016:2003年9月 第1週 村木道彦
または、せいしゅんに立ちふさがるマシュマロと緋の椅子

ふかづめの手をポケットにづんといれ
   みづのしたたるやうなゆふぐれ

        村木道彦

 村木道彦は1965年に、『ジュルナール律』掲載の「緋の椅子」連作10首で歌壇に衝撃的なデビューを果たした。『ジュルナール律』というのは、中井英夫が編集責任の「A5版8頁という薄っぺらい」頒値50円の短歌雑誌で、7号まで出版されて消えたのだが、短歌ファンのあいだでは伝説的に語られている歌誌である。資金を提供したスポンサーは、京都にある精華大学の学長も務めた文化人類学者深作光貞である。

 意外に思われるかも知れないが、京都は短歌とゆかりの深い土地だ。その理由のひとつとして、京都大学教養部(当時 現在の京都大学総合人間学部)のドイツ語教員であった高安国世の主宰する歌誌『塔』が、数多くの俊英を輩出したということがあげられる。『塔』は現在では、やはり京大教授の永田和宏が主宰しており、指折りの有力な短歌結社である。ちなみに、永田の夫人は河野裕子で、その子は歌壇賞・現代歌人協会賞を受賞した永田紅である。血は争えない。また高安の影響下で京大短歌会が結成され、ここからも吉川宏志ら多くの歌人が出たことも特筆に値する。

 もうひとつの理由は、他ならぬ深作光貞の存在である。自身歌人である深作は、実作よりも現代短歌の陰のフィクサーとして活躍し、いわゆる前衛短歌の発展に大きな貢献をした。岡井隆が精華大学教授に迎えられたのも、深作の推挽を抜きにしては考えられない。また現在東大教授である社会学者上野千鶴子も短歌を作る人だが、東大に移る前は精華大学に勤務しており、上野が作歌を始めたのも深作の直接の影響によるものだろう。その深作の最大の貢献とされるのが、自腹を切っての『ジュルナール律』の創刊と、その編集を黒鳥館主人・中井英夫に一任したことである。

 さて、村木の「緋の椅子」連作10首であるが、これほどに人口に膾炙し、あちこちで引用される短歌も珍しい。なかでも「緋色の椅子」の一首は、村木の代表歌とされている。

 するだろう ぼくをすてたるものがたりマシュマロくちにほおばりながら

 めをほそめみるものなべてあやうきか あやうし緋色の一脚の椅子

 水風呂にみずみちたればとっぷりとくれてうたえるただ麦畑

 黄のはなのさきていたるを せいねんのゆからあがりしあとの夕闇

 唯一の歌集『天唇』収録の他の連作からも引用しよう。

 黄昏 (こうこん)のひかりみちたり 時計店 無数に時はきざまれながら

 せいしゅんはあらしのごときなみだとも いわんかたなく夏きたりけり

 ものぐさに砂踏みゆけば馬が居る うまのにおいのごときゆうぐれ

 ややよごれているガラスごしみはるかす金のむぎばた 銀の憂愁

 あくまでもマシュマロのように軽い口語の使用、柔らかな印象を生み出すひらがなの多用、「するだろう」に見られるような斬新な区切れ、また歌全体に充満する若さに伴う倦怠感と憂愁、村木の歌のこれらの特徴は、その後現代短歌に燎原の火のように拡がることになるライト・ヴァースの元祖というのが定説となっている。その調べのなめらかさと愛唱性は際立っている。

 サラダ短歌の俵万智は、「村木道彦の作品に出会ったとき私は、もうすっかり「ハマってしまった」という状態だった」(『短歌をよむ』岩波新書)と述懐しているが、俵に限らず多くの人が村木の調べに「ハマって」しまう。麻薬のような魅力があるのだ。短歌がまだ古典文芸であった当時、これほどまでに若い人を惹き付ける要素を散りばめた短歌が世に出たことは奇跡に近い。

 村木を世に送り出した中井英夫が、その当時のことを回想した文章がある(「遠い潮騒-「ジュルナール律」のこと」現代歌人文庫『村木道彦歌集』)。それによると、次の号に新人作品を特集することになり、麻布にあった深作のマンションに、村木を含む5人の新人を集め、あらかじめ寄せられていた作品の手直しを頼んだという。作者に改作を命じたり、自分で短歌の並びを変えたりする中井にとっては当然の作業であった。ところが5人のうち、村木の寄せた「緋の椅子」連作10首だけが完璧な仕上がりで、手直しの余地はなく、他の4人が作り直しを命じられて呻吟するあいだ、村木ひとりはすることがなく部屋の中をうろうろしていたという。このとき村木は若干22歳で、慶応大学に通う学生であった。だから、「緋の椅子」連作10首は最初から、今あるままの形で存在していたのである。中井は「深作の情熱に導かれて突如として現われた美しい亡霊」と書いているが、無理もないことである。

 村木の歌が伝説的に語られるのは、このように世に出た経緯にのみよるものではない。村木はその後作歌をやめ、いわゆる「歌のわかれ」をしてしまったので、なおいっそう「緋の椅子」が白鳥の歌のように聞こえるのだろう。村木が短歌をやめた理由については、自分で語っているインタピューがある。

「それから後がいけませんね。野心も入る、気負いもある、無駄なファイトもある。それから駄目になります。不思議ですね。(…)歌というものがほとほとつまらなくなってやめたんです」(『短歌往来』第3号)
華々しくデビューしたスターが陥るスランプである。村木を世に送り出した中井自身が、次のような手厳しい批評をしている。

「4月号に「おうむ」6首、6月号に「風たつや」8首と引き続いて発表したもらったものの、「緋の椅子」の輝きはすでになく(…) 輝かしい香気は「緋の椅子」を限りに四散した」(「遠い潮騒 -「ジュルナール律」のこと」現代歌人文庫『村木道彦歌集』)
中井が村木に言ったという、「君はショート・ランナーだ」という言葉が、すでに村木の未来を予見していたのかも知れない。

 長い沈黙ののち、村木は1989年にふたたび作歌を再開している。再び歌に戻ってきた村木が作るのは次のような歌である。

 壮年に春は深しも翔けのぼる雲雀を蒼天の冥きに吸われ

 傷口をこころにもてばガラス戸の雨滴は花のごとくひろがる

 晩年へなべては迅し雨脚も傘もひとらも傾きてゆく

 生くるとは疲労に重ぬる疲労なり「広告求む」という広告塔

 村木のデビュー作「緋の椅子」は、「絶対に、永遠に、二十歳の歌」(正津勉)であった。しかし、人はいつまでも二十歳でいられるわけではない。静岡で高校教員としての人生を送りながら、作歌を再開した村木の短歌に、坂道をころがり落ちるように歳を重ねる人間の苦みばかりが目立つのも、また無理からぬことである。

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