌である。二首目、高校野球の選手か剃り込みを入れて眉を剃っている。しかし泣いて唇を噛むとき眉がないと様にならない。三首目、金正恩は太っているが故に眼鏡のつるが肉に食い込んでいる。その様を「果敢に」と表現するところがおもしろい。四首目はいわゆる厨歌で、食事の仕度にもやしのひげ根を取っているところである。根気のいるその作業はまるで罰ゲームのように感じられる。五首目は蟻の熊野詣と言われた熊野の地にあろうことか高速道路を通そうという工事に憤る歌。六首目はシンクロナイズドスイミング改めアーティスティックスイミングを詠んだ歌。水面から突き出している選手の足を見て、まるで映画の八墓村のようだと感じた人は多かろう。どの歌にもすっとぼけたようなユーモアがあり、関西弁で言うと「言うたらアカン」ようなことをズバリと言う肝の据わったところが感じられる。これが作者の個性だろう。

 集中で私が個人的に愉快と感じたのは「フジツボ学会」と題された一連である。

生物学者のお持たせカメノテ頭無く甲羅のなきをゆでて食せり

デンマークの国際フジツボ学会に名を連ね来し海洋学者

おみやげの鰊の酢漬けとチーズのせパン食めばデンマーク少し近づく

二十人というは多いか少ないか国際フジツボ学会参加者

 どんなものにも研究者がおり学会があるが、国際フジツボ学会は初耳だ。しかし和やかにカメノテを茹でて食べたり、鰊の酢漬けをパンに載せて食する光景はいかにも楽しそうだ。現在多くの研究者は研究費を削られ、インパクトファクターに追い立てられているが、知の喜びはそんなところにないことをこれらの歌はよく物語ってくれる。

 さて、私が本歌集を通読し巻を措いて感じたのは「生の濃密さ」ということである。本歌集に収録されたどの歌にも、濃密な日々の暮らしが感じられる。その理由のひとつは作者が紀州の地に暮らしていることにあるかもしれない。神武天皇と八咫烏の伝承、蟻の熊野詣が向かった熊野神社、熊野速玉大社、熊野本宮大社と熊野古道、青岸渡寺と補陀落渡海など、紀州には歴史の厚みがある。歴史の厚みがあるということは、そこに物語があるということだ。それに加えて紀州の豊かな自然が背景にあることは言うまでもない。

行きずりのわれを窺う射干の白連翹の黄またたきもせず

アサギマダラ見つけた報せ言いつぎて南下してゆく黒潮の町

 穂村弘は「酸欠世界」と題された文章で、飯田有子の「たすけて枝毛姉さんたすけて西川毛布のタグたすけて夜中になで回す顔」などの歌を挙げて、現代は酸欠世界だと断じた(『短歌の友人』河出書房新社、2007年所収。初出は角川『短歌年鑑』2003年版)。そして吉川宏志の「蜆蝶しじみちょう草の流れに消えしのち眠る子どもを家まで運ぶ」や、小島ゆかりの「花しろく膨るる夜のさくらありこの角に昼もさくらありしか」という歌を引いて、吉川や小島はこの酸欠世界の中で一人用の高性能の酸素ボンベを背負っているとおもしろい表現をした。その伝で言うならば、木下の歌の世界は紀州の森の放出する酸素に充ち満ちていることになろう。

 現代の日本が酸欠世界なのかどうかはわからない。とは言うものの、現代の若い歌人たちとっては、木下の短歌世界のような酸素の充満する濃密な生を生きることがとても難しくなってしまったように感じる。そのことは若い人たちが作る短歌に陰に陽に反映されているだろう。

 最後に特に心に残った歌を引いておく。

 

波乗りに飽きたる男のシルエット点景として秋ふかむ海

白梅にかすむ苑生は養花雨にぬれてこばめり人の気配を

巻き上がる蔓に支柱の尽きたれば深さ果てなし天上の青

高速道路延ばすとダンプ絶え間なし古道に届く仮の世の音

時を追い上り下りの特急が殴るごとくに擦れちがいたり

列島にマスクはみちて白桃はうすき皮もて水を包めり

青葱の切り口に水あふれ出て朝の光をとき放ちたり

 

 時の充実を感じさせる一巻である。